<< こんにち7月29日金曜日は「節... 二人目。 >>
世界中で、いつも、同じ。
昨日は、ミサ漬け。
おとといの夕方、花の都はパリのノートルダム司教座聖堂で捧げられた先の教会テロ事件の犠牲者と家族のために意向をささげたミサとポーランドで開催されているワールドユースデイでの教皇司式ミサ生中継と2本も「ミサ中継」を視聴してしまいました。でも、私ですから「~しながら視聴」です。

カトリックのミサというのは平日でも主日(=土曜夜から日曜夜まで)でも世界中同じ朗読箇所が読まれ、平日は2つ(旧約または新約の使徒行録以降のいずれかと福音書)、主日は3つ(たいていは旧約、新約の使徒行録以降、福音書)で、これらはヴァチカン本丸で定められているわけです。ただし、葬儀や結婚、幼児洗礼など内輪のミサにおいては必ずしも同日の決められた箇所を読みません。そして、平日ならば二つの聖書朗読の間に、主日ならばひとつ目の朗読の後に答唱詩篇という、旧約の詩篇が朗読または朗誦されることになっています。
で、おとといの、2016年7月27日水曜日ですが、世界中のカトリック聖堂のごミサで朝から夜まで読まれた朗読箇所は以下のとおりざます。
第一朗読 エレミヤ15・10、16-21

エレミヤの預言
15・10ああ、わたしは災いだ。
わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。
国中でわたしは争いの絶えぬ男
いさかいの絶えぬ男とされている。
わたしはだれの債権者になったことも
だれの債務者になったこともないのに
だれもがわたしを呪う。

16あなたの御言葉が見いだされたとき
わたしはそれをむさぼり食べました。
あなたの御言葉は、わたしのものとなり
わたしの心は喜び躍りました。
万軍の神、主よ。
わたしはあなたの御名をもって呼ばれている者です。

17わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく
御手に捕らえられ、独りで座っていました。
あなたはわたしを憤りで満たされました。
18なぜ、わたしの痛みはやむことなく
わたしの傷は重くて、いえないのですか。
あなたはわたしを裏切り
当てにならない流れのようになられました。

19それに対して、主はこう言われた。
「あなたが帰ろうとするなら
わたしのもとに帰らせ
わたしの前に立たせよう。
もし、あなたが軽率に言葉を吐かず
熟慮して語るなら
わたしはあなたを、わたしの口とする。
あなたが彼らの所に帰るのではない。
彼らこそあなたのもとに帰るのだ。
20この民に対して
わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。
彼らはあなたに戦いを挑むが
勝つことはできない。
わたしがあなたと共にいて助け
あなたを救い出す、と主は言われる。
21わたしはあなたを悪人の手から救い出し
強暴な者の手から解き放つ。」


答唱詩編 詩編56・2+3、4+10

詩編56
56・2神よ、あわれみを注いでください。
わたしは昼も夜もしいたげられ
3はむかう者がいつもわたしに襲いかかり、
逆らう者はあとをたたない。

4恐れにとらえられるとき、
わたしはあなたにより頼む。
10わたしはあなたに助けを求め、
神がともにおられることを知るようになる。


福音朗読 マタイ13・44-46

マタイによる福音
そのとき、イエスは人々に言われた。13・44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

となりますので、ココでおとといの夕方にパリの司教座聖堂で捧げられたごミサのビデオを見ると、



このごミサがささげられたのは水曜日の夕方だったこともあり、答唄詩篇だけ56ではなく58を選んでいますが(これはヴァチカンからおそらく二択の選択肢があったのだと思います)、第一朗読と福音書朗読は上に掲載したとおり、同日に世界中のすべてのカトリック聖堂で読まれている箇所と同じです。つまり、教会テロ事件の犠牲者とその家族(への慰め)が意向のごミサであっても、聖書朗読箇所はヴァチカンからの思し召しのままだったンですわ。少し考えたら、このごミサはノートルダム聖堂で連日捧げられている夕ミサに意向を乗せて同時刻に捧げられた、または時間がずれても夕ミサに置き換えられているかもしれないので、聖書朗読箇所は「そのまま」なのかもしれませんね。まあ、いずれにせよ、このごミサで朗読された聖書箇所は、聖だろうが俗だろうが、個人の選択による朗読箇所ではありません。

ヴァチカンがどのように箇所を選んでいるのか細かなことを員数外の私が知る由も術もありませんが、ただ、私個人の過去を振り返ると10年ほど前、私自身の教会婚やココんちの仏人の堅信の準備で、長らくイタリア人の修道女から要理を学んでいた時、そのシスターは80歳代の方ということもあり、必ず勉強に入る前に聖書朗読を行い、それはただ声を出して読めば済むのではなく、声の大きさから息継ぎまで指導するというもので、その時に旧約聖書の好戦を連想する箇所を読まずに飛ばす。その直前になると必ずシスターが「止め」とおっしゃり、飛ばすことをご命じになる。私は大昔にカトリックの学校で学んだものだから、シスターになぜ飛ばすのか質問したら、今の時代、カトリックでは旧約の好戦にあたる場所を読まないのです、と教えてくださったのでした。これは聖書のみ信ずの新教の方々とのおしゃべりでしばしば口論になりかねず、私自身もシスターに倣い、好戦箇所をあえて取り上げる方々から怒りを頂戴したこともあります。

ですが、洗脳と言われちゃそれまでなのかもしれませんが、好戦にあたる箇所を抜いて、平和につながる連想となる聖書箇所のみを聴き、自分の脳と心でよく考え、自分自身も平和を築くひとりになっていくという行いは、それこそ神がヒトを創造した時にヒトに与えた賜物だと思うというか信じます。もしいくら考えても納得行かなかったら、聖だろうが俗だろうが自分が信頼するひとに正直な気持を話し、他者の意見を伺って、また自分の脳と心で考える。こうしている間にも時は進んでいるわけで。脳みそ洗われたりしねーぜよw

このエントリーをタイプしながら、半十年前くらいにカトリックの洗礼を受けた「プロテスタント環境育ち」の友人がカトリックの礼拝では世界中で同じ朗読箇所が読まれていることに感動していたことを思い出しました。その時にそういえば私が耶蘇女学校の女学生だった当時、シスターが宗教の授業でカトリックでは世界中どこであろうとどんな言語であってもひとつの典礼(文)と教えてくださったことが脳内スウィングしたことは言うまでもありません。

カトリックっていいなあ・・・とあらためて感じ入った金曜の朝でした。

・・・でも、金曜日なので自分の外出には気をつけようっと。こんな思いを発したくないけれど、しかたないか。悲しいね。


le 29 juillet 2016, Marthe








あれ?
このビデオを拝見しつつ、気づいたことですが、朗読に用いている仏語聖書がエルサレム版ではありません。
もしかしてTOB(新教が中心となって作られた共同訳聖書)から引いているのかしら?

ま、あたし個人は毎日、日本語で朗読箇所読んでるから、重箱の隅をつっついているようなつぶやきだなw
[PR]
by ma_cocotte | 2016-07-29 16:44 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
名前
URL
画像認証
削除用パスワード
<< こんにち7月29日金曜日は「節... 二人目。 >>