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あ、そこには触れないで!..._| ̄|○ ソウイウコトダッタノカ
久しぶりに、ウヰリアムソン師。

教皇さまからの求め に未だお返事なさらないFSSPX の司教 リシャアル・ウヰリアムソン Richard Williamson 師がブログを始められました。
Dinoscopus
http://dinoscopus.blogspot.com/
ブログから拝察するにウヰリアムソン師は大英帝國は倫敦市内にいらっさるようです。
数日前偶然知ったことですが、このウヰリアムソン師が2004年8月に日本國内にお住まいの聖ピオ十世会の信者8名の堅信、いえ、堅振 のために来日されていたのですね。

ところで、ウヰリアムソン師の来日の件について書かれたHPの最後に、ピオ会の礼拝にあずかる「兄弟姉妹への3つのお願い」が掲載されていました。今になって興味深いことに、司祭から兄弟姉妹への願いの文面の中には
「担当司祭の承認 Authorization や許可 Permission 」
「担当司祭から公式に任命 appointment」
「原則的に禁止 Forbidden 」
「理由によってお望みの方は、その都度担当司祭の許可 permission を得て下さい。事情により許可 Permission は必ず与えられるとは限りません」
とあり、はて?どこかでほんの数日前に見聞したお話 が思い起こされます。以上の注意事項を英語に訳す際、カトリックの世界でも世間でも法律に関わる単語があてられることは高等教育で語学を学ばれた方なら「コメント交換やら会話に用いる語」を当てはめません。ピオ会の神父さまもカトリックの慣習をご存知だからこそ実践され、羊に求めていらっしゃるこのような具体例があるのに、なぜピオ会とヴァチカンの完全な一致を心待ちにする世俗の方々が分断し、このカトリックで受け継がれてきた習慣を軽んじるのでしょう。

指針あがないの秘跡の第104項 だけ に限って、以上の単語の関連と用法が別の文書における解釈と異なるとヴァチカンも教会もおっしゃったことはありません。現状で第104項に限って単語の用法を例外と日本語で断言するなら、それは読み手が世俗とするなら個人の事情あって一般論を否定したいだけのことであり、もしカトリックの聖域に住まう方々が「この項に限っては例外である」とおっしゃったら、世俗は考えずに従うのみです。本物の伝統主義者 Traditionaliste なら尚更のこと。伝統主義どころか教条主義者 intégriste だったら逆にたった一冊の本の中の第104項だけの例外なんてあるめぇ。

読み手である市井に生きる人間が世間一般の定型を自分だけの信念をもって変えるにしても、例えばお仏蘭西だったらアカデミ・フォンセーズ L'Académie française に認められるまで、決められた書類に本人による「理由によってお望み」を明記し、決められた段取りを守って提出し、何年かかってもお上の沙汰を待つしかありません。生きているうちに自分の願望が受け入れられたら「運が良い」。あれれ、カトリックの世界の中と同じぢゃん。ひとつだけ違うことはアカデミ・フォンセーズは祈らずに最終決定を出しますが、カトリックの聖職者は最後に祈りをもって「アーメン」とします。ただし、教皇B16 さまはアカデミ・フォンセーズの海外在住者会員であり、仏蘭西はアングレーム Angoulême の司教クロード・ダヂャン Claude DAGENS 師もアカデミ・フォンセーズ会員であります。つまり、アカデミ・フォンセーズ全体が祈らずに最終決定を発表するのではなく、会員の中には極一部かもしれませんが、祈って答えを見定める方々もいるということです。

