<< イ ツ モ 、ア ナ タ ヲ ... ううう、うっかり、 >>
かつてそんなことがあったのですね。
現在、フランス時間で、2009年4月23日午前11時になるところ。
丁度一か月前のほぼ同じ時間、私はこんなところに行きました。
b0070127_1834880.jpg
ご存知の方はご存知の、あ!あそこ~?です。
ココは聖ピエトロ大聖堂向かって左、郵便局やらご不浄の先にある、がーぶちょんな関所 ↓
b0070127_18392940.jpg
の向こう、左に曲がって右に曲がった奥の左です。

ここの関所は「forbid(仏蘭西語でいうところの Interdit 絶対通行禁止」ではありませんから、決められた手続きで認可を求めれば、許可証が下りるので、それを提示すれば実行できるのです。以下、一例。「あがないの秘跡 Redemptionis Sacramentum 」から。
[104.] The communicant must not be permitted to intinct the host himself in the chalice, nor to receive the intincted host in the hand. As for the host to be used for the intinction, it should be made of valid matter, also consecrated; it is altogether forbidden to use non-consecrated bread or other matter.
[101.] In order for Holy Communion under both kinds to be administered to the lay members of Christ’s faithful, due consideration should be given to the circumstances, as judged first of all by the diocesan Bishop.
ま、何だな。
The communicant must not be permitted to
は上の関所のシステムと同じで、面倒くさくてもコツコツと手続きを踏んで、認可を求めて、何年かかったとしても 許可がおりれば実行できるけれど、
it is altogether forbidden to ~
こちら ↑ は手続きの方法の術が存在しません。問答無用の絶対禁止。「絶対」だから「神さましか許せない」のです。小学6年生の時、担任だったシスターが私たち児童に「この世で「絶対」という単語を用いることができるのは神さまだけです。ですから私たちは「絶対ゆるさない」など軽々しく口にしないように」と習ったことに感謝です。だって上の英文の微妙な違いがわかりますからして。Forbid という単語を用いて禁じているならば、そこは謙虚、従順な聖母を思い出しましょう、なのです。ま、納得行かないなら
as judged first of all by the diocesan Bishop
ファーストオブオールで教区長に判断を委ねる こってす。順番を間違えて本社や支社への直訴は上の掟を破ることになるぞえ。そもそもカトリックワールドにおかれましては神さましか許せないのだから、聖母にお取次ぎを願って自分の願い「絶対禁止の撤廃、いや、解除」を黙って地道に祈り続けるのが最善の早道・・・だと、あたしゃガッコで習ったね。適わないうちに天国に行けたらそれもしあわせってぇもんよ。

ヴァチカン市国の関所も手続きをして通行手形を頂戴したからこそ歩いて通過できます。全速力で駆け抜けても、よその門 ↓ からコソコソ侵入しようとしても、聖別済みの槍でドスっと突っつかれるだけ・・・(え?ならばやってみようかな・・・・おいおい。
b0070127_20185514.jpg
いや~、裏門って本当にいいですね。

開いてて良かった。
そこはかとなく労働の香りが漂う裏門の制服が好みだったりします。うふふ。

w(*゜д゜*)w あ、ついうっかり手が動き、英文をコピペしたことで話がズレましたが、元に戻って、関所の先の奥の奥。ココの玄関から先の撮影はそれこそ「絶対禁止」ですので、ここから先の写真はございません。
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それは残念!なほど、この玄関から先の世界は素晴らしいものでした。巡礼団に加えていただいたことで、この玄関左のサロンで所長(超ウルトラかっこいい)のお話を一時間も伺い、この玄関右のアトリエとモザイク石の収納庫を拝見することができました。七曲署のユーコ・アサノでいいですから雇っていただけたら、その場で地上天国です。お茶くみでもお掃除でもいいけれどモザイク職人さんになってみたーい。ゴーグルつけてたまねぎを刻むように石片を切ったり、砕いて板にペタペタするのです。窓のない倉庫にだってどっぷり浸れることがあたくしにはできてよ。ああ、なんてステキなの~。

