カテゴリ:『?』なたわ言( 127 )
秤の目盛を正すのも狂わせるのもヒトの思いにある。
ココんちでパンを繰り返し作るようになり、失敗についての反省から秤をあらためました。とは言っても、10ユーロほどの素朴な調理用秤です。パンを作るには粉を用いますから、秤を使う時には器をまず乗せ、その後、メモリの位置をゼロにして粉を器に移し計量します。計量を終え、空になった器を秤から持ち上げると、針先がグインっとゼロから動き、その勢いの良さや移動の幅に驚かされたりするものです。

ところで、

====== 十 ======


日本國で栄えている或るSNSの一コミュニティスペースにおきまして、2011年6月9日付で拙ブログについて、掲載されているUPIやル・モンドなど有名な通信社のニュース画像が許可をとって掲載していないだろうに、ぜんぶ許可をとって掲載し、ちゃんと払っているなら、ブログにお金をかけられるかなり裕福な方なんでしょう、という推測の私見が書かれていました。

私は拙ブログに自分の手による写真ではなく、他者の手による写真や通信社・新聞社が掲載した写真と同じ写真を掲載する場合、写真の右脇または下に拝借した先のURLを必ず貼っています。もちろん新聞社側の規約も拝読してから行動に移しています。

拙ブログもウヰンドウズで言うところの右クリックをしても私のような素人が撮影した写真さえコピーできないようにしてありますが、このような手段は有名通信社数社では既に何年も前から実行されていることです。このように拙ブログにおいて写真の根本的掲載元や撮影者につながるURLや名称を公開し、もし団体や個人との間に問題が発生するとしたならば、いずれも私本人に通達または連絡を筋道通して行われます。こんなこと、社会常識です。

そもそもなぜ或るSNSの一コミュニティスペースに、読者ゼロに等しい拙ブログの掲載写真についてまるで違法のような話に摩り替え、しかも私個人が裕福などと懐具合まで自己妄想を付け加えて批判文が掲載されたのかと申しますと、その掲載日2011年6月9日の数日前から、同じSNSの別の位置コミュニティで、日本國内で親しまれている名称で言うところのトリエントミサの和訳典礼文が公開されていたことについて、私が転載者ご本人に転載許可をカトリックの聖側からいただいているのかということと、ご自分のミッション(使命)だとして聖側のどなたから依頼または承認を得ているのかと問い質したからです。

当初、トリエントミサの典礼文は日本國の法律に従った著作権の基準のみに照らし合わせた返答が私にありましたが、私が問うているのはカトリックという世界の中での決まり事や慣習を中心にしてのことで、掲載者ご本人が世俗であることから尚の事、この方に聖側のどなたが依頼または、この方が欲したことだとして、この方がまず聖側のどなたに相談して委任や承認を得ての実行なのか確認したかったのです。もしこの流れがないのであれば、カトリックの世界においては順番を間違えた行いであり、いくらヴァチカンの公式HPに掲載されたトリエントミサ(普通カトリックでは1962ミサ、ピオVミサ、ヨハネ23世ミサという愛称で呼ばれています)典礼のラテン語原文の日本語訳を掲載しても、それはあくまで私訳であり、なんらヴァチカンにつながらない私家訳域に過ぎません。

私個人においては耶蘇女学校の生徒だった頃(学童だった頃ではありません)、在校生全員の必修である宗教の授業中に生徒全員にカトリックの本が渡され、本の表紙裏、題名裏や後ろ扉裏にあるラテン語の承認表記諸々教えられ、この承認なき本はカトリックに非ずとまでビシっと教えられました。(ただし、近年の、聖人伝や聖職者エッセイには必ずしもラテン語の証明や司教認証はありません。が、修道会によっては上長や管区長名が掲載されていることがあります)

この土台が幼い頃から私個人にあり、齢重ねて2009年春、私が地元教区のローマ巡礼団に加えていただいた際、ローマでヴァチカンの仏語部署でミッションを遂行されている仏蘭西人司教様にお目にかかる機会があり、その際、司教様からヴァチカン公用語のひとつである仏蘭西語部署にいる自分は楽をしているが、公用語でない外国語、特に極東アジア言語、とりわけ日本語の翻訳での諸問題はヴァチカンとの間で難しい問題が山積なのでどうか全てがよくはかどるように祈ってください、と日本語なんかカンケーない仏蘭西のド田舎教区のただ死ぬ前にヴァチカンをひと目見たいだけの気持ちで巡礼に参加した金髪碧眼の世俗たちにお願いしてくださったのです。これ、私はお話を伺った現場で末席にいたけれど、ヴァチカンの執務室という現場では相当深刻でありましょうし、そんな現場を見れない私たちにとっては典礼文や祈祷文、公文書にしても各国語訳を検められるヴァチカンの典礼秘跡省 や 教理省の役割を私たちの都合で軽んじたり、端折ってはならないのですよ。

