<< 2009年8月7日金曜日、 久しぶりに、空を、仰いで見る。 >>
しあわせになるために、しあわせを願って。
カトのようでカトでない、社会事情のようで、まさにそのとおりな話を以下に。
しばらく前、確か母の日 La fête des mères に、ごミサで配られた紙。
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教区内に住む司教の家族、つまり司教さまが統治する土地の中に住むひとびとのために9つのステュディオ(日本で言うところの1K)が造られたことでの募金願いのチラシです。チラシには約四か月を目処に孤立無援の苦悩、悲嘆にくれる女性 les femmes en détresse を受け入れることが目的であると明記されており、更に「孤立無援」の例として以下、
Due à leur état de grossesse 妊娠中の女性
Due aux difficulté rencontrées avec leur jeune enfant
  自らの子供との困難な問題を抱えた女性
Victimes de violences conjugales 夫婦間暴力の犠牲者
Victimes de violences sexuelles hors couple 
  (愛ある)男女、夫婦関係以外における性的暴力の犠牲者
En rupture de tous liens familiaux et sociaux
  家族内または社会的に関係を絶交、絶縁された者
が挙げられています。
そしてこの4か月の間にご本人の計画を肯定的に受け入れ、尊重しつつ、自立支援することが受け入れ側の使命であることも表明されています。受付は24時間いつでもであり、この使命のためにこの新施設で働くスタッフは5人の給与雇用者と、無料奉仕の4女性であることと、そして Communauté des Filles de la Sagesse (聖ルイ・ド・モンフォールが共同創立者である女子病院修道女会) が3部屋を提供してくださったことと、地元の医療・社会事業所が共同提携先として掲載されています。もちろん、これらの口上の後に運営資金の出所と比率、寄付した場合の税対策なども書かれており、最後はこの新施設を利用できる領域の最高責任者である教区長(司教)のお名前で締め括られています。

さて、拙ブログのカテゴリーを選択するにしても、『?』なお!?仏蘭西 にするか、『?』なKTOりっくん にするか、私が非常に悩むところであります。なぜなら、上の収容条件は世間一般の大問題であって、カトリックという枠組みに限定される問題ではないからです。条件に「カトリック信者女性」なんて一文字も書かれていないけれど、教区内で弱者となっている女性であり、漠然と「妊婦」なら4か月間この施設に滞在できる権利があります。
最近、電脳域を散策していると教区内で働く教区司祭や修道司祭、修道者に対し、社会司牧をせずに祈っていればいいと日本語で書いている方が散見されますが、もし召命で「ただひたすらあなたは祈りなさい」と聴こえたならば、誰もが観想修道会に入会を希望しませんか?ですけれど、どんなに戒律の厳しい観想修道会であっても労作はありますし、ヨゼフに倣ってこその実践と表現と喜びですから、「神さまにただ祈っていなさい、と言われました」と長上さまからの命令に従わない態度を取り続けたならば塀の外に再び戻される可能性があるのではないでしょうか。ルイ・ド・モンフォールやシャルル・ド・フーコーに倣って隠遁しますか。
チラシのはじめに en lien avec la Pastorale Familiale du diocèse 、つまり「教区内の司教の家族のきずなにおいて」と掲げられているのは、家庭を持たない、独身である司祭にとって管轄地内の万民が家族であるということを指しており、すなわち教区長は領地内の万民のために働くことを私たちに知らしめています。
さらに国や領地の面から掘り下げて眺めてみると、カトリックという世界では歴史やヒトが決めた国境を取っ払ってヒトを平らに等しく扱っても、2000年の歴史においてカトリックが国教になったほどの国(Un pays évangélisé)と元々は異教の国(Un pays missionnaire)に二分しつつ、世の中を判断します。前者はイタリアやフランス、スペイン、最近注目されるのはアイルランドやポーランドで、後者は我が祖国日本國やアジア、アフリカ、南米各国になります。
ここで二者を比較するためにフランスと日本國を挙げてみましょう。仏蘭西の国土は日本の約1.5倍、人口は日本の半分です。
カトリックにおいてはフランスは共和国民の七割で、そのうち生活宗旨を守っているヒトは一割。日本国内のカトリック人口は国民の0.35%で、国内均等ではなく長崎近辺において4%であるから、他県は・・・_| ̄|○ となります。そして、教区数においてフランスは海外領を含め全100教区、日本は16教区です。フランス国内の司教さまにしてみれば10人中7人がカトリックで、そのうち1人は「ミサで見る顔」ですが、日本国内の司教さまにしてみればご自分が責任をもってらっしゃる(カトリック的)領地で100人を集めたところでもしかしたらカトリック信者がひとりもいない可能性があり、もし一人見つけたとしても、その人が「洗礼を受けたと親から聞いただけ」とおっしゃるかもしれないのです。個人の事情は千差万別であって、ひとつの事情を万民の共通事情と妄想することはできません。が、教皇(=ローマ教区長)も、世界にちらばる司教方も、カトリックのカトリック教徒のみのために存在するカトリック教区の長上なのでしょうか?日本の場合、10人中の信者でない9人がこれからの人生でカトリックとなるという希望があるなら、その希望を信じるのも羊飼いである(教区)長ではないでしょうか。教区民のために働くけれど、宣教司祭のようでもあるのがミッション国の教区司祭なのかもしれません。

