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大聖女の功罪なのかもしれないけれどさ。
昨日は午前十時から仏国営放送総合(France 2)で生中継されたコルコタの(マザー)テレザの列聖式とそれに続く主日ミサを私は毎度のごとく「~ながら視聴」しました。こんぴーたにおいてもYouTubeのヴァチカン公式チャンネルからライヴ中継されていたので便利でした。コレ ↓ ね。デオ・おグラアシアス。


おフランスでは一週前の日曜の午前にマザーテレサの生前についてドキュメンタリー番組が放映され、その翌日からコマアシャルで次の日曜日の午前十時から列聖式生中継放映と繰り返されていたせいか、傍観していると現実でもテレビ画面の中でもどこか多くのひとびとがヒステリー状態になってしまっているのではないかと想像するほどでしたが、こうして列聖式のライヴ中継を見たら、参列者はサンピエトロ広場内に納まっていたので想像より参列した一般人が少ない。現実に目を覚ますことができました。やっぱヴィジュアルって大事だね。聞いただけぢゃ妄想が災いします。

まあ、昨日は「これをもってマザーテレサは聖人になりました、まるっ」程度の締めくくりの心持だったのは私だけではないと思うし、一方で今もって「とうとうマザーテレサは聖人になったのだ」と興奮が冷めないままのひとびとも世界中にたくさんいらっしゃるのだと察します。

昨日はたまたま「マザーテレサ」で検索したらマザーについての批判文書が上位を占めていたのでちょいとヴぃくーりもしましたし、私個人の彼女への冷めた、ドンビキの感覚の理由の根と比べ、その批判が私のソレとはツボ違いに思えたのでちょっと安心したりもしました。

私のようなおば(あ)さんが未成年時にたまたまカトリックミッションスクールに籍を置いたことで、はるか昔のマザーテレサの来日やその後の各国訪問、ノーベル平和賞受賞の前後もライヴで知ってはいました。当時の批判の素は単純に2点だったと記憶しています。それは彼女が集金上手であることと、臨終洗礼がマザーテレサが有名になって以降減ったことです。

集金上手については私としては19世紀の天才がドンボスコなら、20世紀の天才がマザーテレサ程度にしか想像つきません。で、それの何が問題なのかもよくわからん。というのも、きょうび列聖審査や会議には必ず列聖にネガティヴな立場の人物が委員に存在しているので「福者某は金集めに熱心で、祈りに欠けていた。清貧から見ていかがなもんだろ?」と問う者が複数いるわけです。そういう反論者からの意見も含めて最終的に列聖が決定し、教皇がお認めするわけですから、世界に散らばるシモジモがブーブー言い続けるのは愚。意外と列聖認定は「お友達サークルでわいわい」としか概念にないひとびとが列聖について疑いと教会批判を延々と述べまくるのが世の常だったりしますね。

次に臨終洗礼については、むしろこちらの問題の方が「お金集めの天才」の話題より重要なことなのかもしれません。
昔だったら、政教一致の国においては、国民の生から死までカトリックが包括していたわけで、病院で誕生した赤ん坊がすぐ病院内の聖堂で洗礼を受けることも当たり前、孤児院に引き取られた子供が洗礼をすぐ授けられてしまうのも当たり前でした。が、これは「政教一致の、カトリックが国教の国」だからであり、宣教先の異教国の場合はどうなのだろう?と一呼吸置くのが考察する道筋の出始めではないかと思います。

マザーテレサが生涯のほとんどを過ごしたのはインドであり、インドにおいてキリスト教、カトリックはマイナー宗教です。ヒンズー教の生活文化ゆえか、インドは貧富の差が大きい国でもあるので、世界中のキリスト教新旧あらゆる派閥の団体が宣教師をインドに派遣しました。マザーテレサも最初は富裕層の女子を教育する学園に派遣されたカトリックの宣教女のひとりでした。彼女はインドで日常を過ごすことで、インドには「生まれながらに死ぬために存在する階級」が存在することや障がい者として生まれた赤子を捨てる習慣もあることを、インド国内にありながら富に恵まれた学園、修道院を囲む塀から飛び出したことで現実を知り、塀の外の広い世界でそのような枠に追い込まれた弱者たちへの救済の思いがどんどん心の中で強くなり、最後には彼女が奉献生活をしていた修道会から一度出、新たにインド巷の貧困者を救済するための修道女会の設立となったわけです。