こんなローマでのお話に続いて、里帰りの際に私が通っていた学校のシスターにお目にかかったら、教皇様がご覧になる文章すべての事前検めのおつとめを同じ修道女会のシスターが仰せつかっており、そのシスターが少し前に来日され、日本管区のシスター方にお話してくださり、修道院に戻れないほどの多忙で、お食事もひとりぽっちで摂ることが多くなり寂しいと思うこともあるけれどカトリックのためにはたらきます、ときっぱりおっしゃったそうです(もちろんイタリア語で)。ヨソの修道女会なら兎も角・・・なんて言っちゃいけませんが、私個人がお世話になりっぱなしの修道女会につながる方が教会内で動く諸文書ではたらいていることを知ってしまって私が「ヴァチカンの承認なんて後でどうにかなるわよ」なんて口にしたらバチがたかりそうです。


====== 十 ======


ま、この2011年6月9日の或るSNSの一コミュニティの一コメントで思い出した件があり、それは拙ブログを長くご覧になっている方ももしかしたら思い出されたと思いますが、2009年春の聖ピオ十世会関連の話題です。拙ブログのカテゴリでは、破門→波紋→和解→破壊 

この時、拙ブログで聖ピオ十世会の話題になると必ず現れる論客さん(砂漠の植物の総称をHNにしている方で現在も電脳域で大活躍中)が複数の論客さんと共に現れ、私が拙ブログに掲載したヴァチカンから公文書で指導を受けたウヰリアムソン師の写真を外すよう命じてきたことがありました。

なぜかその時の理由が上の6月9日に或るSNSで掲載された意見と似て遠からぢという不思議。

この方々がしばらく前に、お二方ご本人のブログではなく他人様のブログでなぜか私の批判を長々と書き連ねたこともツイッター経由で知りましたが、お二方はお親しくつながっているのですね。

もうひとつ、この6月9日の或るSNSの一コミュニティーにおける拙ブログ批判発言の元となったトリエントミサ典礼文の日本語訳掲載の件で、掲載を続ける方がご自分の行いを妨害したとご本人が判断した場合、ほうぼうに妨害したとされた人々についての批判を投稿し、反論が来るとご自分が送信したコメントを消すという繰り返しを続けています。偶然ですが、拙ブログに聖ピオ十世会の話題になると必ずおでましになる砂漠の植物名をHNにされる茨城在住の女性とお仲間も拙ブログで同じ事を行うのが常です。

何かお仲間内で決まった電脳域対策マニュアルでもあるのでしょうか?


====== 十 ======


兎にも角にも、写真の転載と公文書和訳の転載は秤にかけたとして同じ重さでも同じ類のものでもありません。カトリックの慣習やカトリック世界での承認までの順番を軽んじたり端折ることを聖域に住んでもいない立場の者が聖職者の指導もなしに行っていいなんて話、聞いたことが私にはありません。あくまでも私のような者は見聞知ったことを重く捉えて動いたとして、それをご覧になった聖職者が「そんなに厳しく捉えなくても大丈夫ですよ。一緒に進んでみましょう」とおっしゃってくださった時点で、我が心身が少しは軽くなるものです。それでも神父様と共に慎重に動くのは言うまでもありません。カトリックのためなのですから。私が電脳域だけでなくこの世から消えてもなんらこの慣習はカトリックのために働く人々の間でつながれていくだけです。

ところが、ヴァチカンの承認を経ても得てもいない日本語私訳が先行し電脳域で紹介されていることについて、その行為を弁護したいがために、私個人の拙ブログの写真掲載事情や私個人の懐が裕福だの何だの取り出したところで、秤の目盛を動かしているのは私個人を批判して弁護に奮闘している一個なのですよ。ご自分が秤の目盛を動かして、読者に天秤にかけて見せ、同じ重さではありませんか、と力説したところで、目盛を調節したのは力説している個人です。目盛を動かしたことを知らないヒトは騙されるでしょうけれど、既にヴァチカンの習慣を知っているヒトにはくっだらない言い訳に過ぎません。力説するヒトがいなかったら見聞しなくて済んだ話です。