上のチラシのように家庭内外の暴力や堕胎をそそのかされることから女性を受け入れ保護する施設をカトリックの一教区が創設することはフランスと日本では基礎事情も自治体との関係も大きく異なります。もし自然災害があったとして被災地にカトリック信者がたくさんいるから教皇さまは慰問に出られても、日本では被災地に信者がひとりもいなければカトリックは背を向けたままだとするならそれは悲しむべきことで、カトリック系組織のカリタスやミッションスクールの同窓会などの援助は被災地のカトリック率がゼロであろうと働いていただけたら、と思います。ニンベン+動、かないと「働」という漢字になりません。フランスもカトリックがマジョリティなれど、イスラーム移民のために無料補習校を団地内に開設する聖職者や修道者もいますし、イスラームの難民が増えれば屋根ある場所とスープを用意する団体のひとつはカトリック教会だったりします。祈る「だけ」どころか、カトリック「だけ」のために働くのではない、それが今のカトリックのようです。イスラームからキリスト教に(内緒で)改宗する人は欧州で増えています。

さて、上のチラシの話題に戻りますが、暴力や堕胎強制など弱者の立場である女性をカトリックが引き取り匿ったとしても、暴力がはびこる環境に彼女たちに教会側は「戻れ」とは言いません。よく考えてみれば、フランスという国なら暴力を振るっている大人だろうが子供だろうが男子だろうが女子だろうが、そんな奴もカトリック信者の可能性の方が高いのです。教会は信者である両者を改善する務めがあることになります。婚姻の秘跡にあずかった二人が暴力を抑えられない相手と距離を置いたことで聖体拝領禁止になるのでしょうか?

私は南仏に住んでいた頃、ココんちの♂♀の婚姻準備で担当であったシスターを訪問した時、偶然、シスターは司教さま宛に家庭内暴力にあった女性についての証言書を書いてらっしゃいました。もし将来、婚姻が無効か裁判所が判断する際にはシスターがしたためた証言も一証拠になります。婚姻が無効になるかどうかは教会裁判所が関わり、事情によっては教区長自らも男女双方と面談されます。と、断言できるのも、ココんちの近所に離婚経験のある男性と結婚した初婚女性がおり、教会裁判所の審議中にあり、男性の無効が宣言されたら婚姻の秘跡に預かりたいと二人は希望しています。南仏時代、斜め前のアパルトマンに住むご夫妻はミサでも遭うことがしばしばありましたが、お二人とも聖体拝領はせず毎回祝別のみでした。私には夫妻に見えたけど、夫妻ではないのかも?ヨソの玄関の中の詳細はわからないし、知るつもりも私にはありません。ですが、カトリックの場合、男女の問題は時に教会裁判所が関わるほどの案件であり、結審まで数年かかるというセンシティヴな現状について、
離婚はカトリックの教会法では認められていないので、民法上の離婚をし再婚した人が夫婦生活を送ると姦淫の罪になります。故に聖体拝領は認められません。
と聖職者でも教導職でもない立場が言い放ってしまっていいものでしょうか?私が漏れ聞いた限り、離婚はカトリックで認められていないのではなく「概念にない」のです。婚姻の秘跡にあずかった者が別居に至ったことにはそれぞれの理由があり、当事者が教会に相談し、その当事者個人の事情を知った教会がその人のための善処を指導するのであって、ミサの時間に同じ世俗席に坐るものが万民に等しい断定を話すことは立場を弁えていないことになりますし、当事者でなければ知らなくていいことです。
どこのカトリック教会が人間を「罪を犯した」状態のまま不幸の中に置くでしょうか。「暴力環境の中に戻り、ひたすら祈って暴力に耐え忍べば聖体をいただける」という話の持って行き方がカトリックなのでしょうか?暴力を振るう信者さんにも、耐え忍ばなければならない信者さんにも、いえ、信者でなくても、自分自身が平和でなければ、同じ玄関を使うひとつ屋根の下に平和を見つけられないし、一家庭が平和なら、近隣を平和にするよう努めれば、平和は連鎖し、私たちが生きる平和な社会が造られるのではないでしょうか?各自が平和を言動で表わすためには各自が変わらねばなりません。暴力は平和ではないし、堕胎はひとつの命を絶つことだから平和とは言えません。

