<< 呆気なく、ブロークンはあと。 恐惶しない人による強攻により教... >>
1×9=1 という不可知な価値のもの。 Une prière × 9 = La neuvaine
例の 「出て来い!ウヰリアムソン君」とその仲間たち に 1988年7月18日付の修道会創立宣言 直後から「偽物」扱いされている聖ペトロ会 la Fraternité sacerdotale Saint-Pierre のみんなたちが今年1月21日以降のFSSPX 5司教破門解除に伴う諸事情で教皇B16 のご心身に苦しみを与えていることから、世界中の「B16とヴァチカンに通ずる教会が大好き!なみんなたち」に「一緒にノヴェナをしませんか?」とお誘いがありました。
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Neuvaine pour le Pape et l'Eglise


ノヴェナという単語は羅典語で「意向を添えた祈りを9日間続けること」を指します。仏蘭西語だとヌヴェーヌ la neuvaine になります。「1」を9回足したり繰り返しても「9」になるはずのになぜか「1」になるので単数の冠詞が付き、そして neuv- が頭につくのに尾っぽに -s が付きません。これ、ミソ よ。

さて、こんにち2009年2月14日から22日まで聖ペトロ会が主催するノヴェナでありますが、以下、英語版、仏蘭西語版のURLをご覧あそばせ。
英語 : Appeal for Novena for the Pope Feb. 14 - 22
仏語 : Neuvaine pour le Pape et l'Eglise
どうしても全文羅典語で唱えたい人はご自分で訳すという週末の楽しみ方もございます。
がんばってくださーい。
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ところで、みんなたち。
なぜ 出て来い!ウヰリアムソン君とその仲間たち が FSSP を「偽物」と呼ぶのでしょう?

その抜本は次のとおり。
今回のノヴェナを主催しているカトリック男子修道会 FSSP の創立当初の聖職者(以下敬称、P.)、修道院長(同、Abbé) 、助祭 (diacre)(P. Josef Bisig, Abbé Ph. Tournyol du Clos, P. Gabriel Baumann, Abbé Christian Lafargue, Abbé Patrick du Fay de Choisinet, Abbé Albert Jacquemin, P. Klaus Gorges, P. Engelbert Recktenvald, Abbé Christian Gouyaud, P. Franz Prosinger, Walthard Zimmer (diacre), Abbé Denis Coiffet ) 以上12名は元々ルフェーヴル師が創立した FSSPX に所属していた方々でした。とっころが1988年、ルフェーヴル師が教皇からの認可を待たずにFSSPX に所属する四人の司祭を司教に独断で任命することを事前に知った彼らは教皇に従うことを決意し、ルフェーヴル派から離れ、教皇(JPII)に直に赦しを乞い、庇護を求めました。この複線があり、1988年7月2日にエクレジア・デイ Ecclesia Dei という公文書 で教皇はルフェーヴル師と4人の司教についての破門を宣言しましたが、同じ年の同じ月18日にはこのFSSPX から脱藩した人々が FSSP なる修道会の創立を宣言し、その4日後にはエクレジア・デイ委員会より FSSP 認可の文書 が公に発せられています。更に同年9月10日にはエクレジア・デイ委員会よりこの新しく認められた男子修道会において 1962ミサ(ラテン語典礼を用いる背面ミサ)を続けることが求められる文書 が出されました。
詳しい話を続ければ、1962ミサと呼ばれるラテン語典礼文を用いた背面ミサの形はこの FSSP 修道会だけでなく、世界中の教区長(司教、大司教)の判断で教区教会でも1988年7月2日のエクレジア・デイ発布を境に認可がおりて続けられているのです。

どうしても1962ミサにあずかりたい人は自分で動けば見つけられたのですよ。動かないで風聞で惑うから、頭ごなしにカトリック教会が1962ミサを禁じ、続けているのはFSSPX のみなんて思い込み、自らも宣伝していたりするのです(カトリックにおいて無知による言動は罪ぢゃないよん)。

