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秤の目盛を正すのも狂わせるのもヒトの思いにある。
ココんちでパンを繰り返し作るようになり、失敗についての反省から秤をあらためました。とは言っても、10ユーロほどの素朴な調理用秤です。パンを作るには粉を用いますから、秤を使う時には器をまず乗せ、その後、メモリの位置をゼロにして粉を器に移し計量します。計量を終え、空になった器を秤から持ち上げると、針先がグインっとゼロから動き、その勢いの良さや移動の幅に驚かされたりするものです。

ところで、

====== 十 ======


日本國で栄えている或るSNSの一コミュニティスペースにおきまして、2011年6月9日付で拙ブログについて、掲載されているUPIやル・モンドなど有名な通信社のニュース画像が許可をとって掲載していないだろうに、ぜんぶ許可をとって掲載し、ちゃんと払っているなら、ブログにお金をかけられるかなり裕福な方なんでしょう、という推測の私見が書かれていました。

私は拙ブログに自分の手による写真ではなく、他者の手による写真や通信社・新聞社が掲載した写真と同じ写真を掲載する場合、写真の右脇または下に拝借した先のURLを必ず貼っています。もちろん新聞社側の規約も拝読してから行動に移しています。

拙ブログもウヰンドウズで言うところの右クリックをしても私のような素人が撮影した写真さえコピーできないようにしてありますが、このような手段は有名通信社数社では既に何年も前から実行されていることです。このように拙ブログにおいて写真の根本的掲載元や撮影者につながるURLや名称を公開し、もし団体や個人との間に問題が発生するとしたならば、いずれも私本人に通達または連絡を筋道通して行われます。こんなこと、社会常識です。

そもそもなぜ或るSNSの一コミュニティスペースに、読者ゼロに等しい拙ブログの掲載写真についてまるで違法のような話に摩り替え、しかも私個人が裕福などと懐具合まで自己妄想を付け加えて批判文が掲載されたのかと申しますと、その掲載日2011年6月9日の数日前から、同じSNSの別の位置コミュニティで、日本國内で親しまれている名称で言うところのトリエントミサの和訳典礼文が公開されていたことについて、私が転載者ご本人に転載許可をカトリックの聖側からいただいているのかということと、ご自分のミッション(使命)だとして聖側のどなたから依頼または承認を得ているのかと問い質したからです。

当初、トリエントミサの典礼文は日本國の法律に従った著作権の基準のみに照らし合わせた返答が私にありましたが、私が問うているのはカトリックという世界の中での決まり事や慣習を中心にしてのことで、掲載者ご本人が世俗であることから尚の事、この方に聖側のどなたが依頼または、この方が欲したことだとして、この方がまず聖側のどなたに相談して委任や承認を得ての実行なのか確認したかったのです。もしこの流れがないのであれば、カトリックの世界においては順番を間違えた行いであり、いくらヴァチカンの公式HPに掲載されたトリエントミサ(普通カトリックでは1962ミサ、ピオVミサ、ヨハネ23世ミサという愛称で呼ばれています)典礼のラテン語原文の日本語訳を掲載しても、それはあくまで私訳であり、なんらヴァチカンにつながらない私家訳域に過ぎません。

私個人においては耶蘇女学校の生徒だった頃(学童だった頃ではありません)、在校生全員の必修である宗教の授業中に生徒全員にカトリックの本が渡され、本の表紙裏、題名裏や後ろ扉裏にあるラテン語の承認表記諸々教えられ、この承認なき本はカトリックに非ずとまでビシっと教えられました。(ただし、近年の、聖人伝や聖職者エッセイには必ずしもラテン語の証明や司教認証はありません。が、修道会によっては上長や管区長名が掲載されていることがあります)