====== 十 ======


今回の一件であらためて気づかされましたけれど、ヴァチカンの承認ない典礼文日本語訳の無断公開が「たいしたことない」という発想は1988年当時、ヴァチカンの承認なしに4司祭をおひとりで叙階したルフェーヴル大司教事件後の言い分とねっとりそっくりということ。たいしたことあるのですよ、破門になったくらいですから。

まっこと、薄気味悪い一致であります。


どんなに甘い言葉で追認で何とかなるとか言われようが、私個人について批判があろうが、
あなたがしても、私はしない。


この夏、カトリックから聖書が新たに発売されますが、もし翻訳に携わった方がヴァチカンや司教様、長上様から承認をいただく前に電脳域で訳を次から次に掲載なさったでしょうか?世俗がカトリック世界の中で一番自由な身だから好き勝手していいなんて主張する方にはカリタスのCの字もない、自己の欲求を満たして快感を得ているに過ぎない、憐憫極まりありません。


le 22 juin 2011, Alban



未だ一件も通信社や新聞社、撮影者ご本人から拙ブログの写真掲載について抗議を頂戴したことが私にはありません。今回のようなことがありましても、他人の懐の中や重さまで想像し印象を読者に知らせる下品さを私がまねることもありません。6月9日のコメントは十戒の第8戒において罪になる一例ですがな。善い子はマネしちゃダメよん。

▼ それと、ついでにもうひとつ
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by ma_cocotte | 2011-06-22 15:21 | 『?』なたわ言 | Comments(0)
こんな時こそ、信、望、愛
昨夕の私はヴァチカン放送局の公式HP(英文)を通じて、教皇ベネディクト16世が100,000米ドルを日本の復興のために寄付されたことを知りました。
Charity & Solidarity > 14/03/2011 11.50.46
Pope Benedict sends financial aid to Japan

 At the weekend, Pope Benedict XVI sent a charitable donation of $100,000 U.S. dollars to the Catholic Bishops’ Conference of Japan to help victims of the devastating earthquake and tsunami that struck the Asian nation last Friday.
 Msgr. Anthony Figueiredo, an official at the Pontifical Council Cor Unum, the Vatican office responsible for papal donations to charities, told Vatican Radio’s Tracey McClure that they are working closely with the bishops, Caritas Internationalis and other aid organisations to determine how to respond to the greatest needs of Japan’s people.
 Calling it “a major tragedy,” Msgr. Figueiredo cited Japan as the latest in a string of major disasters, including the 2004 tsunami in Asia, a devastating earthquake and flooding in Pakistan and the catastrophic earthquake in Haiti a little more than a year ago.
 “The first thing we must do is really to pray… for these people to give them hope.” He said.
 “Obviously, material, concrete aid is necessary. The Holy Father has sent through this Pontifical Council the sum of one hundred thousand dollars to the (Japanese) Bishops’ Conference simply because this is the quickest way the funds can get to those dioceses most affected. Also the bishops are the first responsible for charity in the diocese and they know the needs of the people.”
 “We are keeping a close monitor on the needs… Often there’s the immediate response which is good. The Holy Father himself asked for this immediate response. But then in time, the tragedy is often forgotten. This is what we experienced in Haiti… so the Church wants to be there not only in the short term but especially in the long term where many of the secular agencies have gone and there’s no one to help.”

http://www.radiovaticana.org/en1/Articolo.asp?c=469712

記事の中ほどにありますとおり、
“The first thing we must do is really to pray… for these people to give them hope.” He said.
まずは真剣に私たちは祈らなければなりません。被災者の方々に希望が与えられますようにと。
教皇さまのおっしゃるとおりだと思います。
何もない私ですが末端にあれど、後に倣います。

こんなことがあればどうしたってうつむきがちになってしまうけれど、絶望せずに、暗闇の中にひと筋の光を見出せれば必ず希望に誘われると私は信じたいのです。「祈ってる場合ぢゃない!」と怒る方々がいらっしゃるならば、祈る余裕がその方々より1%でもある私が代わります。そして、時間が経てば経つほど、どうしたって弱い私たちは疑いの心を持ち易くなりますから、こんな時こそ「信、望、愛」を私は想起し、意識して行きたいです。

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そして、いつか空にかかった虹を共に仰げる日が来たら、と思いつつ、今日も射祷を続けます。

le 15 mars 2011, Louise

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by ma_cocotte | 2011-03-15 18:43 | 『?』なたわ言 | Comments(6)
まさかこんなことになろうとは、
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きょう、1月3日。
私の誕生日に、私ひとりでお墓参り。
2008年2月に他界した母に感謝の言葉と謝罪の言葉を、手を合わせて。

