<< ...飛行機が消えた。 Plu... 主は昇り、聖霊くだりて、我らが... >>
言葉ぢゃなく態度で示すにしても、信望愛がなかったら...
そうそうそう、こんにちは五月三十一日。
今年のきょうは聖体降臨の祝日となりましたが、例年のきょうはVisitation de la Vierge Marie、聖母がエリザベト宅を訪問したお祝い日であります。
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↑ これもまた ルルドの大聖堂のモザイク壁画 『聖母マリアの訪問』

典礼暦と照らし合わせると、3月25日に大天使ガブリエルから聖霊によって神の子を身ごもったと告げられた少女マリアが5月31日、既に閉経した齢にもかかわらず子を身篭り6か月目を迎えたエリザベト叔母を訪問したことになります。マリアを迎えた瞬間、エリザベトはご自身と胎内の子が聖霊に満たされ喜び躍っていることをマリアに話します。この日から3か月、マリアはエリザベト宅に滞在したそうですから、高齢のエリザベトの生活を手伝いつつ、エリザベトの無事の出産を支え、元気な男児ヨハネを産湯につけたのかもしれません(現在も欧州では出産までの日数を10か月ではなく9か月と数えます)。5月31日の聖母の訪問 Visitation de la Vierge Marie の祝日にヒトは男子であれ、女子であれ、年長であるエリザベトを励まし手伝う少女マリアの行いが神と隣人に対する愛の業であることを思い起こし、自らも倣い実行します。「神と隣人に対する愛の業を自ら行う」にあたり、私たちがまず振り返る時点は3月25日のお告げの日であり、大天使ガブリエルがマリアにその旨を伝えた直後、マリアは当初戸惑ったものの、同時に心の中で祈り熟考し、神からの思し召しについて「私は主のはしためです。あなたのお言葉のとおりなりますように」と「神の母」となる使命を受け入れたことです。この世であり得ない、信じられない、確認できないことを天使から言葉のみで伝えられたマリアが、その言葉を信頼するまでの数秒、数分間、心と脳の中を疑いも戸惑いも駆け巡らせたものの、理解できないことは天使に率直に質問し、天使から誠意ある返答をもらったマリアは自らの心身をこの世にいる限り見えず、確認することもできないもの、すなわち神に我が身を委ね奉献するという決心を天使のみ前に宣言し、その後のマリアは祈りつつ、言葉と行いによって信仰を表現し、一生を終えました。

以上、聖母とエリザベトにまつわる話と、今年の今日、移動祝祭日で聖霊降臨の日 pentecôte にあたることで ひとつ前のエントリー に絡めると「聖霊」と「神または国家からの求めに対し、それを民が受け入れること」と「自己の利や功名を求めない奉仕」という共通点が浮かんで来ます。聖母もエリザベトも聖霊をいただいたことを他人に吹聴したり、聖霊をいただいたことで腹を突き出すほどふんぞり返って平凡な人々を裁くこともなく、逆に身を前に屈めてご自身がご自身で身を持って聖霊をいただいた者としての役割を果たしました。仏蘭西は1905年以降、徹底政教分離国家ではありますが、2003年の異常気象で高齢者や障害者が犠牲になったことで彼らの慰霊の奉仕を健康に恵まれた共和国民が行うにしても、他の祭日を選んでも良かったでしょ?復活祭やクリスマスを「家庭の日」という言葉に変えられるように、聖霊降臨にまつわる祝日に政府は共和国民に無料勤労奉仕を求めました。それは、神が聖霊と共にお告げの天使を遣わしてこの世に生きるマリア、エリザベト、弟子たちに行動を求めたエピソードに通じるように思います。フランスが徹底政教分離したとは言え、キリスト教生活文化が大地に沁み込み、ヒトから人へ連綿とこの逸話と精神が受け継がれているから、たとえ「信仰を忘れた」ヒトでもこういう応用ができるのかもしれません。「神」や「マリア」「聖霊」などヒトによっては嫌悪を表わす言葉を出さずとも、「奉仕」という行動で他者の心を揺り動かし、その輪が広がることを仏蘭西を育てている民が知っているとするなら、それは利を最優先する国に生きる民にはうらめしくもありますが、うらめしがってばかりいないで、自らが動き、大地を活用し、互いの心を育てないと国そのものの変化に期待はできないでしょう。

さて、世界にちらばる平らで凡な人々は男子であれ、女子であれ、カトリックを知ってしまったからにゃあ、本人が聖母に倣い、ヨゼフに倣います。多くのカトリック校の校訓には男子校であれ、女子校であれ、聖母に倣う言葉とヨゼフに倣う言葉が含められています。聖母からは無原罪や従順、恭順など謙虚さを知り、ヨゼフからは信頼、勤勉、勤労、奉仕を知り、心身で得、育てるのです。マリアとヨゼフは2つの人格なのに、カトリックの学校は預かった子女にこの二人の人物についてひとりで目指せ、と求めるのです。女子にはマリア「だけ」、男子にはヨゼフ「だけ」に倣え、とは教えず、男女とも平等にこの会ったこともない男女にできるだけ倣うのです。先に行く者が後に続く者と並んで歩けるようになるまで導くにしても、「聖霊を祈りによって求め」と「上つ者の求めに対し、それを学園または教会に集う子女が受け入れること」と「勤勉、奉仕による実践」が繰り返されます。自分自身が聖母やヨゼフそのものに近づくにはいくら他人から要領を教えてもらったとて、本人が動かない限り、何も変わりはありません。髪型や化粧、服装で聖母やヨゼフを演じられることはクリスマス会で十分分かりすぎていることだけど、もしその大役を意地悪同級生が演じたとしたら?そーそーそーゆーことがあったわよ、ウチのガッコでも、教会でも

