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この絵を見て脳に描いたことを言葉で表して絵に描いてみてください。
こちら ↓ 、ココんちの近所の教会の壁画です。
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この絵を見て、どのような物語を思い描くのでしょう?

こちら ↓ 、ルルドで見つけたこのモザイク画ではどんなお話が思い浮かびましたか?
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一枚目の壁画で左下で両手を広げているムッシュウと、二枚目のモザイクで右上の端っこでお手手を合わせてナームゥなフランケンシュタイン親父はどうも同一人物であり、ラザロ(仏蘭西語だと Lazare ラザール)という名前です。

おそらくどちらの画家さんも、新約聖書ヨハネ福音の11章の1節から44節を読んで絵にしてくれ、と教会のエラいヒトに頼まれて、自身の妄想、いや、想像で 一目でわかる長いお話 を表現されたのだと思います。一枚目の絵はこの教会聖堂を寄付したナポレオン三世が画家に依頼したのかもしれませんが。

話戻って、ラザロさんですが、私の手元にあるフェデリコ・バルバロ訳新約聖書(ドン・ボスコ社、1973年、第27版)によりますと、いえっさんがベタニアという町に着いた時、このラザロさんはお墓に納められて既に4日目だったそうで、家族や友人がその死を悲しんでおいおい泣いているのを見たいえっさんが墓参りがてら、墓石を取り除けるようおっしゃったと。すると、ラザロんの家族であるマルタちゃんがいえっさんに
四日も経っていますから、臭くなってますよ。
と、妙にリアルな発言をしたのです。ま、ニオいに敏感な私ならそこで「あなた、やってよ」と誰かに頼んで野次馬にまわりますが、いえっさんはマルタちゃんに「あなたが信じるならイイもん見せるって言ったぢゃん?」なーんて言ってマルタちゃんに墓石を動かさせ、
b0070127_21493932.gif ラザロ、かっもーん 
と、いえっさんが墓穴に向かって一声かけられたら、ラザロんが「Rebonjour à tous! 四日間のご無沙汰でした」と墓穴から出て来たんですってよ、奥さーん。

・・・・となりますと、バルバロ訳に近いのは一枚目の大きな壁画より二枚目のモザイク画の小さな絵でしょうか。なんでタイ風の挨拶でいえっさんに呼ばれて墓穴からぢゃぢゃぢゃぢゃーんなんだかわからないけれど、画家さんはそう想像し表したのでしょう。聖書には「ラザロが手を合わせて出て来た」なんて一言も書いてないけどさ。それより、
臭かったのかなあ・・・そこが知りたい。
この事件が現場で起こったのは今から2000年近く前のことで残念ながら現在、目撃者は誰も生存していません。記録文書を読んで各自が絵で表現すれば明らかな違いが出、そっくり同じだと盗作騒ぎやら没個性批判が起こりかねません。逆にこの一枚の絵を見て自分が思い描いたストーリーを言葉や文章に変えた場合、聖書とズレが生じたならば「ヨハネ11章、開いて読んでみまっし」と妄想と記録の違いを確認できます。そして、その違いを確認した本人に「絵で表現して」と頼めば、これまた新しい一枚の絵がこの世に誕生します。

そんなわけで、現場の目撃者が見たもののみが真実で、その目撃者が見たものを言葉で表現したらそれはもう目撃者の個性がその言の葉の中に含まれているのです。同じ文章を読んで脳裏に広げた世界についての表現を見聞して、どれが正しいか正しくないか?結局のところ、各自の想像力の真贋や、その言葉を発するヒトへの信頼を問うているに過ぎないのかもしれません。実際の事実は現場にいた者が知るのみなのだのだ。臭いについてはまさにそう。
あああ、その場にいなくて残念でした、っとぃ。
いや、その場にいなかったのも神のみ旨なのさ。← 赤のラッションペンで、はなまる。