この土台が幼い頃から私個人にあり、齢重ねて2009年春、私が地元教区のローマ巡礼団に加えていただいた際、ローマでヴァチカンの仏語部署でミッションを遂行されている仏蘭西人司教様にお目にかかる機会があり、その際、司教様からヴァチカン公用語のひとつである仏蘭西語部署にいる自分は楽をしているが、公用語でない外国語、特に極東アジア言語、とりわけ日本語の翻訳での諸問題はヴァチカンとの間で難しい問題が山積なのでどうか全てがよくはかどるように祈ってください、と日本語なんかカンケーない仏蘭西のド田舎教区のただ死ぬ前にヴァチカンをひと目見たいだけの気持ちで巡礼に参加した金髪碧眼の世俗たちにお願いしてくださったのです。これ、私はお話を伺った現場で末席にいたけれど、ヴァチカンの執務室という現場では相当深刻でありましょうし、そんな現場を見れない私たちにとっては典礼文や祈祷文、公文書にしても各国語訳を検められるヴァチカンの典礼秘跡省 や 教理省の役割を私たちの都合で軽んじたり、端折ってはならないのですよ。

こんなローマでのお話に続いて、里帰りの際に私が通っていた学校のシスターにお目にかかったら、教皇様がご覧になる文章すべての事前検めのおつとめを同じ修道女会のシスターが仰せつかっており、そのシスターが少し前に来日され、日本管区のシスター方にお話してくださり、修道院に戻れないほどの多忙で、お食事もひとりぽっちで摂ることが多くなり寂しいと思うこともあるけれどカトリックのためにはたらきます、ときっぱりおっしゃったそうです(もちろんイタリア語で)。ヨソの修道女会なら兎も角・・・なんて言っちゃいけませんが、私個人がお世話になりっぱなしの修道女会につながる方が教会内で動く諸文書ではたらいていることを知ってしまって私が「ヴァチカンの承認なんて後でどうにかなるわよ」なんて口にしたらバチがたかりそうです。


====== 十 ======


ま、この2011年6月9日の或るSNSの一コミュニティの一コメントで思い出した件があり、それは拙ブログを長くご覧になっている方ももしかしたら思い出されたと思いますが、2009年春の聖ピオ十世会関連の話題です。拙ブログのカテゴリでは、破門→波紋→和解→破壊 

この時、拙ブログで聖ピオ十世会の話題になると必ず現れる論客さん(砂漠の植物の総称をHNにしている方で現在も電脳域で大活躍中)が複数の論客さんと共に現れ、私が拙ブログに掲載したヴァチカンから公文書で指導を受けたウヰリアムソン師の写真を外すよう命じてきたことがありました。

なぜかその時の理由が上の6月9日に或るSNSで掲載された意見と似て遠からぢという不思議。

この方々がしばらく前に、お二方ご本人のブログではなく他人様のブログでなぜか私の批判を長々と書き連ねたこともツイッター経由で知りましたが、お二方はお親しくつながっているのですね。

もうひとつ、この6月9日の或るSNSの一コミュニティーにおける拙ブログ批判発言の元となったトリエントミサ典礼文の日本語訳掲載の件で、掲載を続ける方がご自分の行いを妨害したとご本人が判断した場合、ほうぼうに妨害したとされた人々についての批判を投稿し、反論が来るとご自分が送信したコメントを消すという繰り返しを続けています。偶然ですが、拙ブログに聖ピオ十世会の話題になると必ずおでましになる砂漠の植物名をHNにされる茨城在住の女性とお仲間も拙ブログで同じ事を行うのが常です。

何かお仲間内で決まった電脳域対策マニュアルでもあるのでしょうか?


====== 十 ======


兎にも角にも、写真の転載と公文書和訳の転載は秤にかけたとして同じ重さでも同じ類のものでもありません。カトリックの慣習やカトリック世界での承認までの順番を軽んじたり端折ることを聖域に住んでもいない立場の者が聖職者の指導もなしに行っていいなんて話、聞いたことが私にはありません。あくまでも私のような者は見聞知ったことを重く捉えて動いたとして、それをご覧になった聖職者が「そんなに厳しく捉えなくても大丈夫ですよ。一緒に進んでみましょう」とおっしゃってくださった時点で、我が心身が少しは軽くなるものです。それでも神父様と共に慎重に動くのは言うまでもありません。カトリックのためなのですから。私が電脳域だけでなくこの世から消えてもなんらこの慣習はカトリックのために働く人々の間でつながれていくだけです。

