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きょうび メアクルパ Mea Culpa がわからない共和国民のために、
シャルリ・エブド最新号の表紙に Tout est pardonné が用いられたのではないでしょうかねぇ。
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先週金曜午後5時すぎにテロ事件2箇所での終結を見てまもなく、テレビやラジオのスピーカーからやたらメア・クルパ Mea culpa の鍵語が飛び交うようになりました。メア・クルパというのは昔、昔、カトリックのミサの典礼文がラテン語だった時代、ミサの最初に「メアクルパ、メアクルパ、メア・マキシマ・クルパ mea culpa mea culpa mea maxima culpa」と一同が声に出して必ず唱えており、そういう宗教の枠から抜き出ても、仏蘭西の日常の生活文化において「もうしません」という意味を含めて、ラテン語のままメア・クルパという語を用いることがしばしばあります。近年だと政治家のスキャンダル直後に登場することが多かったかな。
ちなみに、英訳だと"through my fault, through my fault, through my most grievous fault"、和訳だとカトリック典礼文から引くに「私は思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。」となります。典礼文ではこれら「思い、ことば、行い、怠り」による私たちの罪について、全能の神があわれみをもってゆるしてくださるよう祈り結んでいます。(カトリック典礼においてこの回心の祈りは何語であっても真意はひとつです)。

さて、日本国から8時間ほど遅れて夜明けを見るココんちあたり。昨晩から昨日にかけて昨日発売のシャルリエブド最新号表紙に掲げられた「Tout est pardonné. トゥテパルドネ」について誤った和訳が飛び交っていると私にまで情報が届きました。きょうの朝になり、こんぴーたを開いたら、以下の記事を目にすることができました。
「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題
第一ページ http://synodos.jp/international/12340
第二ページ http://synodos.jp/international/12340/2
なるほど。
Tout est pardonné について神だか神の代弁者であるムハンマドさまが「すべてを許した」という和訳が飛び交っていると。確かに日本語の「ゆるす」は「許す」と「赦す」の漢字を選べるし、「かいしん」も「改心」と「回心」の漢字を当てられますよね。意味を無視すれば、どちらも間違った漢字表現ではありません。でも、意味で判断するならば、まったく違います。

今回のテロ事件。
勃発直後から普通のイスラム教徒さんたちは「テロ行為、殺人行為を神が許してはいない」と繰り返し続けました。この世界すべてをイスラムそのものにするためにテロ行為が神の思し召しである、と思い込んでいるのはイスラム原理教条主義過激派のひとびとだけです。この点についても、実はイスラムではモーセの十戒と律法を啓典のひとつにしているので、自称は原理教条主義者なのに自ら守っていないという矛盾が見えてきます。

さて、日本語の説明。 Tout est pardonné を「許す」と広めたことについて、新聞社だか記者、または編集長が無知でそう表現したのか、逆に意図的にその漢字をあてはめて世間に知らせたのか、では大きく意味が異なってきます。過失と罪、更には無知による罪と知った上での罪は分けて捉えるのが傍観者、仲介者の役割です。だから、神だか神の代理人であるムハンマドさまがテロ事件のすべてを許したのであれば、それはテロ行為という言動も神は認可し、ゴーサインを出していることになります。が、神だか神の代理人であるムハンマドさまが「すべてを赦した」のであれば、それはテロリスト側、シャルリエブド他全ての犠牲者の「思い、ことば、行い、怠り」を今はあわれみをもって、今の彼らは(あの世で)無罪放免となっている」という意味合いになります。これについて、深く掘り下げれば、カトリックにおける告解(日本語世界では懺悔と紹介されることが多い)という習慣と儀式において最後に神の代理である司祭によって「すべてが赦される」締めくくりがあるので、実はこの表紙はカトリック習慣を知る人に対してもそこはかとなく刺激あるアピールになっているのですよ。決して、対イスラム世界の諷刺表現とは言い切れません。
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↑ 天国でシャルリエブド社の犠牲者がムハンマドさまに「あなたの間違いではありません」と慰めている諷刺画↑


新聞社が発表した解釈を正とするならば、イスラムの神だか神の代弁者ムハンマドさまがテロ行為を認可していることになりますから、そんな言動を認める神について異教びとである日本人たちが正誤判断し始めるのも当たり前ですね。新聞社はそれを狙っているのかな?