le 10 février 2009, Arnaud
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by ma_cocotte | 2009-02-10 21:21 | 『?』なたわ言 | Comments(21)
Commented by Lucia at 2009-02-11 09:49 x
トリノにある、イエス様のご遺体を包んだとされている「聖骸布」を見れば分かるように、当時遺体は、一枚の布で背中側とお腹側がくるりと包まれ、その後ぐるぐる巻きにされてお墓に納められたようですね。そうなると絵に描かれているような格好はできなかったでしょう。
イエス様が神から遣わされた御子であることを群衆が信じることができるようにと、そこで奇蹟をおこなったと「福音書」は告げていますね。つまり、イエス様がラザロに「出て来なさい!」と大声で叫ばれるとラザロは「手足を布でまかれたまま出て来た。」と。
蘇ったラザロはその後も姉妹と共にベタニアで暮らしており、イエス様がそこを訪れた時に、共に食事の席についていた。それを見た多くのユダヤ人は、その奇蹟のゆえにイエス様を信じて、祭司長たちから離れて行ったために、祭司長たちは[イエス様のみならず]ラザロをも殺そうと謀った、と「ヨハネによる福音書」には記されており、そののちのイエス様の受難にと記述は展開していきます。
Commented by Lucia at 2009-02-11 10:04 x
ルルドのモザイクでは、ラザロがイエス様に感謝の意を表しているように、両手を合わせて表わされていますが、ジョット―は、ラザロが顔だけ見せて全身は布でまかれた姿を描いています。
カラヴァッジョのラザロは、既に布を解かれて抱き抱えられながら、手足を伸ばし、イエス様のお言葉を受け止めるかのように、右手を前方に差し出しています。ラザロの掌は、若きレオナルドが描いた《お告げ》のマリア様が天使に向けて広げる掌の様に、イエス様の方に向けられています。つまり「お言葉の通りになりますように」と言うジェスチャーですね。一方イエス様の右手は、ミケランジェロの《アダムの創造》に見られる、アダムに命を与えられる創造主の右手を連想させます。
登場人物が発した言葉を文字で表わす代わりに、絵画では、ジェスチャーが出来事の内容を雄弁に語っているのですが、その伝統も、神学解釈が変わってくると失われていくのでしょうね。
Commented by ma_cocotte at 2009-02-11 18:05
★ Lucia さま、
聖骸布についてですが、脳天に別布が置かれて縦長に包まれ、その後、
包帯上に更に包まれていたと学びました。これは、現在もユダヤ教や
イスラームの埋葬の決まりと通ずる習慣ではないか、と個人的には
拝察していますが。
ですから、一枚目の絵のラザロの身の回りの布はむしろ聖骸布研究の
推測に近いと私は見ています。この絵は1900年頃の作品だと思いますが、
聖骸布の研究話を画家が知っていた可能性は高いかと思われます。
Commented by あんとに庵 at 2009-02-11 23:13 x
ジオットーの絵には墓から出てきたラザロを見ている鼻つまんでる見物人がいるのだな。

「見てきたように書く」歴史記録者の謎というのは、歴史的事実を記しているはずの史書などに「密議」の内容が記録されちゃってるのとかありますね。密議だから誰も知らないはずなのになんででお前が知ってるんだ?という突っ込みはなしねというお約束な。
Commented by ma_cocotte at 2009-02-11 23:58
★ あんとに庵さま、
おお、それ、いいですね。
脇役を描くも描かないも画家の考え次第なのかもしれませんが、ルーヴルの
あのドでかいカナの結婚のシーンにしても脇役に注目すること忘れちゃ
なりませんよね。
あらためてヨハネの11章の長文を読み、ラザロについての絵画を見ると、
絵の世界の方が伝わってくるものがあるというか。文章は行間を読み
取り過ぎると脚色過多の説明をもらう。でも、もし絵について脚色過多だと
それも目で確認できるというか。文章解釈を文やら言葉にするとどんどん
深淵に入り込みかねませんか。宣教女が宣教先の文盲には言葉で
説明するより絵(イマーヂュ)を見せる、これが一番!とおっしゃってた。
私もその意見に賛成です。
Commented by Lucia at 2009-02-12 11:48 x
時間芸術である音楽とは違って、絵画や彫刻では一瞬しか表現できないという制約があるので、一つの画面の中に物語の推移を表す方法を画家たちは苦労して研究したのだと思います。そこで、ある一瞬の前後に起こったことを、登場人物たちの動作に振り分けて表わしたり、同一人物を一つの画面に何回か登場させる「異時同図」構図を考案したわけですね。

ジョット―の画面では、マリアとマルタはイエス様にお願いしており、右手前には墓石を除ける人達、右端には死臭に顔を背ける女性が現われ、血の気が失せて蒼白な顔のラザロの身体を巻いた布を解く男、ラザロが墓から出て来たのを見て驚く人たちも描かれています。
ジョット―が《ラザロの復活》の横に《アダムの創造》を描いているところにも、当時の神学者の説教の「絵画化」という事実が推測できますネ。
Commented by Lucia at 2009-02-12 12:09 x
付け加えると、ジョット―の《アダムの創造》の創造主は、《ラザロの復活》のイエス様と全く同じ姿で描かれています。創造主を、十字架が記された光輪とイエス様の年齢で描く(つまり、イエス様として描く)伝統はずっと以前からあったのですが、ここでは意図的に衣服までも同じにしています。それによって、イエス様が神であり、命の与え主であることを画像化しているのですね。