ところが、ヴァチカンの承認を経ても得てもいない日本語私訳が先行し電脳域で紹介されていることについて、その行為を弁護したいがために、私個人の拙ブログの写真掲載事情や私個人の懐が裕福だの何だの取り出したところで、秤の目盛を動かしているのは私個人を批判して弁護に奮闘している一個なのですよ。ご自分が秤の目盛を動かして、読者に天秤にかけて見せ、同じ重さではありませんか、と力説したところで、目盛を調節したのは力説している個人です。目盛を動かしたことを知らないヒトは騙されるでしょうけれど、既にヴァチカンの習慣を知っているヒトにはくっだらない言い訳に過ぎません。力説するヒトがいなかったら見聞しなくて済んだ話です。

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今回の一件であらためて気づかされましたけれど、ヴァチカンの承認ない典礼文日本語訳の無断公開が「たいしたことない」という発想は1988年当時、ヴァチカンの承認なしに4司祭をおひとりで叙階したルフェーヴル大司教事件後の言い分とねっとりそっくりということ。たいしたことあるのですよ、破門になったくらいですから。

まっこと、薄気味悪い一致であります。


どんなに甘い言葉で追認で何とかなるとか言われようが、私個人について批判があろうが、
あなたがしても、私はしない。


この夏、カトリックから聖書が新たに発売されますが、もし翻訳に携わった方がヴァチカンや司教様、長上様から承認をいただく前に電脳域で訳を次から次に掲載なさったでしょうか?世俗がカトリック世界の中で一番自由な身だから好き勝手していいなんて主張する方にはカリタスのCの字もない、自己の欲求を満たして快感を得ているに過ぎない、憐憫極まりありません。


le 22 juin 2011, Alban



未だ一件も通信社や新聞社、撮影者ご本人から拙ブログの写真掲載について抗議を頂戴したことが私にはありません。今回のようなことがありましても、他人の懐の中や重さまで想像し印象を読者に知らせる下品さを私がまねることもありません。6月9日のコメントは十戒の第8戒において罪になる一例ですがな。善い子はマネしちゃダメよん。






上の本文中に掲載した2011年6月9日に或るSNSの一コミュニティに拙ブログについて意見を書かれた方がこれまで数年に渡り、そのSNSと拙ブログ他で私が使用しているHNが異なるという理由で私が成りすまし行為を行っていると喧伝されていますが、2007年当時、この方が管理するブログではなく第三者のブログのコメント欄で同様に私の成りすまし行為を騒ぎ始め、その場で意見するよう私に求めて来ましたが、どう考えても第三者のブログのコメント欄で、SNS諸々自己理由を書き連ねることが愚かであり、対話の流れが変わると思ったので私は返答せず無視しました。

ですが、根本どころか抜本的に或るSNSで私が他のHNを使用していることは、拙ブログに長く集っていらっしゃる方々の多くがご存知の理由があり、実際、私はそのSNSに再登録で、最初の登録時のHNが「ま・ここっと」であったことも、現実世界で面識なくとも拙ブログでつながっている方々はご存知のことです。

つまり、この数年、私のHNが違うことを元に成りすましをしているとウワサを流し続けているご本人がご存知ないだけで、誰もその方に拙ブログやSNSを含め私が遭遇したトラブルについて説明された方がいなかった「だけ」なのです。
実際、当時のトラブル前からつながり、当時の経緯を知る方も複数、現在も拙ブログをご覧くださっています。

2007年にこの方が第三者のブログでこの件について話題にした時も、既に私はブログ主宛に理由を私信で送っており(現在も手元にそのやり取りは残っています)、この往復私信についても両者共もこの方に明かすことがなかったに過ぎません。

私にまつわる件のように、複数の匿名HNで成りすましを行っていると素人が面識ない他人を裁判にかける遊びを面白おかしくできるのも電脳の世界には散見されることですが、本当のことを知っていても誰からも真実を知らせてもらえないことの方がまったく笑えない電脳上の公開悲劇で、そんな悲しみやあわれみの感情をを私たちに教え、与えているのが、独善のウワサを数年かけて流し続けながら楽しんでいる人々であるということ。自分の益になるウワサを流し続けたいがために、真実には知らぬふりを続けるのもウワサを流し続ける当人であるということ。

空回りは現在もまだ続いていますが、空回りの動力が神によるものでないことは明白です。
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by ma_cocotte | 2011-06-22 15:21 | 『?』なたわ言 | Comments(0)
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