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次は私の番
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ヴァチカン博物館で見つけた一枚の絵です。
広島原爆忌、長崎原爆忌を祈り、今は8月15日を週末に控え、いろいろ考え始めています。
この時季、良心を知る人ならば「良心の戦い」とは何かより深く考えてみるのはどうでしょう。
上の一枚の絵は迫害と死を読み取れますが、この世では敗北であっても、信仰においては勝利だと思われます。正義は目に見える勝敗ではなく、神の正義は目に見える限り、このカトリック修道司祭方の絞首刑を表わした絵のように明らかに信仰ゆえの敗北にしか見えない場合もあります。私のような者は言の葉にすることさえ難しいですけれど、真の正義は必ずしも目に見える勝利ではないと習いました。神そのものが良心であり、正義であり、平和であり、愛なのだそうです。だから、私たちが神に正義を示してくださいと祈れば、私たちが負けることもあるのです。

そして、以下 ↓





ベールはなけれど修道服を見止めて気付かれた方も多いと思いますが、アウシュヴィッツで帰天したエディット・シュタイン Edith Stein の最期の場面です。1995年にイタリアで作られた映画で、タイトルは LA SETTIMA STANZA ラァ・セッティイマ・スタァンザ、直訳すると「七つ目の部屋」になりますでしょうか。

ベールも修道服も剥ぎ取られた修道女の姿はあの時代のあの場では冷笑されたかもしれませんが、これは天においては敗北ではなく勝利なのです。だから私たちが聖女に成り代わって、このようなことをした人々に対し憎悪という感情を抱いて仕返しする必要はありません。と書いたところで、死んだら全てが終わりと信じているならば、理解が難しいことだと思います。

この画面の途中、ヒトビトを左右に分ける場面が長く流れます。
私たちが漠然とこの様子を画面から眺めていて、
果たして自分は分ける側なのか、それとも分けられる側なのか。
もし分ける側なら何を基準に目の前のひとりひとりを見定めて左右に分けているのか。
逆に、なぜ私は右に、あるいは左に振り分けられてしまうのか。
そして、分ける側はどんな権限があってこんなことができるのか。
今の自分はどの立場に近く、それを快く遂行しているのか。
このままでいいのか。
このままで良くないのだとしたら、どう私たちが変えて行けば良いのか。

「私は、私は」と私が好む立場を選ぶのではなく、それぞれの立場になって内省してみる。

私たちはいつも、慈しみ深きかみともにいまして、荒れ野を行く時も、嵐吹く時も、御門に入る日まで、ゆく道を守って進むことが、良心を知ったひとりひとりの使命だと思うこの頃です。

さて、黒革聖歌集の何番からの引用でせう?
(難易度:1ですけれど、8月15日に向け私たちが獲得したポイントは天に唄いながら捧げましょう、なんてどう?)


le 10 août 2009, Laurent
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by ma_cocotte | 2009-08-10 20:42 | 『夏』 Rien de spécial | Comments(0)
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