それは兎も角、FSSPX と FSSP のどちらが本物でどちらが偽物なのか?
少なくともFSSPX 側は、FSSP も、2005年にFSSPX が追放した司祭方、修道者、神学生が現在は教皇庁の下で守られている神の牧者神学校 L'Institut du Bon Pasteur も偽物かつ本物の聖伝のミサとかいう代物をあげていないまがい物なんだとほうぼうで主張しています(教皇庁と教区長がFSSP と神の牧者会の司祭には司式認可を出しているのにだよ?)。
そして、ついでに以下。FSSPX はカトリック教会の司教が授ける堅信も油が偽物だから聖ピオ十世会で再堅振(← 「けんしん」の「しん」の字が違うことに注目。堅信という表現は第二ヴァチカン以降の日本語だからFSSPX では使わないのだな)を受けるよう勧めてもいます。

でもね、1988年から現在に至るまで教皇さまも高位聖職者も教皇さまに庇護を求めたFSSP と Bon Pasteur の会員を育てることを怠りませんでした。創立20年を迎えたFSSP には女子修道者の小志願院創立も認可し、ローマ管区設置も20年目にして認め、ローマ市内の一聖堂も任せました。Bon Pasteur に所属する神学生もローマに招いています(こちら で神学生のローマでの生活がご覧になれます。美しくてがーぶちょんで ハァハァ ですわよ!そ、し、て、彼ら神学生のマスコット黒猫ギュスターヴがかわゆすぅううう)。

私の母校の修道女は常々「神さまはお優しいけれど甘い方ではありません」とおっしゃいます。どうやら教皇B16も「優しいけれど甘くない神」に倣い、FSSPX にローマ管区を与えるというプレゼントを見せるまで20年の月日をかけました。20年前に生まれたベイビィが成人式を迎え、家族に喜ばれるように、です。子育てになぞらえれば、教皇さまもスタッフも喜怒哀楽こもごもで大変な道程だったと拝察いたします。育てられる方も教皇側から命じられることにめげそうになったこともあるンぢゃありません?自己快楽やら自分の望みだけで大人になり、他人に認めてもらえるなんてこと、まずありません。

FSSPX 創立者であるルフェーヴル大司教はFSSPX で最長上としてこの世でのミッションを終え帰天しましたから、ルフェーヴル師を頂点やら中心に見れば、ルフェーヴルさまから離れたFSSP会員もBon Pasteur会員も分派でしょう。でも、彼らを引き取って守り育てているのは教皇さまと教皇さまから任命された枢機卿、司教方です。どちらが本物って?こんなことどうでもいい傍観者が冷静にカトリック関連資料やら読みまくって判断するなら、今も教皇さまのマントにしっかりくるまれ、厳しくも愛情をもって育てられている「ルフェーヴルから離れた人々」にしか見えませんがいかがなもんでしょ?

1988年から20年経ち、教皇さまのマントの中に再び招かれた「本当の親無くしてひとりで成長した羊たち」が実は黒山羊やら狼だったらどーします?・・・って、FSSP のノヴェナ文書の中に書いてあったぞい。ったく、マントの下で蚤が発生したら痒いぞ、痛いぞ。医者を呼べ!です。そんなカトリックワールドで最良のお薬はみんなたちの9日間コンサントレイシャンプレイングなんですのよ。そんなに大変ぢゃなさそうなんで、お気楽極楽に実行してみるのもよろしかろ。愛の日(2月14日)からペトロの肉の日(2月22日)まで。