で、ここで再び脱線。今、わたくしが
ココの玄関から先の撮影はそれこそ「絶対禁止」ですので、
ここから先の写真はございません。
と手を滑らせたばかりですが、このアトリエ内部の写真を掲載したブログがGoogle検索で引っかかります。そのブログのコメント欄に以下のようなコメントを発見。
April 3, 2009 at 12:50 pm
Paolo Di Buono
My name is Paolo Di Buono, I am the responsible of the Vatican Mosaic Studio.
I would like to understand why did you publish the photos of the Vatican Mosaic Studio without any authorization.
I hope to have soon an explanation by email.
Otherwise we will be obliged to begin a legal procedure in order to remove the photos.
Best regards.
へ?「ぱおろ・でぃ・ぶお~の」ってあの麗しのショチョさまではありませんか!それにしても、
あまりにナマナマしすぎる実例
あっりがとー、かみさま、あっりがとー060.gif
今月3日の書き込みですからして、ひぃ、ふぅ、みぃ、よ、いつ消去?
The Authoization、= 認可の申請をして許可をいただければ掲載が可能になる可能性があり、ショチョさんは「絶対ダメ」とはおっしゃっていないことも芳醇蔵出し味噌でございます。


え、、て~、元の話題に強制送還。
流暢なフランス語による所長からのお話は多岐に渡っており、脳みそツルツル凡女の私は「知る喜び」スパークリング。まずは教会美術史において、隣国とは言えイタリアとフランスの聖堂内装飾美術文化がまったく違うことが「知る喜び」でした。負け惜しみになりますが、所長さまから説明を伺ったことで「あら、ほんと」なほど明らかな二者の違いですが、フランスの教会美術はステンドグラスにあり、イタリアの教会美術はモザイクにあるという第一定義ですね。ですからイタリアの聖堂の窓はくぅもーりぃガラスを~、で、窓は無地で地味なのです。逆にフランスの聖堂は白壁が特長で、太陽の動きで陽光がステンドグラスを抜いて白壁に表現する色の芸術がすんばらしい(この条件に加えて抹香の煙が光の空間に立ち上るとあまりの美しさに感涙)。フランス国内でモザイクで圧倒されるのはリジューとルルドの大聖堂でしょうか。記憶が定かではありませんが、パリはモンマルトルのドーム天井もモザイクでしたっけ?フランスの聖堂内装飾の場合、色がついたところでモザイクではなく壁画が主流だと思います。まあ、古い教会建築であればあるほど窓が小さくなるということは大学の基礎課程の美術史でも学べ、確か窓が小さくなると柱が太くなるのです。今回の巡礼で教会訪問を始める前にローマにおけるキリスト教伝来前史遺跡を巡りましたが、イエズっさんのお誕生前からローマには既にモザイク文化がござったので、モザイクは元々は土着文化だけど、そこに信仰という目に見えない、量れない力が加わったことで美が開花し、発展し続けていることになります。

あー、止められないわぁ、この手の話。でも、止める。
・・・モザイクのネタはココではココまで(笑)。また別項でねちっこくしゃべりますので、みんなたち、いろいろいっそう深く教えてください。

次に所長から伺った話はモザイクとヴァチカンの関係。宗教というより国際政治や外交に関わる面です。このステュディオのパトロンはヴァチカン市国になりますので、国家元首である教皇さまが海外を訪問する際、訪問先の国家元首に贈られるのがこのアトリエで作られたモザイク画になります。φ(._.) ニャルホロ 訪問先がキリスト教国の場合、聖画をさしあげますが、例えば日本國のようなキリスト教以外の宗教の国や社会共産国を訪問する際には風景画をさしあげることが前提にあります。と、こ、ろ、が、一度だけ例外がありました。それはヨハネ・パウロ二世がキューバを訪問した際、事前に教皇さまにどのようなモザイクにするかプランを伺ったところ、キューバは共産主義国にも関わらず教皇さまが「聖母子画を持っていく」とおっしゃり、正教会のイコンのような、カトリックで例えるなら「絶えざる御助けの聖母」のようなイメージのモザイク画をキューバのカストロ氏の手に差し上げたのだそうです。「教皇さまはいったい何を思われたのでしょうかねぇ」「・・・さぁ?」という我らが会話のオチではありましたが、なんかショチョさまのこのお話が耳に入るなり目頭が熱くなってしまったというか、素直に感動しちゃった逸話でした。え?感動しませんか?感動しましょうよ。ゆえに、

....しんみりとこの項、閉幕ぅ。祈れ。ちゃう、祈りましょう。 Prions...

le 23 avril 2009, Georges
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by ma_cocotte | 2009-04-23 17:58 | 『巡礼』 Rien de spécial | Comments(15)
Commented by comme_ci_comme_ca at 2009-04-23 22:41
スレ違いですが、以前お約束していた日本のエマウス、エマウスワークキャンプについてブログを書き始めました。ハンドルは変えました。
宜しければ御覧下さい。
http://tetsutanto.exblog.jp/
Commented by ma_cocotte at 2009-04-24 02:27
★ comme_ci_comme_ca さま、お知らせありがとうございます。
1981年当時からの活動の様子を伺えますこと、勉強になります。
先月、ローマに参りまして、シャルル・ド・フーコーの修道会やエディシオ
の活動も見学することができ、近年の世界を思うと、カリタスはじめ
エマウスや他の修道会、世俗組織の活動が改善のためにいっそう求められて
いると思うのです。お祈りします。
貴ブログ、リンクし、拝読を続けますのでよろしくお願いいたします。
Commented by ma_cocotte at 2009-04-24 02:41
★ イエズスのペトロさんへ。

