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私はどの立場なのだろう?
ココんち近く、旧市街の美術博物館にて。
一枚の壁に並んでいた三枚の絵を左から順に。
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確か三枚の絵の共通テーマが貧困 la pauvreté でした。
田舎町の美術館に常設展示された絵画なので、描かれている建造物は旧市街のどこかで見たようにも思えます。このような光景は遠い昔の過去とは言い切れず、装束を変えれば現在もココんち界隈で見る様子でもあります。フランスにおいては貧困は過去ではなく、今も身近にあり、探す必要はありません。

このような一枚の絵を観て、おのおのが心に思い巡らすこともひとつではありませんし、描かれている人物の誰に自分をあてはめるのか、それともあてはめずに単に傍観するヨソモノに過ぎないのか、あるいはかつて貧困を経験した家族や友を思い起こすのか、それもおのおの異なることでしょう。

おのおのの立場は千差万別であれど、「施す者と施される者」とか「見下げる者と見上げる者」、「強者と弱者」という意識に留まってしまうと傲慢や卑下など要らぬ感情が心に生まれかねません。それでは「施される者、見上げる者、弱者」と仮定したところで、弱者とされた人のズルさで嘆く人も数多いたりもします。

しばらく前、司祭館で神父さまと面談している最中に呼び鈴が鳴り、神父さまが玄関先に出ると「弱者」と思われる人がおり、困っている自分に施しをくれ、とおっしゃる。神父さまが「お金はさしあげられませんが、一緒に食事をいかがですか?」とお話した途端、その「弱者」と思われる人は「あ、いいです」と言い切らぬうちに神父さまに背中を向けて門を出て行きました。
それより前、まだ私が南仏に住んでいる時、婚姻準備の勉強のため修道院に行くと、シスターがどこか落ち込んでおり、聞けば、住む所もない子供を数名抱えたジプシーの母親が洗礼を受けたいとやって来たので修道院の一室を与え、三食をシスター方のお食事から分け、住み込みのまま洗礼の準備と子供たち(そのうちひとりは自閉症症状を持つ男児)の教育をし無事受洗。それでは、堅信の準備をしましょう、とシスターが話したところ、翌朝、全員が跡形もなく、お金を持ち出して消えていたのだそうです。夜逃げですな。ところがシスターはこれが初めてではないとおっしゃる。初めてではないし、こういうことがあったからとてこれからも困った人が現れれば同様にし続けるとまでおっしゃる。
さらに何年も何年も前、東京の某教会の神父部屋(と、若者は呼んでいた)に入り浸っていた頃、やはりドアのノックの音を聞いてドアを開けると独特なニオイを携えた方が無心する場面に何度も遭遇したことがあります。神父様はご自分のお財布から出すこともあれば、お財布を覗いてから「少し待ってください」とその人に告げ、小走りに裏のレジデンスに行き、院長様に事情を話して戻って来たこともありました。そういう人の中には何を思ってか二度、三度と同じ事を繰り返すことがあり、優しさあれども甘やかすことはしない神父さまが厳しく諭す様子も私は見たことがあります。

凡人の私にはいずれの場合も神父さまもシスターもあまりに人がよろしすぎるのではないかとついうっかり思ってしまうけれど、どなたも同様に「騙されるのが私でよかったのです」とおっしゃる。そう聞いて、自分が必ず施す側と信じ込んでいるなら、騙される自分についてだけの善行を思い描いたりします。

が、最近、ふと気付いたことですが、貧富というのは目に見えるものだけでなく、心の価値さえ計れるということ。そうだとするならいくら外見が富裕であっても心が貧しく、飢え乾いて水を求めている人もいるかもしれません。逆に見た目はあまりに質素でも、心が豊かな人もいるでしょう。心の貧富はどう見抜くかは、互いが交流することにあります。となると、「施す者と施される者」、「見下げる者と見上げる者」、「強者と弱者」という目で判断できる関係においても、互いの「善意」が必須なのではないでしょうか。数学に例えると両者が「善(+)」ならば足したところで「二つの善」、かけたところで「善の二乗」だけれども、どちらか一方が「悪(-)」ならば足したところで善は減り、善(+)に悪(-)をかけたら善は悪に変わってしまいます。数学では空しい結果になるけれども、ヒトには知が与えられているのだから知を用いれば悪を善に変化させることもできるはず。それは時間も労力もいることだろうけれど、悪と悪が足されて二つの悪と化したり、悪と悪が掛け合わされていっそう強い悪になることは善人であるならば知力をもって避けねばなりますまい。そう、「地ニハ善意ノ人ニ平和アレ」を信じるならば。もし自分がこの世の由無しごとで他人の傍目に「弱」の立場になったとしても、決して善の心だけはこの心身から失ってはならないのです。・・・っと、弱っちい自分にビシビシ言い聞かせつつ、今年も十一月という月を数時間後に迎えます。

おフランスには21世紀に入り、そして「金が全て」の神聖賢愚帝が共和国大統領なんかに身を窶して以後、ハロウヰンが無理に庶民に浸透し、本当ならば待降節と共に訪れるクリスマスの準備が前倒しされて10月最終週から大規模店舗にはお菓子、香水、おもちゃや仮装商品の特別コーナーが設けられるようになりました。その勢いに負けまいと、テレビのCMではスクール・カトリック Secours Catholique (仏蘭西のカリタス組織)の浄財を求めるコマーシャルも流れ始め、なぜかそのコマーシャルの中にはスクールカトリックでは遺言書作成のお手伝いをするというものまであります。

自分を中心にするなら或る対人関係で自分が凸でも、他の対人関係では凹かもしれません。上の一枚目の絵は勝手口の様子ですが、お手伝いさんはこの状況では施す者でも、扉の向こうでは主に仕える者です。三枚目の絵も修道女方が待ち求める人に善意を示しても、修道院の中では神に仕え、人と人の間では従順を伴う共和の中に生きてらっしゃる。相手の凸や凹を自分の凸凹に合わせればひとつの四角になります。ですが、凸の自分が凹の他者に合わせて、自分も凹になったところで、合わさるどころか内側に隙間ができ、他者が自分のように凸になったところで今度は両脇に隙間ができてしまいます。目に見えない凸凹なれど、こうして表現するとひとつになるのは難しい。個々の間の互いの違いを認め合うだけでなく、個々を取り巻く不況や格差など人ひとりの思惑では生み出せもしなければ消せない現状も、その中で互いに思いやり、善と善をつなげれば、心だけは豊かでいられるかもしれません。「~かも」という仮定は、まず自分が実践すれば消せます。

今年は11月29日の待降節のはじまりまで心身、物資ともども自分にできることを、自分に無理のないテンポで準備に入る。十二月を人は師走と言うけれど、師歩でいいぢゃないの?十一月に良い準備をして、十二月は一日、一日丁寧に過ごしてみよう、なんてどうでしょ。
よっこらしょっ、と。

le 31 octobre 2009, Quentin
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by ma_cocotte | 2009-10-31 19:44 | 『?』なたわ言 | Comments(0)
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