日本ではどういう理由、心理なのかマザーが創立した「死を待つ人の家」についてばかりクローズアップされますが、おフランスではなぜか「死を待つ人の家」より路上に置き去りにされた乳幼児、障がい児の施設について強調されることが多いです。

個人的に思うに、ですが、カトリックの慣習からして、もし乳幼児の施設に引き取られた乳幼児や障がい児には洗礼が授けられているでしょうが、死を待つ人の家に引き取られた成人男女には洗礼を必ずしも授けておらず、彼ら本人の意思と意志を引き取った側の施設職員が何より尊重するというベースです。乳幼児と成人を分けて考える。もちろんわれわれがカトリック信者ならば死にゆくひとを前に愛があればあるほど天国に直行してもらいたいから臨終洗礼を授けたくなる気持ちは当然、自然です。が、おそらくマザーテレサの判断は引き取った成人がもし意識清明ならば本人の宗旨を尋ね、そのご本人が信じる宗教を尊重して「死に行く人の死」を見送り、その方のこの世の人生を締めくくられていたのだと思います。これがもし、マザーがご自分の施設に運ばれた死にいくひとびと全員にまず必ず洗礼を授け、洗礼を授けられた者のみが施設の敷居をまたげ、治療をはじめとする恩恵にあずかれるといたならば、ネットで批判をしている人物の数が幾分減ったのかもしれません。(つまり、乳幼児施設で行っているであろうことだけれど、このcan、can、canな文章に吐き気を催すわい。特権の押し付けぢゃんね。)

ここまでの話でもカトリックを知らないとよくわかんない話ですが、さらによくわかんない話を進めると、カトリックにおいて死んだひとの葬儀の形式はたいした問題ではないのです。なぜなら葬式は亡くなった本人とって秘跡ぢゃないんです。でも、ひとの死の前にいただく秘跡は死に行く本人にとってとても重要で、それは今の時代だと「病者の塗油」と呼ばれるもので、一昔前だと死の直前に一度だけ受ける秘跡でした。(余談、ルルドの聖母出現で有名な聖女ベルナデット・スゥビルは危篤時にこの秘跡を受けた後、元気に生還し、この不思議を二度繰り返し、3度目の病者の秘跡をいただいた後、帰天したのでした。これについて二度の生還時にベルナデット本人が笑い話にしていたそうです。)この病者の秘跡には通常、ゆるしの秘跡(告解)と聖体拝領がトッピングされるわけでして、異教国においてはどうしても死に行くひとを見送るために、そのひとが異教徒であるならば先ず臨終洗礼、続いて聖体拝領、告解、病者の塗油で「A Dieu、A Dios」となります。この臨終洗礼について、意外や布教国(=いずれの御時にかカトリックが国教国だったフランスのような国)の教区司祭だと「そんなこと、神学校で教えてもらってませんよ」なんて平気でおっしゃることがあるのが現実でして、司祭であるにもかかわらず彼らの概念に臨終洗礼そのものがまったくなかったりするので、宣教国からフランスはじめカトリックおマヂョリティ国に宣教国から移住しているカトちゃんズはこの点に「お気をつけあそばせ」だったりします。彼らは素直に、ご自分が病院に呼ばれるのは既に幼児洗礼を受けた人物が人生最後の告解、聖体拝領、病者の塗油を司祭であるご自分が司るから、と捉えています。そもそもフランスの公立病院では司祭にこれが許されていても、病室域において入院患者に宣教すること、洗礼を授けることは禁じられているのですから臨終洗礼の概念が植えつけられたところで病院ではそれを実行するのが限りなく難しいとなります。これまた余談ですが、フランスでは年々成人洗礼者数が増加しているという現実があるので、臨終洗礼について教区司祭も知る時期に入っていると思います。死を前にして希望するフランス人はひとりやふたりいることでしょうし。もちろん毛嫌いし、神やらカトリックについて口汚い言葉を止めずに息絶えるフランス人も何百人、何千人と存在します。