  >私はそこまで神経を使います。

それも自己責任であって、ここで宣言する必要はありません。

  >歩行者が後ろ向きに歩いているアングル
お昼時間に昼食に向かうために外出する方々に職場に帰っていただく、と。
何か不都合があったらご本人から私に連絡があります。
貴方が予防することではありません。

このブログ、貴方のために私が借りているのではありません。


  >反省の色の無い同じ穴のムジナさんへ

蟻地獄とか、穴の中の狢とか、貴方が選んだたとえでは天空と貴方の間に
私がいますね。
私は天の方向を仰ぎます。穴にひれ伏すことも自ら好奇心で落ちることも
しません。もし穴に私の意に反して引き摺りこまれるとするなら、友が私を
引き上げてくれます。そういう危機を見たら、互いに助け合いながら生きている
友の中に私はいます。
Commented by あんとに庵 at 2009-04-24 02:59 x
まことにくだらないレベルのいいがかりになっておる人がいるようですな。あらゆる写真媒体に文句言うといいと思われ。手元にある旅行雑誌にも正面向いた大量の人が映っているぞよ。

あまりにも馬鹿げている言いがかりであるが「なんとしても相手をへこませたい」という意識が見えてくるのが、なんとも情けない。

しかし、そういう思いに駆られてしまうのは霊的に宜しくない状況なので、ちーとばかし一人になって祈ったほうがいいんではないか?

敵対心ばかりが肥大しているのはよくないよ。そういう心は自分に帰ってきてしまうよ。結局、辛いと思う。
Commented by あんとに庵 at 2009-04-24 03:03 x
で、本論。

フランスは建築史上革命的なゴシックを発見したんですな。イタリアはおれっちのロマネスクがすんばらしいと思っていたので、ゴシック(野蛮)などと揶揄していたのですが、フランスのクリュニーをはじめ、ゴシックによる柱の堅牢さによって開校部を広く取ることが出来、ステンドグラスが実現するんですね。ロマネスクは壁で支える建築なんですよ。

これは気候の差というものもあります。イタリアのように暑い土地では壁の厚さは大切ですが、フランスの特に北部では陽光が大切だったと言うこともありましょう。
Commented by あんとに庵 at 2009-04-24 03:13 x
経済上の理由もあるかもしれませんですね。
イタリアのように豊かではなかったフランスでは、モザイクのような石を用いたものははじめは贅沢すぎて使えず、絵画で代用していたという話を聞いた事がある。まぁ経済の力関係はどこかで逆転してくんだけど。

土地で取れる石などを用いねばならないという事情とか、様々な要因で建築は限定されていくという事もありますね。トゥールーズに煉瓦建築が多いのとかはそういう事情があるって話を現地で聞きましたです。石が採れないんだと。

モザイクというとビザンツですなぁ。ラヴェンナとか。

Commented by ma_cocotte at 2009-04-24 04:27
★ あんとに庵さま、何か問題があればご本人からお話がありますから、
大丈夫です。ショチョさんからコンタクトがあったらどーしよー。ワクワク、違っ
こーゆーことも十字架だから祈ろう、という鍵コメも既にいただきまして、
みんなに祈ってもらえて幸せな人ぢゃないかー、と他人事Ψ( ̄∀ ̄)Ψ