そっれにしても、カトリック世界の英文公文書において Be permitted (語幹は permi-)なる、宗教を抜きに世間一般の法律用語が「あがないの秘跡 第104項」のみでしか使われていないのか、日本語環境の騒ぎっぷりで不思議でしたが、調べてみたら、騒いでらっさる方々がしばしば話題、2007年7月7日付けの自発教令 Motu Proprio Summorum Pontificum から探し出すことができました。以下、一目瞭然の例をいくつか。
Art. 2. In Masses celebrated without the people, each Catholic priest of the Latin rite, whether secular or regular, may use the Roman Missal published by Bl. Pope John XXIII in 1962, or the Roman Missal promulgated by Pope Paul VI in 1970, and may do so on any day with the exception of the Easter Triduum. For such celebrations, with either one Missal or the other, the priest has no need for permission from the Apostolic See or from his Ordinary.
第2項 会衆なしに行われるミサでは、ラテン典礼のカトリック教会の司祭は皆、教区司祭と修道司祭の別にかかわらず、過越の聖なる3日間を除くすべての日に、1962年に教皇福者ヨハネ二十三世が発布したローマ・ミサ典礼書と、1970年に教皇パウロ六世が発布したローマ・ミサ典礼書のいずれをも用いることができる。いずれのミサ典礼書に従ってこのような典礼を行うにせよ、司祭はそのために使徒座ないし自らの裁治権者から許可を得る必要はない。

§ 5 In churches that are not parish or conventual churches, it is the duty of the Rector of the church to grant the above permission.
§5 小教区教会でも修道会付属教会でもない教会堂では、教会主管者司祭が上記の許可を与えなければならない。

Art. 9. § 1 The pastor, having attentively examined all aspects, may also grant permission to use the earlier ritual for the administration of the Sacraments of Baptism, Marriage, Penance, and the Anointing of the Sick, if the good of souls would seem to require it.
第9項 §1 小教区の主任司祭は、すべてのことがらを十分に考慮した上で、霊魂の善益が求める場合に、洗礼、結婚、ゆるし、病者の塗油の秘跡を執行する際に、以前の典礼を使用する許可を与えることができる。
ここ ↑ に書かれているカトリック教会内の聖俗間における「申請 application → (権能の)委任 autholization / 免許 permission 」という動作と書類の流れは教会生活全てにおける基本で、ささいなことでもこの動作を聖俗の間で常に求められているということは、ミサにもあずかり、典礼や社会司牧の手伝いもなさる方ならば、信者であろうがなかろうが、気付けることです。文頭に述べたピオ会の司祭が世俗に求めていることも同じ流れのひとつです。小さな決まりも大きな決まりもこの基本所作の応用にすぎないのだからして。ですから、「カトリック知識が司祭よりはるかに豊富なカトリック信者」といくら第三者に褒め称えられてもこのカトリック生活における基本を軽んじ、無知の羊をそそのかしているような言動を取るなら、他の第三者に「もしかしてこの方は生きたカトリック教会の中で生きていない方なのでは?」と思われたところで、それは自らご自身の教会での立場を公で表明したに過ぎません。誰のせいでもありません。まず、自分が実世界のカトリック教会で「生きる」、それしか心身をもって2000年の間、ヒトからヒトに、ヒトが決めた国境を越えて伝えられたカトリック慣習を体得する道はないし、その道は死の瞬間まで自分の魂の足で歩まねばならないのだからして。
教皇さまはじめ、こういう方々 ↑ にカトリック伝統の生活慣習を無視されている聖域の方々、お気の毒です。
教皇さまは2009年2月4日付文書の中で以下のとおりおっしゃっています。
The lifting of the excommunication has freed the four bishops from a most grave canonical penalty, but it has not changed in any way the juridical situation of the Fraternity of St. Pius X, which for the moment does not enjoy any canonical recognition in the Catholic Church. Neither do the four bishops, though liberated from the excommunication, have a canonical function in the Church and they do not licitly exercise a ministry in it.
四司教の破門解除のみであり、聖ピオ十世会の法的立場は今も解除以前と変わらず、カトリック教会内の基本手続きを無視しての秘跡執行は一切ヴァチカンに認められていないのです。世界に散らばるピオ会の聖俗信者さんがこの言葉 ↑ を無視していることが問題なのです。本当に自他共に認め合うほどの聖座直結ならば、教皇さまが求めていることが理解できるひとりひとりがまず守らなくっちゃ。

ピオ会から追放されたラゲリ師がFSSPXを何と譬えたか、教皇さまもご存知でしょう。
だって、今はしっかりつながっているお二人だもの。

le 11 juin 2009, Barnabé
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by ma_cocotte | 2009-06-11 17:03 | 破門→波紋→和解→破壊 | Comments(0)
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