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「わたしたちの司教 ○○○ 」 の帰天
きょう、2009年12月30日。
日本國から遅れることの八時間。
きょうの朝、夜が明けるより前に友から一通の電子郵便。そこには日本時間午前6時45分(仏蘭西では前日午後10時45分)、「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一」が帰天されたと書かれていました。
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その直後から私の心がどこかソワソワオロオロしながら電脳域でその事実の確認作業に入りました。当初、何も見つからなかったのに、時が経つにつれて徐々に、徐々に。「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一」の訃報を見つけるたびに私はオロオロ、グサっ、射祷の繰り返し。以下、カトリック中央協議会の公式HP http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/index.htm に掲載された「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一」の訃報です。ほぼ同じ内容の訃報がカトリック東京大司教区の 公式HP に掲載されております。


ペトロ白柳誠一枢機卿 帰天

お知らせ  2009.12.30

前東京大司教 ペトロ白柳誠一枢機卿は、2009年12月30日午前6時45分、療養先のイエズス会上石神井修道院ロヨラハウスにて、心筋梗塞のため帰天した。享年81歳だった。枢機卿の永遠の安息のためにお祈りください。
葬儀・告別式
通夜:         2010年1月4日(月)午後6時
葬儀ミサ・告別式:  2010年1月5日(火)午前11時
場所はいずれも、 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて
(〒 112-0014 東京都文京区関口3-16-15)
喪主:   岡田武夫東京大司教
お問い合わせ: 東京教区本部事務局 Tel:03-3943-2301 Fax:03-3944-8511
(12/31~1/3は事務局休業のため、問い合わせはdiocese@tokyo.catholic.jp またはFAX番号にお願いします)
※ 駐車場に限りがありますので、公共の交通機関をご利用ください。


 
ペトロ白柳誠一(しらやなぎ・せいいち)枢機卿 略歴
1928年6月17日 東京都八王子市に生まれる。翌日、メイラン神父より受洗(八王子教会)
1954年12月21日 司祭叙階
1957年8月~1960年 ローマ留学。教皇庁立ウルバノ大学大学院博士課程(教会法)卒業
1966年3月15日 東京大司教区補佐司教に任命される
1966年5月8日 司教叙階
1969年11月15日 継承権を持つ協働大司教に任命される
1970年4月29日 東京大司教着座
1983年7月~1992年 日本カトリック司教協議会会長
1994年10月30日 枢機卿に任命される(教皇ヨハネ・パウロ2世により)
1994年11月26日 枢機卿親任
2000年6月 東京大司教引退
2005年4月18日 ヨハネ・パウロ2世教皇逝去に伴う教皇選挙に枢機卿として参加
2008年11月24日 ペトロ岐部司祭と187殉教者列福式ミサを主司式(長崎にて)
2009年12月30日 イエズス会上石神井修道院ロヨラハウスにて帰天(81歳)

皆様のお祈りをお願い申し上げます。

(2009.12.30) http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/news/index.htm#20091230


私が「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一」と書き連ねることで不敬と取られる方がいらっさるかもしれません。が、こう書き連ねることには子供のような単純な思いが老婆(=不肖ま・ここっと)にはあります。
私が通っていた中学、高校では当時6学年を三分し、つまり「中1・中2」「中3・高1」「高2・高3」に分け、かわりばんこに初金のごミサと毎月24日にささげる聖母ミサにあずかる義務が全生徒にありました。全校生徒の9割はカトリック信者ではなく、私もその9割に含まれるひとりだったので、中学校入学までの幼稚園や小学校の生活では聖堂で祈る習慣はあったもののミサについては何も知りませんでした。この二つ、いずれかのミサにあずかる日は放課後に行うお掃除をお昼休みに行い、六時間目終了と同時に聖堂に向かい、ミサにあずかりました。
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↑ 1967年、我が母校の聖堂で行われた白柳大司教さま司式の堅信式だそう ↑