ローマでいくつもの教会建築や美術を拝見してから、こちらでの教会が

  ちゃちい
  偽物

にしか見えない。しかも、先日のポワチエ詣でわ
http://malicieuse.exblog.jp/10687944/
美しい彩られた柱や壁を見ても、

  カネがないからモザイクでなく塗ったのねー ヽ(`Д´)ノ

なんてついうっかり思ってしまう。イカんですたい。
が、無からの創造で新しい美が生み出されたことも結果、遺産です。
Commented by ma_cocotte at 2009-04-24 04:37
★ でね、あんとに庵さま、
ローマ巡礼の最後の夜の反省会で、ヴァチカンや他教会の芸術批判を
「Richesse (英語で言うところのRich)」で批判した輩が数名いました。
一見、インテリなマダムが筆頭。あの美は「イエズスの人生」ではない、
だって。
ところが、枝の主日にわが地元教区の大司教さまがユネスコ遺産登録
されている聖堂であげたミサが国営放送で生中継され、かなーり
社会司牧重視、典礼軽視で知られる司教さまだけれど「教会の
芸術は信仰あっての遺産である」と断言されていました。パチパチパチ
大司教さまがおっしゃるには信仰の表現そのものが「美」なんだって。
パチパチパチ。
そうおっしゃりながらもイスラーム・アラブの留学生がフランス人学生に
比べ、宿泊施設を見つけるにしてもアルバイトを探すにしても苦渋が
多いので、善良なカトリックよ、できることをしようではないか!と
決起を促してやした。
Commented by あんとに庵 at 2009-04-24 05:07 x
おお、大司教様は美がなんたるかをよく判っておられて嬉しいです。聖フランシスコですら教会に捧げるものは最高の美をと考えていたのですから。(マダム達は自分ちは飾ってるんだろうな・・・。)

しかし、聖母子像描いてる最中ですんで、ええ話を有り難う。
信仰には全然自信がないけど先人の信仰をまねびて頑張りやす。

経済格差というのはいかんともしがたいわけなのですが、しかしその逆境の中で優れた絵画を発展させていったのは素晴らしいですよね。きんきらなモザイクもそれなりに素敵ですが、わたくしはフランスのど田舎の素朴な教会の壁画や像に感動したりします。
Commented by ma_cocotte at 2009-04-24 05:26
★ あんとに庵さま、図星。
なかなかおしゃれなマダムなのよ。いんてり・おぶるぢょわな雰囲気。
そこまで「貧」を賛美するなら、まずご自分をどーにかしろよ、と思たね(笑。
ミサはここ、サン・サヴァンの聖堂だったけど青年向けミサだったから・・・
http://www.abbaye-saint-savin.fr/index.php

なんというか教会芸術遺産についてはすばらしいものが残されて
しまったことで、その維持費で大変な思いをしていることも事実だと
思うのです。でもそれは芸術が残されたせいではないと思う。
天災で失ってしまった芸術については泣けるけれどもそれも神の
み旨だろうし、いつかは塵に戻るけど、無理に塵にしようという考えを
推してくるのはムっとなります。以下、余談ですが
先日、こちらのフランシスコ第三会の勉強会に出たら、やはりインテリな
マダムが「我ら兄弟は完全非暴力を世にアピールするのです」と断言。
すると彼女の臨席の永久助祭さんが首を横に振り始めて「非暴力と無暴力は
違う」と深い意見を述べてました。生きていると知ることが多いですね。
Commented at 2009-04-24 13:55 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2009-04-24 13:57 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2009-04-24 13:57 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by ma_cocotte at 2009-04-24 16:25
★ 鍵13H55-57@240409 さま、いやはやなんともであります。
難しいことは私にはわかりませんが、起承転結で丁寧に考えるべきことを
起結し、短絡的解釈に独善が加わっていると拝察しています。
いただく数々の聖句にしてもブーメランになっていませんか?その聖句の
意味がわかっているからこそ、拙ブログにコメントを残している方々が
言葉を選んで対話を試みているのです。自ら穴を掘り下げて、天どころか
地上にさえ日々遠くなってしまっているイメージしかわきませんし、その
熱心に深めている穴に落ちたら、喜ぶのは穴の中の仲間であって、
悲しむのは天空にいらっしゃる方々と、私を見失った友です。
この頃日々確信していることですが、天空にいる方々が悲しんだのは
十字架を最後にする心遣いを原罪ある私たちが心がけることでは
ないでしょうか。
Commented by ma_cocotte at 2009-04-24 16:36
★ そして、「神が無条件に赦す」という「結び」にしても、確かにそうでしょうが、
何か違うと良心の黄信号のようなものを察知しています。
別項に書いた「神の愛を受け入れる自分の器のあらため」など、人によっては
面倒くさいかもしれませんが、ゴルゴダの神や聖母を思えば、カルワリオの
ヴェロニカになりませんか。他人に引っ張り出されてもシモンのように
瞬時でも重荷を分かち合うなど。
自分が動物のようなままでいながら穴の開いた器に愛を注いでもらって、
満たされないことを神に不平を述べるのでしょうか?
無知は罪になりませんが、知った事項を軽んじれば罪になるという
自己への鞭は(私のような者は)常に意識すべきであり、神を知った者には
契約があります。契約を守らなければ神様は裁かずとも泣きます。
何をしても信者だから、ロザリオを唱えているから天国直行だ、と
悪事をしている人が他人に同意を求めるのは「そそのかし」か「試み」
なのか判断するには自己に厳しくしつつ祈ることが必要だと思っています。
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