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別れの9月、出会いの9月
2009年9月最初の日曜日。
さようなら、神父さま。 Au revoir, mon père
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今年も9月となり、新学年を迎えたばかりの仏蘭西ですが、仏蘭西のカトリック教会においては人事異動の9月であります。
2006年7月末にココ新天地に引越ししたココんちの♂♀が公私共にお世話になりっぱなしの神父さまも異動することになり、きょうは神父さまが8年間司牧した小教区で最後のごミサを捧げられました。この小教区内には3つの教会がありますが、きょうは神父様の送別のため3教会が合同でミサにあずかりました。
異動と言っても、この神父さまの場合、旧市街を挟んだ向こう側の小教区への異動で、徒歩10分ほどで行き来ができます。それでも叙階した直後から八年間、助祭として司牧した教会から離れることで感極まったのか何度か涙声になられました。神父さまは異動先で主任になられます。これまで8年間、助祭でしたので主任司祭には仏蘭西語で言うところのヴヴぉわもん vouvoiement 、つまり敬語と Oui, avec plaisir 「はい、よろこんで」のみ。世俗信者からは呼び捨てに加え、てゅとわもん tutoiement、タメ口の世界。この3年間、ヨソモノの私は彼ら世俗には倣わず、これまでの習慣を貫きましたけれども、この八年間いらした小教区は限りなく新教に近いカトリックでしたので、B16っ子のひとりであるこの神父さまのお立場は決して安楽安易ではありませんでした。 今月20日に司教さまをお迎えしての主任任命ミサをもって、神父さまは新天地で主任となられますから、今までよりは信心業も行い易くなることかと思います。めでたし、めでたし。

数日前、神父さまから伺った話では、八年前に神父さまが着任した当時、この小教区の3つの司祭館に住む司祭数は4人、3人、ひとりの計8名でした。ところが、現在はこの3つの司祭館のうちひとつの司祭館に住む二人の司祭が3つの教会を巡回しています。聖側に住まう方が6名も減ったことになります。
ココんち地元の市内には3つの小教区があり、その3小教区の司祭数は10名で、うち一名はアフリカはトーゴからの救援司祭で、先月15日で仏蘭西に着任十周年を迎えました。この10司祭に市内に住む引退司祭と病院や修道院に住み込んでいる司祭が数名加わることになります。たった8年でこれだけ司祭数が動くというのは深刻な不足を意味しているのかもしれません。先日お話したネオカテ司祭や神学生は地元出身であっても地元聖職・修道者数には入りません。

とは言え、この春、聖週間に司教座聖堂に行った時には、入祭前ですけれど
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うぢゃうぢゃうぢゃ

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おみ足不自由な司祭方は入祭の列には並ばず最初から着席されていましたが、行列には約200名の司祭に大司教、補佐司教、引退司教のお三方がいらっしゃいました。これで、司祭が不足とするのは贅沢でしょうか。
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この日は永久助祭の方々がいつもにも増して早くから下準備、
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動けるひとが動く。
それぞれの分をわきまえつつ、互いの不足を補い合いつつ、動く。

...それが基本でありましょうけれど、この教区、聞いたところ神学生が3名しかいない。
↓ そのうち、二名
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これが最も深刻な問題なのではないかと思いました、まる

ヨソの教区ぢゃ 今年は一度に25名もの司祭が叙階 され、今年のパリ教区だって10名の新司祭が誕生 したってぇのに、教区神学生数3名とはまことに情けなかとよ。どうか3の数より増えていきますように。

le 6 septembre 2009, Bertrand
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by ma_cocotte | 2009-09-06 21:47 | 『?』なKTOりっくん | Comments(9)
Commented by Lucia at 2009-09-08 07:52 x
最近はどこでも何年か毎に神父様の移動があるのですね。『ドン・カミッロ』のように、小さな村にただ一人の神父様が終生おられて、村民の中心になりながら、あらゆる人々の支えにもなっている、という図式はもう見られませんね。
でもそれでこそ本当の意味での霊的指導も可能になる(その神父様の資質によっては、大きな弊害も生じるけれど)のではないでしょうか。赤ちゃんの時から子供の成育を見守って下さる神父様が霊的に優れていれば、召命も増えることでしょう。
今ではそれに代わるのが、サレジオ会の集団活動と言えるかもしれませんね。サレジオ会の多くの神父様が、子供の頃からサレジオ会の活動に触れたことで司祭の道に進まれたということをしばしば聴きます。
青少年が、修道生活、あるいは司祭の道に進もうと決めるときには、神様のお恵みに本当に喜びをもって応えている先輩方の笑顔と誠実さに常日頃触れることによって、背中を押されるのではないでしょうか。
Commented by ma_cocotte at 2009-09-08 17:18
◎ Lucia さま、叙階後の生涯をひとところで過ごされた代表は
ヂャン・マリ・ヴィアンネですね。まさに司祭年の筆頭聖人です。
教区司祭と修道司祭では生き方もミッションも違いますから、等しく
語れないと思います。修道司祭の場合は各修道会でミッションも方針も
違うので尚更ですね。