お誕生日はその日に誕生した人を祝い、祝われる日ですが、親の帰天を境に、それ以降は自分を産み育ててくれた親に感謝する日に変わるのだと、親の死をもってようやく私は知りました。


恥かしながら、私ひとりで墓参は初めてで、
父から教えられたとおり、駅前でお花を買い、お寺でお線香をいただき、
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井戸でお水を汲んで墓前に行き、諸事行って時計を見たら、

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私が誕生した時間と同じでした。

でお・ぐらーしあす。


le 3 janvier 2011, Geneviève

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by ma_cocotte | 2011-01-03 23:03 | 『?』なたわ言 | Comments(2)
世界のどこにいても、今、私はココで生きている日本国籍者なのに、
数日前、ココんち地元の歯医者さんに行きました。今年2月に里帰りした際、滞在二日目の朝に奥歯の詰め物が取れたので、それを治療していただくためです。今回の実家滞在は4週間だったので、実家滞在の残り26日は口内に多少不便を感じながら過ごし、共和国内のココんちに戻ってから歯科医に予約したので数日前の治療となりました。仏蘭西において専門医の治療待ちで半年以上先の日時を言い渡されることもありますから、これでも早い方です。私個人は既に日本國の国民健康保険には登録しておりませんので、滞在二日目の口内不具合で、しかも実家滞在ならば地元の役所で国民健康保険登録して治療すればよいではないか、という意見も多分にあります。しかし、私だけかもしれませんが、海外に長期滞在中であれど、正真正銘の日本國国籍保持である私自身が既に一度、里帰り中の国民健康保険登録で実に納得行かないことに直面した経験があります。

それは、2008年9月。
その年の2月に母が永眠したことで納骨や繰上げの一周忌を行うことになり、一か月の予定で私は里帰りの計画を立てました。この滞在中に私が動かねばならない諸事があり、そのひとつは印鑑証明書作成でした。実家地元の役所に行き、まず印鑑証明書作成の受付に行ったところ、もし印鑑証明書を作るなら同時に国民年金と国民健康保険に登録する義務があるとのことだったので、待ち時間の間に年金と健康保険の手続きをすることにしました。受付を見渡すと国民年金の係が空いていたのでまず国民年金手続きをし、ここでもまた待ち時間の間に健康保険手続きをすることにしました。健康保険の受付で私の番となり、カウンター向こうの男性と向き合い、その方が私の書類に目を通し始めたところで「たった一か月で病院悪用逃げするつもりヂャねーだろうな!?」と大きな声で叫んで来ました。その役所は昭和30年代の建築物なので天井が高く、声の響きも生かされていますから、ごった返していた待合席の人々が一斉にこちらに目玉を動かしました。彼は第一声を大きく発した後、ブツブツと「あんた、海外在住なんだろ?またあっちに「帰る」ンだろ?この頃、海外在住者が国保登録し、病院や歯医者に通ってすぐ消える奴が多いンだよ!」と。確かに私の実家がある地方の小都市には近年、アジアだけでなくアフリカや中南米からの労働移民が増えています。実際、その日も役所の中に一割近く外国籍と思われる人々がいました。

ですがね、ワタクシ。
思い切り自己中心で語るなら・・・つうか、その男性にも話したことですが、生まれた直後から海外在住直前まで一度たりとも引越を経験せず、住民票の住所で成長した私なのです。しかも、印鑑証明登録の条件が国民年金、国民健康保険登録であるのに、なぜこのような罵声を飛ばされるのか理解に苦しむ、と。確かにもし印鑑証明登録と同時に国保取得となるならば、私としてはガタが来ている身体ほうぼうの検診に行きたいと考えていました。私はその回の帰国時にも実家の住所で私宛に届いていた(過去においての)国民健康保険の請求も支払い、過去の年金登録を確認する何通もの書類にも全て決まりに従って行いました。もし今回の、印鑑証明登録「ついで」だけれど「しなければならない」国保登録に納税が発生したところで私は逃げも隠れもせず払います。

しかもね、印鑑証明書ですが、私のような海外在住者は住民票記載の土地から離れる前に役所に変換せねばならなかったのです。国民年金も同様。(現在もこの条件なのか私は自己中なんで存知ません)。いちおう、多分、おそらく良心を携えたミーは印鑑証明書変換時に国保も一緒に変換しますよ。だってね、日本國内に自分の身体が存在しないのに納税義務が発生するわけです。親からも、企業からも援助がないミーは超ウルトラスーパーどけちでもあるのでこんなことはこちらから契約解除です。