このエントリーを書くために調べていたら、フランス司教団が離婚者に聖体拝領を(教会法を無視して)勝手にしているので、昨年9月の来仏時に教皇B16から別の形で司牧的配慮をするように司教団が窘められたと日本語で書かれた記事を見つけました。そんな話、フランスでは聞いたことありませんし、私の手元にB16来仏時の説教録集がありますが、まだその事実を見つけられません。更に調べたら、イタリアはミラノの地方夕刊紙 Corriere della Sera がそう書いたと元記事のURLを掲載していない日本語ブログが引っかかりました。全国紙ではなく地方夕刊紙の記事を鵜呑みにしますか。そこで、フランス語(divorce interdiction communier eucharistie Benoit XVI)で検索をかけたら、どういうわけか昨年9月の来仏よりはるか前に教皇さまがイタリア司教団に同様のお話をなさってらっさるようで、そちらについてかなりの数の記事が引っかかりました。これが事実となると、日本語でフランスカトリック批判をした前例の解釈と同様に、イタリア司教団が教会法を無視して聖体拝領を離婚者に勝手にしていたから教皇さまから窘められたこと になります。なんつうか、個人においてどーゆー目的があるか存じませんが、なぜフランス司教団ばかり面白おかしく教皇不従順という話に変えて日本語で流されるのでしょう?イタリアだって同じぢゃん?それともフランス司教団が教会法を無視して聖体拝領を離婚者に無条件で行うという決議文があり、百司教区の百人以上の全司教が同意したという証拠があるのでしょうか。毎度のこってすが、ナンテール教区の電脳司祭HPで離婚、再婚者の聖体拝領について調べてみました。http://catholique-nanterre.cef.fr/faq/mariage_divorce.htm
大項目だけで、「離婚」「再婚」「婚姻の秘跡の無効または取消」「異宗派婚の場合」とありますし、教会に相談に来るよう勧めています。そして、はっきりと教会法やフランスの関連法の該当箇所も明記されています。となると、フランス司教団は教会法にもフランスの法にも、無視どころか双方に遵守しています。しかも、このURLをスクロールすると離婚再婚についての推薦図書に以下の本が挙げられています。
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La pastorale des divorcés remariés
Auteurs : Tarcisio Bertone (monseigneur) / Joseph Ratzinger (cardinal)
Éditeur : Éditions du Cerf 1999, 10 euros

Σ( ̄△ ̄; あっちゃあ、著者はタルチシオ・ベルトオネとヂョゼフ・ラッツィンガアですぜ?当時は大司教と枢機卿だったのに、今やヴァチカンの国務長官と教皇なんて煌くお二人ぢゃあないの。2000年当時のおふたり。あの時、キミは黒服だった。
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フランス司教団が教会法を無視して聖体拝領を離婚者にしているなんて日本語で作り話を電脳で発表した方は、何も知らない子羊を迷わせていますし、無知の子羊たちを不幸せな思考に導きかねません。誰も不幸になりたくてカトリックに行こうと思わないでしょうに。そんなに嘘を吹聴してまで日本人に(おフランスの)カトリックを嫌ってもらいたいのかなあ。自分が嫌いならひとりで嫌えばいいぢゃん。