近年2000年の間にキリスト教書物数あれど、カトリック教会の中には文学だけでなく法律書やら勧告書、指針までありながら、電脳域が存在して以降、素人さんは法律書や勧告、指針を文学のように読んで、司祭や教導職を介せず、自己の欲望達成のために話を変えてのお披露目が散見し始め、それは以前なら点でちらばっていたのに線になりつつあります。線をどこから辿っても起点に辿り着けます。その起点が気づいておらずにまだ快楽的に遊んでいるけどさ。
字面を追って頭に詰め込み他人の考察についてあれやこれやと批判することに必ずしも信仰は要りません。信頼がなくても書いてあることを元に正誤判断すればいいだけです。例えば信仰箇条を信じておらずとも、信仰宣言に書いてあることを信じていないだろ?と異教徒でも批判できるし、たとえ自己がカトリックとまず名乗り、現存する文書だけを自分が照らし合わせて他人を持ち上げることも貶めることも簡単だし、目に見えることだから仲間を集めやすいです。でも、聖母ご自身に「私」が倣うなら、目に見えない、確認しようのないもの(=神)が天使(教会)を仲介して届けた求めを聖母(=私)は熟考し、それでもわからないことは天使(=聖側に住まう方々)に聞き返し、彼から返事をいただき、私ができることを私がすると決意し、私の心身を神に委ね、奉献するのです。行動している私自身だけがわかるあらゆる不足は祈って求める。自分が満ち足りているなら、他者のために祈る。それが「聖霊、来たりませ」と・・・2009年5月31日の話題に戻ってしまうのだ。これぞ、ロヂックや。カトリックで言うところのカリタス(Caritas, フランス語のcharité)、共和国政府が言うところの連帯(solidalité)を誰もが五感で確認でき、喜び合えるのです。ただし、2004年以降、共和国に設けられた「聖体降臨翌日の月曜日」という移動祝祭日に「慰霊と弱者を思うための無料勤労奉仕« Journée de solidarité »」が5年目を迎えた今年、ほぼ消滅を確認したという事実でわかることは、言葉ではなく態度で示す、しかも他者を思って自己の利や功名を滅しての勤労奉仕(=奉献)は偽善では続かないこと、逆に良心の呵責を感じたら存続が難しいことです。今の世の中で自己の利や功名を滅しつつ自己のタレントを社会に捧げることで、自己が幸せを実感できるでしょうか?ここまで来ると、現イエズス会総長ニコラス師が日本国内のイエズス会員に送った言葉や仏蘭西の移民難民居住区で奉献奉仕するアンリ・カンタン師を思い出してしまいます。cf. ヒトをヒトが決めた枠から出し「ひとつ」にまとめようとするヒト もちろん「詠み、いや働き人知らず」の方々の地道な社会司牧活動も。彼らは口に出さずとも聖母の生き様も、ヨゼフさまの生き様も、イエズスさまのこの世での生き様も知り、倣えばこそご自身が一生を捧げて動き働き続け、自分が一歩でも先に行くなら後ろに続く者を手取り足取り導けるのでしょう。なぜなら聖母やヨゼフに倣えば、それは自ずと神への信頼、奉献を身を持って表わせるから。使命を下したモノへの信頼が自らの心身になかったら、もらった使命の全うは難しい、続かない。常に自分を信じて他人を疑ってばかり。2006年12月以降、電脳の日本語環境で騒がれている 聖母のアイデンティティの話題 について信仰宣言文を引き合いに出してのカトリック聖職者批判が今もまだ続いているけれど、もし聖母やヨゼフを否定していたら社会司牧という奉献奉仕を続けられるでしょうか。言葉にせずとも御身を持って信仰宣言していると拝察するのは私だけですか・・・そんなことないでしょ。

カトリック典礼暦において五月はまるごと聖母月なので、聖母を知る誰もがカトリック信者であろうとなかろうと聖母の生き方を思い巡らしつつ祈り、内省し、行動にうつす繰り返しになります。その五月最後の日が固定祭日として聖母がエリザベトを訪問した日に当てられており、こうして五月の31日間を聖母のエピソードを踏まえて自分の言動を振り返り、心をあらためて、翌日から聖心月と名付けられた6月の30日間を丁寧に過ごす。そして7月、お仏蘭西は
おヴぁかんす。
口八丁手八丁で自我の利や功名という欲望のために嘘をつくのも、その欲望を満たすために他のモノに泥を塗ることにお構いなしになったら、いくら自身の信仰歴を掲げて祈祷文やら典礼文の正誤判断ができても、そんな方々はなんら聖母にもヨゼフにも諸聖人にもつながらず、つまり神につながっていないことに気付かされた2009年5月31日でした。こんな機会を暦をもってくださった神さま、ありがとう。たくさんのお恵みを、私たちのため。
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私たちがこの世にちらばる口先手先ビトに気をつけられるように祈りましょう、主の平和のうちに。

と、なぜ聖母像を前に祈るんぢゃ?なぜなら聖母マリアさまは暁の星、海の星、私の前の闇夜を照らし道を示してくださるのです。道の果てには神さまがいらっしゃる・・・・って、文字を読めない子供でもカトリック校や教会学校に関わったら知ってるぞぃ。洗礼を受けずとも誰もが知り、信頼し、祈り、倣い、奉仕できることです。

le 31 mai 2009, Lise-Marie ← Lise はエリザベトの愛称、Marie は聖母です。
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by ma_cocotte | 2009-05-31 17:12 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
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