一方、仏蘭西ですが、私は共和国民との婚姻によって長期滞在が認められているだけのガイジンという立場です。私は仏蘭西でも日本國民。長期滞在なので納税義務もあるし、共和国の国民健康保険にも強制登録させられています。昨年3月にイタリアはローマに参りましたが、事前に旅行会社から連絡があり、社会保険庁でEU保険証を作成するよう命じられました。クレジットカードと似たような外見ですが、これさえあれば共和国外であってもEU国内ならば保険治療していただけるのだそうです。私は共和国民でも、EU国民でもないのに、この恩恵にあずかることができました。
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そこはかとなく2008年9月の実家地元の役所での一件は小心者の私にはトラウマになってしまいました。ですから、今年2月の実家滞在第二日目に歯の詰め物が取れても「日本では我慢しよう」と日本国民の私が結論を出したのです。日本國の役所では海外に出た日本人が母国に戻ったところで、そう簡単にそういう条件の日本人を救わないという考えであるなら、日本で生まれて日本で育ち実家滞在中の私が健康面を自分の母国では我慢して寄留国で治療を選んだ方が良いと。

2008年9月の件も、今年2月の不便を我慢した件も私にはどこかおかしい気がするけれど、私が「おかしい」と思うのも私個人が自己中心だからなのでしょうね。頭のイイ方々が国際の見地から涼やかに眺めるならば、日本国内の、役所が海外在住の一日本国民にこう指導したことは当たり前だのクラッカーなのでしょう。

歯医者さんではまな板の鯉のように診察椅子の上で動けなくなった私が大きく口を開けたところで、医師が助手を呼んで「御覧なさい、御覧なさい」と。その後、レントゲン室に医師と移動中にどこで治療したのか質問され、「日本で、です」と返答すれば「すばらしい治療ですね」と十年以上も前の技術をほめるのが仏蘭西です。

が、私のような三角形の底辺の一存在の立場の判断では社会保険もろもろについては仏蘭西のミッテラン時代でも現時点の日本では感心されるように思います。
感心して止まらずに、実行してください。
日本國は大金持でアタマのイイ島国なンだから。


le 26 mai 2010, Bérenger
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by ma_cocotte | 2010-05-26 16:50 | 『?』なたわ言 | Comments(4)
まことに小さな國の、カイカキ、カイカイ
数日前、日本語電脳域の某巨大掲示板のカトリック関連スレで、まことに小さいながら日出づる國内にある某耶蘇女学校について、そのまことに小さい國内で用いられる偏差値なる価値を引用して、その学校を卒業した人物の価値を量るコメントを、まことに小さい國に住む耶蘇教信者らしき人物が投稿していたことを私は知りました。
まことに小さな國の、まことに恥じ入るべき発展途上の耶蘇教信者でありますな。
どうもその論客や、この論客を支持する取り巻き方は日常、ヴァチカンや教皇庁に直訴することを喜びとしている信者方と拝察するので、そんな電脳域の、しかもまことに小さい國内で用いられる日本語でコソコソと学校組織やその学校を選択した親と在校生、卒業生をバカにするのではなく、はっきりと教皇さま宛にその思いを直訴したらいかがでしょう?

批判になった対象の学校をまことに小さな國であずかる修道会の創立者はヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の祭壇向かって右、聖ペトロの着座像の真上に像が置かれ、共同創立者である修道女のモザイク肖像画は同じくサンピエトロ大聖堂の主祭壇左の右奥に掲げられています。もしこのまことに小さな國でヴァチカン直結の教皇忠誠派の方々のご意見ならば教皇さまが受け入れて、その像や肖像画を取り下げて、彼らが認める聖人の像や肖像画に置き換えてくださるかもしれません。
あああ、わたしたちの教皇さま、ベーネデット、
わたしたちの願いを聞き入れてくださってありがとう。
そもそも偏差値というものはまことに小さい國の国籍を持つヒトが決めた価値であり、いつヴァチカンでその価値を認可したのでしょう?日本司教団が偏差値についてヴァチカンに認可申請を出したなんて聞いたことがありません。

世俗の日本人信者がカトリック教会の外の価値観を内に持ち込み披露したところで必ずしもその価値観を受け入れることはカトリックの世界ではありません。まことに小さい國で唯一の偏差値のないカトリックミッションスクールだから日本のカトリック信者として恥ずかしいからいっそ廃校にしてくれ、という願いも、どうぞご自由にご自分が所属する教会の主任司祭にも、教区長さまにも、その修道会の管区長さまにも堂々とその思いをお話になったらいかがでしょう。巨大掲示板で匿名で批判を書いたところで、神さまには送信した本人も、その送信した方の心の思いも全てご存知なのですから。