何事も目に見える真贋で自らが正統であり、他者が偽者、敵だと証明し始めると、本当に大切なことが見えなくなりませんか?.....肉って腐って塵に戻るんだよ。

さあ、お手手を合わせて、なーむぅ・・・・ぢゃなくて、あーめぇん。

le 14 février 2009, Valentin


【追記】上記にも登場の、2005年にFSSPXから追放され、現在は教皇と教皇庁の庇護の下にあるL'Institut du Bon Pasteur の長上がご自身のブログで今回のウヰリアムソン発言についての会の立場を表明したようです。
le blog de l'abbé laguérie
Mgr Williamson : la position de l'IBP. 2009-02-13 08:57:44
なんつうかFSSP や L'Institut du Bon Pasteur が何を表明しようと、マスコミが取り上げようとも、FSSPX 側はこの二団体が偽物であるということと、マスコミもひっくるめて教会内の敵とヒダリに騙されており、正しいのは FSSPX のみであると主張する繰り返しでしたし、これからも繰り返されることでしょう。あの破門解除って「本当に破門を解除しただけ」という教皇庁側のお話は本当に本当ですね、はい。なんら破門解除前日の1月20日までと変わらん。
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by ma_cocotte | 2009-02-14 16:54 | 『?』なKTOりっくん | Comments(7)
Commented by イエズスのペトロ  1 at 2009-02-15 02:18 x
今晩は!フランスに滞在されている方だったのですね。分からなかった・・・(^_^;)。実は私、今は異端とされている<リトル・ぺブル>率いる一派に属していた事があります。受洗前のカトリックの奥深さについて何も知らなかった時期とはいえ、予言だの、奇跡だの、様々な《不可思議》な事に興味を持っていた私にとって、とても魅力的だったのですよね。

受洗後、2~3年の月日をかけて良き神父様方と出会い、黙想会などに参加し、話を聞き祈る日々を過ごすうちに、何というか<リトル・ペブル>一派の教えの不確かさ・エキセントリックな雰囲気などに強い違和感を感じるようになり交流を持つことを止めました。

でも、受洗のきっかけを与えてくれたのは、この一派との出会いだったりするのですよね。本当に神様の導きは杓子定規では計れないものだとつくづく感じ入る次第です。

Commented by イエズスのペトロ   2 at 2009-02-15 02:20 x
今回のブログの内容で、私が過去属していた一派が、ルフェーブル大司教?様は実はフリーメーソンの手先だった・・・。みたいな事を吹聴してました。何も知らない受洗したての赤子の私は全部鵜呑みにしていましたし、御聖体を手で頂くなどもっての他!!ひざまずかないなんて神様への敬意が足りない!なんて思っていましたけれど・・・。

今回のブログで真実を明らかにして頂いて、やっぱり脚色されて、危ない思想を教えられてたんだ~。(-_-;)と再認識させられたような気がしました。内容がとても具体的なので分かりやすかったです♥ありがとうございます。(*^_^*)

Commented by イエズスのペトロ  3 at 2009-02-15 02:20 x
更に、司祭が背面式でのミサや、ここには書かれていませんが舌での御聖体拝領。また立ったままではなく、ひざまづく行為など認可され教皇様の庇護の下許可されているというのに、(異端では無いし、時代遅れでも無いという事ですよね。)現在の日本では、地方に行けば行くほど、舌で受けようとすると手を差し出すよう促され、ひざまづくとミサ後に神父様に注意を受けるなどの事象が多々あります。それを行う事を強制する事は出来ないと定められているはずなのですが、どうしても神父様の考え方に従わないと異端視される傾向があります。手で拝領する事をこばんだら御聖体を頂けなかったなどという話も多く聞こえてきています。

他にもおかしいな・・・?と思うところは日本にも多々ありまして、余り細かい事にこだわっているとミサが苦痛になるので柔軟に対応するに越した事はない・・・。ある意味自己のミサの形式に対する思いや考えを捨てて、その場その場のミサの形式に従って預かるのが一番心安らかで安全で、無難な態度という事になってます。

Commented by イエズスのペトロ  4 at 2009-02-15 02:22 x
何かそれは違うのでは?と思うのですが、私は典礼にうといし、神父様とミサ形態の事で議論する気も無いので、上記のような柔軟な心と仕方ないや~というあきらめ的な心で預かっているというのが現状です。