私の記憶が確かならば黒革の聖歌集は各生徒が持参し、赤い「キリストと我等のミサ」というミサの式次第は聖堂で借りられました。月に二度とは言え、ミサにあずかることを繰り返しているうちに子供の柔軟な脳味噌でミサは毎回同じ文章で行われること、信者の同級生と自分の立場は違うことなど判断し、加えて「ごミサ」なる式典の間に唱える文章は毎回同じであることに気付き、卒業頃には暗記していました。ごミサは一時間弱でしたが、その典礼の定型文の中に毎度登場するのが「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一」でした。奉献文の「わたしたちの司教 ○○○ 」の ○○○ に置かれる名前が東京都と千葉県内の教会では東京大司教区教区長の名前になります。当時の私は白柳大司教さまに学園内行事でもお目にかかったこともありませんでしたが、お名前だけは、いえ、お名前どころか役職、霊名まで丸暗記してしまい、高校卒業後、教会に通うようになって、ナマの動いてお話なさる「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一」をお見上げ申し上げました。おそらく今日、明日、報道で白柳大司教さまの訃報を知ることになる我が母校の同窓生の多くが「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一だ・・・」とつぶやくはず。白柳大司教さまは約30年もの間、東京大司教区の長上さまとして奉献されました。

私のような田舎モノのカトリック部外者は成人年齢達する直前で、神さまの思し召しにより、動く「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一」を拝見しましたが、四谷や飯田橋界隈の耶蘇校に通うお子たちは信者であろうとなかろうと幼い頃から登下校の途中、街中でしばしば「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一」を目撃し、自分のまわりの信者の子が慇懃無礼なほど丁寧な呼称から「ちょっと、それって誰よ?」と突っ込みいれたくなるほどの愛称で指摘が繰り返されることで、ミサの中で登場する「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一」とナマの「ちびっこシラちゃん」がしっかりインプットされるという環境にあったようです。飯田橋から番町までの裏道で、はたまた四谷駅前の中央出版社やドンボスコ社で立ち読み中の「ちびっこシラちゃん」を目撃した児童、生徒はひとりではありますまい。

というのも、私が子供の頃は「白柳大司教さま」という呼称で最も親しまれていた「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一」師は前出の経歴には書かれておりませんが旧制)中学校から飯田橋の暁星学園で過ごされていたそうです。ですから、白柳大司教さまにとりましては神田あたりから四谷、内堀から外堀、市谷を抜けて江戸川橋あたりは裏道小道までくまなくご存知のはず。白柳大司教さまがデュマタンに入学した当初から幼年志願者のおひとりだったのか、それとも信者子弟のおひとりだったのかは私は存じません。が、白柳大司教さまご自身が第二次世界大戦末期、神学校(現在の大司教館)から池袋、赤羽駅を経て勤労動員でゴム加工工場に通い、防毒マスクづくりに励んだことを述懐されてもおりますので、12歳頃には召命を聞かれ、八王子のご実家を離れ、関口の志願院から飯田橋の暁星まで通ってらっしゃったのかもしれません。

私個人、白柳枢機卿さまを最後にお見上げ申し上げましたのは昨年10月11日、東京のカテドラルでラテン語荘厳ミサを主司式された時でした。長いミサでしたけれど、白柳枢機卿さまのお姿とは大きなギャップがある独特な低く落ち着いたお声に乗せて、「聖母が自らの意志でベルナデットの前に現れたのではなく、神さまからの思し召しを聞いたことで聖母はベルナデットの前に現れたのですよ」というお説教が今も忘れられないというか、このお一言で居眠りから目が覚めたというか、目を覚ますほどのお言葉を忘れるつもりなんぞ私にはなく、この2008年10月11日以降、繰り返し私の傲慢を白柳枢機卿さまのこのお言葉が抑え戒めてくださっています。Merci, mon père. 暁星育ちの白柳枢機卿さまならわかってくださいます。仏蘭西の世界では神父さまを「mon père 私のお父さん」と呼ぶことを。みなしごでも、家族と不和でも、「私の教会のお父さん、ありがとう。」なのです。
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↑ 1970年、或る児童福祉施設の祝別式で。 ↑