もし教皇さまに無事、偏差値の低いカトリック校とその学校に集う者が愚劣である旨が書かれた書簡が届いたら、タルチシオ・ベルトーネ国務長官にお昼ご飯の時にでもお話してくださるでしょう。ベルトーネ国務長官が奉献した修道会がそのまことに小さな國の偏差値が低い学校をあずかっていますから話は早いです。総長さまのお耳に届き、まことに小さな國の偏差値もない学校なんぞつぶしてくださるかもしれません。その前に一言、教皇さまのお目に入れる諸文書の検め役は、そのまことに小さな國の偏差値が低い学校をあずかっている修道会で奉献する修道女であり、教皇さまからその役を仰せつかりました。そして、その修道女会の現総長さまは弁護士の身分を持つ修道女であります。

どうぞまことに小さな國のあるカトリック女子校の偏差値が低く、愚弄なカトリックを教え、愚弄な卒業生を出していると、何語でも構いませんから堂々とヴァチカンにご自身の思いを直訴なさいませ。

証拠は以下のとおり。どうぞご覧ください。

940 :神も仏も名無しさん:2010/01/10(日) 01:23:26 ID:4ME/hcEu
(中略)
>>860
おつるの気持ちわかる。
ま●こっとなんてなんだ、偏差値30台のカトリック校出身なのを自慢してあの無知ぶりさらけだし、
自身認めるようにつるつる脳だ。
庵とに餡だって同じレベルでな~んもわかってないのに、濱~神父の弟子気取りか。
濱ちゃん、お気の毒
フランシスコ会在世フランシスコ会が泣くな。

おつるがんばれ。

サロメも まここっとと同類か

IDからIPやホストを検索できる方はどうぞご自由に。
投稿の内容ですが、私については100%事実です。私は無知です、死の瞬間まで知る喜びを味わい、感謝する立場の者です。この投稿、数か月前に今は閉鎖された掲示板で茨城県内在住と阪神間在住のご婦人方が既に批判していたこととほぼ同じ内容の繰り返しです。私は書かれているとおり偏差値の無きに等しい学園の長上さまに入園を認められて以降14年間育てていただきました。感謝しています。が、その14年間に学んだ宗教の授業内容を拙ブログに書くと「自慢」になるとは無理なこぢつけ、すなわち個人の心象の吐露になります。よほどカトリック校出身者にコンプレクスを持ってらっしゃる方と拝察します。カトリック校など卒業せずともご自分の方が博識とでもお披露目したいのでしょうか。数年前にヨソのブログで同じ状況(カトリック校を卒業=同類)の中に私は置かれたことがあります。個人の分やら器量を学校の価値だけで単純に計量しません。しかも、コメントにあるようにあの紅蘭を貶せるとは、ヴァチカン直結教皇忠誠派のカトリック信者だから日本国内のカトリック史について無知であることをこんな短いコメントで自ら披露していることになります。おそらくこの投稿者さんはこうして私が「紅蘭」と書いたところでわからないヒトですね。カトリック信者でなくても紅蘭の名を知るヒトは関東にゴロゴロいます。ですから、この投稿者さんが関東のカトリック史にも疎いことも明らか。私の母校と紅蘭ではまことに小さい國の価値のみで量るなら天と地ほどのレベルもレッテルも違います。紅蘭には私の母校に集うような馬の骨なんて一関節たりともいません。投稿者さんは崇高で立派な信者さんでしょうに、このような愚かなほど無知な投稿はあんとに庵さんはじめ同窓生、在校生、教職員方全てに失礼極まりない発言です。結局、投稿者さん個人の思惑が先に立って、日本カトリック史に残る上つ学び舎を大地に叩きのめすほど下に引き摺り下ろしているではありませんか。紅蘭に関わる皆様方、私の母校なんかと同列にしてしまい申し訳ありません。もしこのコメントの投稿者がまことに小さい國の司教様方や司祭方、宣教者方を信頼できないほど何もかもご存知のヴァチカン直結教皇忠誠信者だったら、二度とこのようなヒトが、しかも教皇庁立でもない、カトリックの外の世界の進学塾が決めた価値観で人間の優劣を示唆する発言を控えるべきです。いくら私が信じるに値しない人物か電脳域で広めるにしても学校の価値を照らし合わせるという発想はいかがなものでしょう。私の母校の短い歴史の中、幼稚園から短大まで全同窓生のうち、愚か者は私ひとりだけです。同窓生の中には聖職者も修道者もおります。私のせいで申し訳ありません。