で、話戻って、インドにおいて、マザーテレサが引き取った死に向かっているひとびとに臨終洗礼を授けなかったことについて私個人はそれでいいのではないかなあと思います。ご本人が望んでいないのに無理に水をぶっかけてもねぇ。ですが、もし自分と血がつながっているひとで、ほうぼうのカトリック信者さんから「臨終洗礼を授けた方がいい。これは特例だから世俗のあなたが授けてもかまわないのよ」とルルドの水が入ったプラスチック壜を握り締めさせられたら、自分の死に行く身内を思って水をぶっかけるかもしれないし、その人物個人のキャラから考えて動かないかもしれないし、もし意識が既にないのならぴゅっぴゅっぴゅっと動いちゃうかもしれないけれど、それが果たして私個人の思いなのか、聖霊の働きなのか
わかんない
この「わかんない」は実はマザーテレサも同じ気持、考えだったンではないですかねぇ。はい。祈りに祈って出た見解が、死に行くひとご本人の意志を尊重するので、あたしは無理やり彼(女)に水をぶっかけない、なんでしょう。

それはたぶん、もしマザーテレサご自身がイスラム主義国で死に行くひととなり、イスラームの施設で終末を過ごすことになり、お世話してくださるムスリム、ムスリマから「イエス(=アラビア語だとイーサー)は神の子ではなく、ムハンマドさまより下位の預言者だと誓いなさい。誓わなかったらあなたを救いません」と言われたら?マザーテレサご自身が信じ、唱えるクレド(信仰箇条)の文面と矛盾してしまうではありませんか。これを仮定すると、ご自分の施設に次々と運ばれてくるひとびとに正論を独善で押し付け、うなずかせていいものかどうか。

臨終洗礼についてもし小教区に知らせがあれば受洗者リストに載り、年度末に統計の人数に加算され、数値が増えることになるけれど、その数を強く意識するのもいかがなものでしょう。その数だけで自ら安心できるというのも一種、病気だと私は思う。信仰というのはそういう目に見えるものの上に「ある」なんだろうし、数字で悲喜こもごもというのはちょっと、かなり「天国は遠い」気ガス・・・w

それに洗礼を受けてようが、いまいが、死んだ直後の私審判についてこの世に生きている最中のわれわれが正しく確認できないわけで・・・。そうかと言って、洗礼の有無に関係なくすべての霊魂は天国に入るという万民救済を説かれるわけわかんねー聖職者もきょうびいるし、その説教に魅了されて洗礼を受ける羊もいるし。

知らないよねぇ、そんなの。
自分が死ななきゃ真実はわからんぜよw
でも、自分がどんなパーな話を信じようが信じまいが真理にブレはなんら無しですぜ。


le 5 septembre 2016, Raïssa




しゃべくりついでに、ヴァチカンが問題視しているのは「マザーテレサ教」ですよね。ほれ、「パードレ・ピオ教」もそのひとつ。列聖した人物が信仰対象になって神についてはその聖人が信じていたし、私たちにも信じるよう勧めたので「あたしもカトリックを信じる」というヤツ。


それ、違うから。
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by ma_cocotte | 2016-09-05 18:25 | 『?』なKTOりっくん | Comments(3)
Commented at 2016-09-06 05:49
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by ma_cocotte at 2016-09-06 15:56
+2016-09-06 05:49鍵コメさま、

当時を振り返っての今ですよね。
近年、マザーテレサを軸にカトリックを語られる方の多くが実は今世紀に入ってから彼女を
知って騒いでいると思います。
Commented by ma_cocotte at 2016-09-06 16:23
つぶやき、ぼやきですけれど、
私個人は臨終洗礼に賛成の立場です。
これについて強制改宗(死にいくひとの弱さをいいことに強者である施設運営者側が
無理に改宗させた(ここでは洗礼を授ける)」という話に作り変えるのはいかがなものか
と思います。カトリックを知らないとこういう説明はわかりやすいかもしれないけれど、
臨終洗礼の思い、行いはそういう次元で片付けられるものではありません。
誰にも知られず、誰に言わなくても良い行いですしねw
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