「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一」がヨハネ・パウロ二世の御世に枢機卿として任命され、「白柳大司教さま」ではなく「白柳枢機卿さま」とおよびするようになった時はどこか馴染めず、寂しい思いをしました。ヨハネ・パウロ二世が来日あそばされた直後から白柳大司教さま、濱尾司教さま、イエズス会のピッタウ学長が次々とローマにお呼ばれされてしまった時の寂しさや不安を私は今も忘れられません。今になってヨハネ・パウロ二世、濱王に続きちびっこシラちゃんが天主さまに呼ばれてしまい、ほんと寂しい。この世にどんどん未練がなくなっていく自分を実感するきょう。今こうして「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一」の帰天を知り、なにか心から抜けてしまったような思いに駆られてもおりますが、白柳大司教さまが天に帰られてしまっても、私が死ぬ日まで日本語だろうがドコの外国語だろうが私におけるカトリック典礼文の基本は「わたしたちの司教ペトロ白柳誠一」のままです。
わたしたちの司教 ペトロ白柳誠一大司教さま、
ありがとうございました。
暁星学園からほど近い カトリック神田教会 に参りますと、主聖堂に続く間に白柳枢機卿さまが集められた世界中の聖母像のコレクションが展示されています。召命を聞かれたことで幼いうちにご実家から離れられたであろう白柳枢機卿さまにとって聖母も「教会のお母さん」だったのでしょう。今頃は聖母のおそばで約70年に及ぶ奉献生活を終えての休息でらっしゃいますね。
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↑ 初誓願の日、立願者に会憲をさしあげる白柳大司教さま ↑


le 30 décembre 2009, Roger
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by ma_cocotte | 2009-12-30 18:50 | 『?』なKTOりっくん | Comments(2)
Commented by tama at 2009-12-31 10:31 x
白柳枢機卿のご冥福をおいのりもうしあげます。幸いなことに私となき夫とそろつて、初めて海外旅行したのがローマ・フランスの巡礼旅行でした。枢機卿さまとご一緒だつたのです!!2週間の間、毎日枢機卿さま司式のミサに預かりました。カステルガンドルフオでJPⅡにお目にかかれたのも枢機卿様のおかげでした。あの丘をあがつて、教皇さまのお住まいまでの道で息苦しくなられたときは、とても心配しました。枢機卿さまは暁星でフランス語を第一語学で学ばれ、そのあと英語を学ばれた苦労を話してくださいました。かなり語学の才能のおありな方でした。あの達筆の御便りは夫が大切にアルバムにはつてくれています。1998年の事です。巡礼地はルルド・ヌベールでした。穏やかで、物怖じされない、力を感じさせるお方と一緒に過ごせた日々を有り難く、懐かしく思いだしております。
Commented by ma_cocotte at 2009-12-31 17:00
+ tama さま、白柳枢機卿さまとの良い思い出を携えてらっしゃる
こと、良いことですね。しかも、巡礼旅行でずっとご一緒でしたらならば、
祭壇や説教壇を挟んで向き合った関係にプラスαが多々あり、
お互い良き友、良き仲間でイタリアやフランスの日々を過ごされたと
拝察いたします。

そう、白柳枢機卿さまは暁星出身です。(田口枢機卿さまもそうですね)
戦前の暁星ですから優雅だけれど畏れるほど厳しい教育環境の中
で育てられた男子はフランス語もラテン語も堪能ですね。昨日の
菊地司教さまのブログではイタリア語もご苦労ないとありました。

白柳枢機卿さまの特長はあのお声にあるのでは?と毎度、白柳
大司教さまのごミサにあずかるたびに感じ取っていました。
お声が低く朗々としており、例えるなら静かなせせらぎのようなので
我が心に沁みるし、我が心の中のゴツゴツした岩にその流れが
引っかかり、岩の凸凹が丸くなるまで静かに心のうちから自分に
働きかけてくださっているように感じています。

兎にも角にも寂しいです。
私個人が知る日本のカトリックは既に天国が本拠地かもしれません。
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