優れた絵画を見ることは、神様の御ことばを理解するには、確かにとても有効ですね。ただしそこでも、適切な「絵画の見方」が実践されることが必要なのでしょうけれど…。
Commented by ma_cocotte at 2009-02-12 17:41
★ Lucia さま、なるほど。
そうなると一枚の絵に付箋を添えられるとするなら、各人物の動きに
章節箇所を載せて物語のあらすじや時系列を追うことができますね。
これは面白いかも。
わが地元で絵画やステンドグラスを見ての印象ですが、イエズスさまの
お召し物が聖母とそっくりの薔薇色の服に青マントである作品が多いのです。
Commented by Lucia at 2009-02-13 13:45 x
ma_cocotteさま、その通りなのです。(今度は送信できるかな?)
イエス様の御心を一番良く理解しておられた方がマリア様だったから、お召し物を同じ配色にしたのではないでしょうか?
そう考える理由は、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂において、《山上の説教》の画面の上に、貧しい人たちに福音を伝える預言者として神様が選ばれたイザヤを、イエス様を見降ろすように配し、病を癒すイエス様の衣裳の配色に似せて預言者の衣服を描き、「闇を照らす救い主が現れること」をユダヤ人に告げた洗礼者ヨハネの衣裳の配色を、同じメッセージを異邦人に告げたと信じられていたリビアの巫女に採用して、しかも洗礼を受けられるイエス様を見やる姿勢で構想しているからです。
また、モーセの後継者としてユダヤの民を約束の地に導いたヨシュアが後継者に任じられる場面だけ、人類を罪の状態から救い、神の国に導かれるイエス様の衣裳と同じ配色だということもあります。
Commented by Lucia at 2009-02-13 13:49 x
書き直したら変な文になりました。意味が分かっていただければいいのですが…。
「そう考えるのは……構想しているという事実があるからです。」
「また、……同じ配色で描かれているという事実もあります。」という方が良かったかしら?
Commented by at 2009-02-13 14:45 x
ラザロはやっぱりにおってたんじゃないでしょうか。4日だし。
正教の聖伝でははっきり臭っていたことを伝えますね。イコンの描き方にあらわれてるのですが、マルファ(マルタ)他が口元をおおって「うぷ」と何かを堪えているように描くことになっています。これはそういう決まりなんだそうです。
Commented by ma_cocotte at 2009-02-13 17:39
★ Lucia さま、
赤と青の服装ですが、使徒ヨハネも同じ色で表現されていませんか?
フランスだけではないと思いますが、各地にイエズスさまの埋葬を
表現する彫刻が点在しています。最も有名な像はソレムの修道院聖堂の
ものかと思いますが、ポワチエの参事会聖堂にも残っています。
こちら ↓ です。
http://malicieuse.exblog.jp/7392287

この表現だとほぼ中央のヨハネが赤青の服です。
ヨハネは像でもステンドでも美青年で表現されることが多いですね。眼福。
Commented by ma_cocotte at 2009-02-13 17:41
★ 鰤さま、そうですね。もつ薬と混ざるとどういう臭いになるのだか。
マルタが「うっぷ」となりますか。お友達になれるかも。一緒に遠足に
行くとしたらバスの一番前の席だな。
Commented by Lucia at 2009-02-18 10:04 x
福音書記者ヨハネがイエス様と共に表わされる時には、無髭の少年を思わせる(つまり女性とも見紛う)若者の姿であることは確かです。服装の色に関しては、画家によって多少の相違が見られますが、ピンク系の赤と青の場合が多いようですね。イエス様から愛された若い弟子で、十字架上のイエス様が母マリア様を彼に彼の母として託された、ということから、、イエス様やマリア様の服装の配色に似た配色の衣裳をまとう青年として表わされたのでしょう。
そのことを知っていれば、『ダ・ヴィンチ・コード』の著者が美術史の知識に乏しかったか、わざとそれを無視して物語をつくりあげたことが良く分かりますね。
「システィーナ礼拝堂」におけるイエス様の服装の配色は、それぞれの画面において強調したいメッセージに合わせて、ピンク、赤、紫と、赤のヴァリエーションを使って描かれたり、《洗礼》画面ではそれらと違う配色になっています。
Commented by ma_cocotte at 2009-02-19 03:27
★ Lucia さま、
なるほどそういう人間関係も色の連想で表せるのですね。
確かに私が住むような田舎の教会のステンドグラスでもヨハネは
美しい青年で描かれています。
絵画もこういう面から考察すると文学というより数学っぽくもありますね。
面白いです。
Commented by Lucia at 2009-02-19 08:49 x
絵画制作に際して画家たちは、『聖書』に書かれている内容をできる限り的確に画像化しようと、様々な工夫を凝らしたことが分かります。
《お告げ》の場面では、大天使ガブリエルと乙女マリアが発した言葉こそが人類救済の核心であることから、両者の口から出た言葉を正確に文字で書き込んだ作例が多々見られます。でも、複雑な出来事を、そこで語られた全ての言葉を書き込むことで一画面に表わすことは出来ません。
そこで、各人物を特定する図像(人物の年齢、顔貌、服装、持物)と各場面における登場人物の表情と動作、色彩、背景等を詳細に描き、時には同一人物を複数回登場させることで、物語の推移や寓意的な意味までをも表わすようになったことが、美術の歴史を辿っていくと分かります。
しかし人物を特定する服装の配色に関しては、時代、特に作品が制作された地域によっては、かなりの相違が指摘できます。
ですから、画家、あるいは作品の注文主の文化的な背景を、絵画の特徴から類推することもできます。
Commented by ma_cocotte at 2009-02-19 15:57
★ Lucia さま、
いただいたお話で聖骸布の人相が宗派を超えて共通することを
昨年春の聖骸布展の講座で学んだことを思い出しました。