しかも、師匠と弟子の関係についてはカトリックの世界でなくとも、お稽古事を経験したことがあれば誰しも師が認めなければ弟子と教え子本人は名乗らないことくらい知っているでしょう。師のお認めをいただかずに弟子と名乗るのは傲慢に過ぎません。面識もない第三者が軽んじて口にする事項ではないわい。故に、お稽古事も経験したことがない世間知らずの投稿者と拝察。思うに、我こそは真のカトリックの全てを知っていると香らせながらも、お部屋に篭っての独学によるカトリック世界観で、実はヴァチカンにも日本國のカトリックにおいても縁遠いと披露しておりますなあ。...ぷ。
カトリックもヴァチカンも自分のために変わらない。
自分がカトリックのために変わるのです。
これも偏差値がない私の母校の宗教の授業で習いました、はい
それが聖母に倣う、Fiat 、カトリック純潔教育のごくごく一部の重要事項でしょーに。

それにしても、ったく。ぽりぽり。別世界。
耶蘇 ≠ 邪疎 (-。-) ボソッ

le 11 janvier 2010, Balthazar

毎度、拙ブログにおいて鍵コメントでの脅しで快楽を得ている「カトリックのクリスチャン」の方々、今回もこれまでと同じく、他人を蔑む投稿は全てコピー&ペーストで公開しますのでご寛恕のほど。
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by ma_cocotte | 2010-01-11 18:03 | 『?』なたわ言 | Comments(11)
tétanos - こればかりは、私的に想定外
昨日26日の夕方からココんちの冷蔵庫に、こんなもの。
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破傷風のワクチンです。
詳細を申し上げると、破傷風の第二回目予防接種のワクチンであり、このワクチンを接種後、一か月内に第三回目予防接種ワクチンを打たねば効果がありません。

不肖ま・ここっと、昨日26日、破傷風の第一回予防接種を受けました、まる

というのも、昨日お昼過ぎ、私の不注意で左足人差し指の第一関節をざっくり切ってしまいました。自分では止血ができず、消防署に電話。救急隊員三名がココんちにいらして応急措置をしてくださいましたが、それで済むのかと思ったら救急車に乗せられてドナドナドナと旧市街の公立病院の救急に運ばれてしまいました。

受付での手続きが済み、看護師らしき男性に誘われた先は待合室。そこで診察まで待つこと約2時間。こういう深い切り傷の痛みというのは不定期に突然ズキっと来るものだから、
このままでは失血死ではないか、こんにゃろめ
と悲劇のヒロイン心理・・・なんかには決して墜ちませんけれど、ようやく診察が自分の番になり、担当である女医さんとご対面し、彼女がキズを眺めてすぐ私に向かって「テタノスの注射はいつ打ちましたか?」と。
¢( ・_・) ハテ? テタノス、なんだべ?
こちらもわからぬまま、いちおうBCGの痕と疱瘡の痕を披露したけれどどちらでもないと女医さんはおっしゃる。慌ててココんちを出たものだから辞書もバッグに忍ばせておらず、女医さんにテタノスとはどのような病なのか説明を求めてみました。女医さんの説明が始まって数秒後に「土中の細菌」という鍵語があったことで、こちらの脳味噌の記憶と合致、たぶん破傷風に間違いないとわかりました。破傷風の注射なんて打ったことがあっしにはございやせん。ところが、フランスでは青少年だけでなく成人も十年に一度破傷風接種の義務があるのだそうな。しかも、この日の私のように軽傷とは言え、医師が外科処置を行うにあたり、破傷風接種を受けていない患者の治療はしないのだそうです。ですから、私が破傷風注射を拒んだら治療をしないっちゅうこってす。注射嫌いなんですけれど、足の爪先はぶら~んとした皮膚とどす黒い血が。医師でも看護師でもない私が治せるかどうかもわからないので、予防接種に応じることにし、最初にキズの治療に入りましたが、診察台の上に乗ったこちらはウサギのようなもので、しかもこの女医さんは麻酔もせずに皮膚をはさみで切り落としました・・・。しぃ、しぃ、しぃ、死ぬかと思った。いや、死ぬわけありませんが、何せ生まれてから一度も身体にメスをあてたことがないままこの日を迎え、女医さんはメスではなくはさみで切り落としたから、その記録は更新中。

女医さんの豪快さに、今更ながらフランスという国の多くのヒトの中にはクロマニヨンという狩猟農耕民族の血が濃く流れていることを自覚させられました。実際、ココんちはクロマニヨンからそんなに遠くないし。