召命の問題はサレジオ会に限らず、いずれの教育修道会も司祭やシスターの
言動をきっかけに男子女子とも奉献生活に至るケースが多々あります。

仏蘭西だけかもしれませんが、婚姻準備段階で生まれて来る子供の
教育指導について勉強する時間が教会で設けられています。司祭は
もちろんですが、生まれて来る子供の一生に関わる名前の選択と
代父母の選択には細心の注意を払って最良を選ぶのが親の義務だと
教えられました。家庭、教会、学校教育ができるだけ正三角形のバランス
であることが理想で、どれかのつながりが長くなったり短くなったり
するなら、バランスを取ったり、補い合ったりせねばならないそうです。

続きます。
Commented by ma_cocotte at 2009-09-08 17:19
◎ 私見に過ぎませんが、世俗は教会に所属するのであって、決して
一司祭信者になってはなりませんから、教区長や管区長が人事異動を
決めるのは聖域の事情だけでなく世俗の言動に問題がある場合もあります。
こういう点においてもB16がおっしゃるカリタスについて聖俗双方が
深く考えねばならないことだと思います。
Commented by Lucia at 2009-09-09 10:48 x
一司祭信者という考え方が解りません。勿論信者はイエス様を信じるのであって、司祭を神様に見立てて、あたかも神様であるかのように信じるわけではありませんね。でも本当の意味で霊的な指導を受けようと思ったら、次々とご指導下さる神父様が変わったのでは無理ではないでしょうか?
Commented by ma_cocotte at 2009-09-09 15:51
◎ Lucia さま、
Luciaさんご自身には一司祭信者がわからなくても、教会の其処此処に
散在しているのは事実です。

 >勿論信者はイエス様を信じるのであって、司祭を神様に見立てて、
 >あたかも神様であるかのように信じるわけではありませんね

でも、それさえわかっていない方々はかなりいます。
霊的指導はミサではありませんから、司祭が異動しても続けられます。
日本の場合、受洗後は(決まりだから)ミサに行くだけ、の信者がかなり
おり、彼らは必ずしも霊的指導を求めていません。バカな司祭に習うより
頭のいい自分が独学した方がマシという言葉をいただいたことが私には
あります。

Commented by Lucia at 2009-09-10 08:44 x
実際信徒だけでの聖書研究会や、集会祭儀が一般化していると、そう思う方も出てくるのかもしれませんね。でも、あくまできちんと指導と教育を受けた方がそうした集会を行うのでなければ、随分間違った考え方が生じてしまうのではないかと、第二ヴァティカン公会議以前からの信徒である私などは危惧しています。
その一方で、イエス様を単なる人間と変わらない存在として聖書を解釈される司祭方が増えていることには疑問も感じないわけにはいかないのですが…。勿論そう説明した方が、一般の人には受容れ易いのかも知れませんけれど…。
Commented by ma_cocotte at 2009-09-10 16:37
◎ Lucia さま、
私は「信徒だけでの聖書研究会や、集会祭儀」にあずかっていません。
信徒だけの聖書研究会は数回出席したけれど、私には危険ですので
指導司祭に相談して止めました。

自分の知識が満ちることでステージがあがったかのような勘違いを
するのはニューエイジ思想や近年の自称教皇直結の反教区の立場の
方々に多い間違いですね。
知識が身についたことで信徒使徒職が教導職身分を包括した行動を
取られる方も多いです。

イエズスさまがヒトのみだったらイスラームの教えと同じです。
預言者のひとりに過ぎず、ムハンマドの下位になります。
三位一体の否定につながりかねませんが、イエズスさまがヒトだと
教えながら「何でも全て無条件に赦す」と教えるのも私には疑問です。
それと「意欲」と「それを無条件に受け入れ導く」という関係を聖霊の働き
と勘違いしている教導職も拙宅近所におりますよ。

ところで、「一般の人」というのは????
Commented by Lucia at 2009-09-11 07:56 x
ma_cocotte さんと同じ考えで、私は先のコメントを書いたのですが、誤解が生じるような文章に見えたのかしら?

「一般の人」と言ったのは、「キリスト教に殆ど親しんでいない人」と、「少しキリスト教を学んだけれど、神学的な教えを理解しがたいと考えている人」のことです。後者の中には、カトリック教会の信徒も多いようです。

どなたがどのような解説をなさって、それに対する反応がどうであるかといった具体例はここでは書きませんが、「イエス様の全知、全能」を否定するかのような解説を、日本のカトリック教会に属する著名な神学者方が書物に書かれたり、お説教で語られたりという例に近年は何度も接しており、そういうお話に賛同を示す方がかなり多い実情を見て、悲しい思いを抱いていたので、つい書いてしまいました。
Commented by ma_cocotte at 2009-09-11 15:32
◎ Lucia さま、

 >「イエス様の全知、全能」を否定するかのような解説

だとしたら、キリスト教ではありませんよね。
聖職者ならば洗礼をどのような典礼文で授けているのでしょうか?

ただし、イエズスさまのこの世での生涯はまちがいなくヒトと同じだった
ことは私も同意します。

キリスト教を学んだとして、教会に受洗希望を出した成人はその時点から
教会を構成する一部分になるのだから、ご自分が教会のために変わる
ことも必要だと思います。良心が痛むほどご自分が「知る教え」を維持
したいのであれば、成人なのだからご自分でその痛みを教える教会に
残るかどうか考え、受洗もご自分が全き、疑いのない教会環境で
いただけば良いことですよね。
やり直しのきかない各自の一度の人生を悲嘆で全うせよ、と神さまは各魂に
そんなミッションを送られてはいないと思います。
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