聖母ですが、最近のご絵は蛇ではなく三日月を踏んでいることがあります。
意味深すぎです(笑。
Commented by Lucia at 2009-02-20 09:51 x
ma_cocotteさま、蛇をイエス様と共に踏みつけるマリア様の画像で有名なのはカラヴァッジョの作品ですが、この図像はそれほど多くは残っていません。
三日月を踏んでいる聖母は、「ヨハネによる黙示録」12章1節をそのまま画像化したもので、《無原罪の聖母》の典型的な表現となっています。

聖骸布に現れている画像はとても不思議なものですね。一時はレオナルドが描いたのではないかなどとも言われましたが、布がずっと古く、また人が描いたものではないと判定されたとか。しかし、もし人の顔に布をかければ、立体的な頭部があのように写るというのは信じ難くもあります。布に写った顔はもっと幅が広くなってしまうのではないか…などと考えるのは、多少とも絵を学んだからでしょうか。
兎に角、説明できない特徴をもった画像だからこそ、贋作とは言えないのかも知れませんね。
Commented by ma_cocotte at 2009-02-20 20:58
★ Lucia さま、そうなのですか。
聖母像などは足の指間に薔薇の花、おみ足の下には蛇という像が
多くありませんか?
三日月を踏んでいる聖母が黙示録に基づくものなら、なんだか本当に
預言書みたいでそら恐ろしいですね。三日月を踏む聖母、欧州社会では
意味が深すぎます。

聖骸布ですが、頭部には別布を置いています。
この布はスペインで発見されています。聖骸布とこの頭部の布にこびり
ついていた花粉が地中海東岸で飛び散る花粉と同じ種であることも
わかっているそうです。頭蓋骨部分を布の外から包帯巻きをしたら、
確かにもっと横広の顔になりますね。
Commented by Lucia at 2009-02-23 11:43 x
フランスではご覧になる機会はないと思いますが、イタリア語のP.Giuseppe M. Toscano, Il pensiero cristiano nell'arte, vol.II, Bergamo, Istituto Italiano d'Arti Grafiche,1960, pp. 9-104が《無原罪の聖母》の画像について割かれていますが、その一番最初に取り上げられているのが、「黙示録の女性」の画像です。
古いものでは5世紀の写本が挙げられており、そこでは十二の星で飾られた光輪をもつ女性が、太陽と月の上に立っています。月は、頭上に三日月を載せた女性の頭部、つまりローマ美術に登場する「ダイアナ」の頭部となっています。ですから、イスラームとはまったく無関係です。
聖母の足の下に三日月が表わされる、有名なムリリョの画像タイプが一番多いですが、三日月に腰かけた聖母や、下を向いた三日月や球体に立つ作例もあります。また三日月に蛇が巻き付いた画像もあります。
現代美術では三日月を深読みして、描かなくなったのでしょうか?
Commented by ma_cocotte at 2009-02-23 16:53
★ Lucia さま、
最近販売されている御絵の聖母が三日月を踏んでいるパターンが
増えているようですが?

5世紀にはイスラームは存在していません。ムハンマドさまは西暦571年
生まれです。これを頭の片隅に置くなら、571年以前の表現については
むしろ預言として捉えられることも凡人の間ではありえそうですね。
ダン・ブラウンなんぞが面白いトンデモ本を書いてくれそうです(嘘。

私のような「聖母がなぜ素足で蛇を踏むのか」について先に習った立場ですと、
現時点で蛇が三日月に変わったご絵でドキリとするのはありえることかと
拝察します。真面目に見せられた瞬間、ドッキリしました。
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