本当に考え方も十人十色とは言いますが、教会が承認している事を止めさせようとする日本の教会の現実もまたやはり、何かおかしい・・・。そんな思いでいます。

>>何事も目に見える真贋で自らが正統であり、他者が偽者、敵だと証明し始めると、本当に大切なことが見えなくなりませんか?.....肉って腐って塵に戻るんだよ。

とても心に響くお話しでした。長々と失礼致しました。読んで下さってありがとうございました。m(__)m
Commented by ma_cocotte at 2009-02-15 06:04
★ イエズスのペトロさま、コメントありがとうございます。
いただいたお話、深いですね。うなずくことばかりでした。
私はたまたま幼稚園からカトリック環境に入ったことで意識せずにカトリックの
道徳や習慣を受け入れていたと思います。もちろん反発ばかりしていました。
高校を卒業してかなり経ちますが、今も母校のシスターとの交流がありますが、
最近、シスターがしばしば日本のようなミッション国だとさまざまな入口が
あり、カトリック校に受け入れた子供たちの入口と他の成人洗礼の入口は
まったく異なるのではないかとおっしゃるようになりました。それはイエズスの
ペトロさまがおっしゃる「奇跡や預言に興味を持って」という先入観がある場合も
ひとつですね。現実で人と人との良き出会いがあれば、カトリックが
実は奇跡や預言についてとても冷静に、科学的分析もろもろに基づいて
判断するなどわかって、自分が期待していたツボと違うことに気付かざるを
得ないこともあるかと思います。どうでしょうか?
Commented by ma_cocotte at 2009-02-15 06:05
★ 跪きの所作についても、発想の転換が必要な気がしています。
というのも、例えばカトリックの学校に集う子供たちは信者であろうが
なかろうが見様見真似で跪きをはじめとする聖堂内所作を覚えていきます。
でも、それは何が何でも跪かなければならないというより(これもシスター
からいただいた言葉ですけれど)「本当に祈りたい時、人はおのずと
跪くものではありませんか?」と。暗記した祈祷文を跪いて唱えれば
届けられるというより、どんな愚痴でも本当に神さまやマリアさまに
聞いてもらいたければ気付かぬうちに跪いているものぢゃない?
みたいなものでしょうか。なんかこれは感覚的に納得できたりしています。
ロザリオを唱えれば自分がどんな悪いことをし続けようが天国直行だとか
言ってくる人について私個人はちょっと「?」だったりもします。なんか違いますね。
上に書いたように神さまは優しいけれど甘くないのではないでしょうか?
Commented by ma_cocotte at 2009-02-15 06:06
★ 典礼の件については世間で吹聴されている1970年以降の話は
必ずしも本当ではないと思います。私は子供ながらに傍観していたけれど、
第二ヴァチカンでも穏やかに修道会が受け入れていたように思います。
思うにJPIIの御世になってから典礼にしても聖歌にしても所作にしても
応用幅が広くなったように見えます。個人の好き嫌いが現状のように
言えるのもそれゆえですよね。だって1970年代はミサは赤い式次第、
聖歌は黒革の聖歌集のみで、各教会の違いは司式者の説教内容だけ
と言っても過言でありませんでした。でも今は違いますよね。「あれは
いいけど、これはだめ」って誰にでもあるけれど、自分がきらいな「これ」
で他人がひとりでも救われていたとしたらもう私たちの立場ぢゃ何も
言えないのではないでしょうか。それも「本物の救い」ぢゃないと言われ
ちゃえばそれまででしょうが。真贋を語れる立場も凄いっすよね(笑。
形骸化と言うんでしたっけ?教条主義が原理主義まで行くと問題ですし、
本流を語ったところで、他宗派やリベラル派が安直に「それは原理主義ですよ」と
頭ごなしに口封じするのもよくある話です。
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