昨日からシャルリ・エブド社襲撃で他界した方々の葬儀が始まっており、昨日は二人、こんにちは5人の葬儀と埋葬が行われます。
昨日の午前中はカビュ CABU の埋葬が彼の故郷で行われました。彼は両親と同じ墓石の下に埋葬されたそうですが、アンチ・カトリックなので、葬儀非公開(とはっきりニュウスで説明されました)。もうひとりの犠牲者は昨日の午後一番でクレルモンフェランの司教座聖堂で司教司式の葬儀ミサで送られたとのこと。

ふぅううん。
先週水曜の午後からやたら天国での犠牲者を表した諷刺画が飛び交っていたので気になってはいたのですが。上に貼ったムハンマドさまを慰めているひとり、一番左はCABUにそっくり。そして、以下も天国でテロリスト兄弟に諷刺画を講義しているカビュを表した諷刺画です。
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この手の天国に行った犠牲者たちを表す諷刺画が私の目に入るたびに違和感を持っていましたけれど、昨日の葬送をもって、カビュが天国に今いると前提するのも単に書き手の表現の自由であり、穿って見れば書き手の勝手な思い込みであります。

シャルリ・エブドという雑誌が無神論左派系であることはこれまでにも記しましたけれど、左派と言っても仏蘭西という国においてはイコールマルクス主義とは捉えません。トロツキスト方面もアナキスト方面も自分の都合だけを拾っている独善ヒダリ、さまざまなグループに枝分かれしているのが仏蘭西のヒダリですし、そもそもマルクス主義はイスラームだけ宗教として認めていますからね。ユダヤ教、カトリックとは同列で裁けません。
いずれにせよ、カビュがアンチ・カトリックであるとなると、「人生、この世で終わったらそれまで。すべて終わり」と信じているかもしれないので、こちらの思い込みで天国に連れて行くのもどこか気が引けてくるのは私だけでしょうか。

私個人はシャルリ・エブドから発信される話題になんら共感を持ちません。

ただただテロリストが異教やら無宗教のひとをイスラム信仰に導く手段として武器を用いること、テロリスト個人が守る道徳を他人に押し付けることを正と信じ込んでいること、個人の自由を押しつぶして全体を創造しようとすることに同意することはできません。これはイスラムだけでなく、いかなる宗教でも、いかなる政治でもそうです。全体主義など気持悪くてなりません。その観点でシャルリエブドの犠牲者について同情します。雑誌の内容についてはこういうことがあってもなんら贔屓しませんよ。現状だと「こりゃ、また、テロられるな」と私個人は予想してますもん。
金曜のユダヤ食材店でのテロについては、シャバット直前を狙ったこともわかるし、テロリストが「お前らがユダヤ人だから殺す Tués parce que juifs 」と連呼したことも知っています。今から70年前にナチスが嬉々として行っていたことと同根なので気持悪くてなりません。しかも、セネガル系のテロリストにユダヤ人の何が関係あるのでしょうね。彼はイスラム世界で重んじられるアブラハムやらムハンマドさまにつながる血統なのでしょうか?単に洗脳されて、最前線に送り込まれただけなんぢゃないの?と。sigh...Bof...


まあ、しばらくは他界したテロリストさんの改心ではなく回心について脳やら心のどこかに留めておくことにします。
と、こんな私の考えももし「死をもってすべて終わり」と考えるならば空論になります。テロリストさんたちは殉教すれば天国直行で、70数名の処女が待っていると信じ込んでいましたから、ちょびっとは有効かな?



le 15 janvier 2015, Remi

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by ma_cocotte | 2015-01-15 17:27 | actualité 現時点の現場から | Comments(0)
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