このやふに、ひとつの点を伸ばしに伸ばして全体の悪事として公で語ったところで、針でつついたら包みが収縮し正しい中身が出てくるものです。浅草で売っているゴム風船の中に入った餡子玉のように。真実を、嘘や作り話を大きく伸ばして包み込むのは良くありません。真実は甘く美味しい、ゴムは苦くてまずいのです。つまり、嘘は苦くてまずいのです。

le 6 août 2009, Octavien
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by ma_cocotte | 2009-08-06 20:02 | 『?』なKTOりっくん | Comments(4)
Commented by 春ぴ at 2009-08-08 21:51 x
本当のところや、想いを知らずに、勝手な解釈と思い込みで書かれる方が居られるのがいけないんだと思います。

ちょうど成長期の子供が色々なことを知って、自分を偉しと思ってやりたい放題をしているのと似ているように思います、もっと成長して認識力が高められるとその頃の自分の幼さに恥じ入る時がくるでしょうに。

洗礼を受けた頃、それから数年経っていくとその時々の想った事、考えた事がまた違う判断と考え方ができるようになり、司祭の想いを知ることができるように、少しずつですが導いていただいていると感じています。

今よりも更に先ではまた今の自分を稚拙に感じることができるように生著うしていきたいと期待もしています。

そういう向上心を持って生きて生きたいと思うこの頃ですので、空の飛行機に向かって竹やりを向けるようなことを書かれる方々をお気の毒に思っています、カトリックを名乗らないでくれると良いのですが・・

宣教の妨げは何よりの罪ですよね。
Commented by ma_cocotte at 2009-08-08 22:35
◎ 春ぴさま、
いろいろ難しいですよね。
先日、地元の神父さまと話しあったことですが、失敗や無知も、その先に
実りがあるなら、その実りを見るためには必要な失敗であり無知である、と
考えるといいそうです。救われました。
自分自身、そしてこうして家庭をもってみると、過去においても、現在においても、
赤面やら真っ青になることも多々あるけれど、それをどう生かすかで、
腐らせる方向、つまり不幸を連想する方向に栄養付けしないことですよね。

なーんて哲学の域に入ってしまいそうだけれど、一度の人生、できるだけ
幸せに変えていけるようにしましょう。

上に挙げた離婚の一例だけど、起承転結で起結だけなら「離婚=聖体拝領
禁止」でしょうが、千差万別の理由があり、それを調査するための労力と
時間はとてつもない長さと面倒臭さです。が、私たちが尊重すべきはその
労力だから、この問題で悩んでいるヒトに起結だけ話すのは苦しめることに
なりかねません。一緒に教会まで行きましょうか、と並んで歩き、そこから
先は見送って待つのが私たちではないでしょうか?
Commented by lakeforest at 2009-08-09 09:39 x
婚姻の無効に限らず、私たちは教義の名の下に、知らず知らず人を裁いて(分けて)はいないか?と感じます。

>一緒に教会まで行きましょうか、と並んで歩き、そこから
先は見送って待つのが私たちではないでしょうか?

同意の一言です。
「一緒に教会まで行きましょうか」の一言さえ交わせない人間関係の希薄さ、リードではなく「並んで歩く」ことのむずかしさを感じますし、そこから先見送って、待てない余裕のなさを自省の念を持って考えさせられました。傾聴、共感だけで終わるのではなく、その先につなげる一歩も、私の課題であるなぁと感じました。あらゆる意味で、人間は弱いものですものね。
Commented by ma_cocotte at 2009-08-09 22:54
◎ lakeforest さま、

  >婚姻の無効に限らず、私たちは教義の名の下に、知らず知らず
  >人を裁いて(分けて)はいないか?と感じます。

この点、難しいですね。
立場を知った人間が境界線の向こうに足やら首を突っ込むことを躊躇うと、
それについて「向こうの世界を覗いて構わない」と誘うヒトもいます。
日本人は識字率と言い、賢さと言い、世界全体から見ると秀でているし、
その優劣の幅が狭いのも顕著ですが、文字で確認し、自分でそれを
読みこなせ、説明できることが先になってしまうと何か本当に大切なこと
(lakeforestさんがおっしゃるところの人間関係の希薄さなど)が
疎かになってしまうのかもしれません。
当事者を見送ってから待つことは忍耐がいると思います。でも、告解も、
裁判所の中のことも当事者以外の立場は外で待つしかありませんし、いずれの
場合もそこから出たら課せられる条件あれど不幸に向かうのではなく、
幸福への道筋に笑顔で向かえるのではないでしょうか。
良くも悪くも「結果」のみを語るのは(私を含め)日本人の改善すべき点だと
思うけふこの頃です。
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