治療を終えた女医さんは私に向かって「さあ、破傷風予防接種を打ちましょう。担当は看護婦(註:仏蘭西語だと看護師の単語は性別で分けられるので、あえて看護婦)が参りますから」と部屋から消え、代わりに入ってきたのは体格のすこぶるよろしい看護婦サマ。なんと二本も注射を打つとおっしゃる。は、破傷風ですよ?一本は右の腕に打ち、この日から一か月以内に第二回ワクチン接種、そのまた一か月以内に第三回ワクチン接種をしないと公認されない予防接種なんですと。ワクチン接種証明記録のカードをいただきました。

そして、二本目の注射は今日の傷に即効性のあるお注射だそうで、なんとまあ、お尻にブスリとな。お尻に注射なんて不肖ま・ここっと齢ひと桁の頃に最後でござんしたが、何せこちらは診察台の上。体格の良い看護婦サマにぐいっと横向きにさせられ、ずりっとスパッツをおろされて、ズブっとな。フランスの接種方法は患者に深呼吸をさせ、それと同時に注射液を注ぎ込むというもの、フランスで初めて注射を経験した私には新鮮であり、こんな因幡の白兎状態でも「知る喜び」。

この間に先ほどの女医さんは薬局に提出する処方箋を作ってくださり、それを携えてココんち御用達の薬局へ。キズの消毒薬とガーゼ、傷口を保護する絆創膏と破傷風の第二回ワクチンをいただきました。ワクチンは接種当日まで冷蔵庫に保存することが義務です。

と、ココまで。
救急車の中、病院の救急、薬局でも一度もお財布も銭も触りませんでした。健康保険証のカードと互助組合の登録カードのみをそれぞれの担当者に提示するのみで、費用は患者を経由せずに行われます。このあたりの仕組はフランス式が好きなワタクシ。

それにしても、テタノス tétanos 。
ココんちに戻って辞書で調べたら破傷風とあり、ビンゴ。
テタノスを和訳すると破傷風なんて、医療に携わっていないと病名の発音だけでは想像するのが難しいですね。なぜにまたテタノスを破傷風と名付けたのだろう?昨日、私がした経験を友人たちに話したら、ボリビアでもエイメリカでも破傷風予防接種は成人の義務だそうです。日本國では破傷風なんて過去の流行り病のような捉え方にも関わらず、滅菌された商品があらゆる分野で出回っており、滅菌を重んずる方々から安定した消費を得ていますが、フランスという国の商店にはまだ日本のように滅菌商品が出回っていません。ところが、BIO生産を明記した食品は日本より普及しています。滅菌してお砂場遊びすることと、破傷風予防接種を受けてガーデニングや菜園を楽しむこと、どちらが良いのでしょうね?・・・なんてことが一夜明け今日の思考の課題。第一回ワクチン接種を受けた右腕が重たくて痛いです。注射なんて自分の人生において死の直前だろう、なんて思っていた私が甘かった。昨日の午後は自分の予定を自分の不注意によるケガと自分の思いも寄らない接種で根こそぎ払拭されてしまいました。

====== 十 ======

日本生まれの日本育ちの私にはこんな一日は厄日だと素直に定めてしまいますが、カトリックに生きる方々におかれましては神の大いなる目的の前のひとつの試練なのだから、
ああ、幸せのでお・ぐら~しあす
お手手とお手手を合わせて、あ~めぇん。





le 27 novembre 2009, Séverin
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by ma_cocotte | 2009-11-27 16:52 | 『?』なたわ言 | Comments(18)
偏見という名の脇道に迷い込む前に、
ココんところで二度、ライシテ laïcité と教育や病院など公共施設 の問題、ライシテと慰霊 の問題について触れたので、更にライシテがらみの仏蘭西での生活事情について触れ、そこから先はそこはかとなく深刻な脇道に脱線してみようと思います。
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まずは、結婚 Le mariage についてであります。
仏蘭西共和国における結婚は「市民婚 le mariage civil」と「宗教婚 le mariage religieux 」にはっきり分かれており、どちらか一方を挙げただけで二つを包括することはできません。わかりやすく説明すれば、前者は「公」だから共和国内に住む男女が夫婦と名乗るには必須、後者は「私」だから個人の自由、必ずしも挙げなくてよい儀式です。
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市民婚は新郎新婦どちらかが規定された月数を居住した市町村役場の婚姻の間 ↑ において、マリアンヌと呼ばれる女神像の前で、市町村長職の司式で挙げられ、その儀式の中で読み上げられる婚姻に関する仏蘭西共和国憲法に新郎新婦は宣誓せねばなりません。儀式の最後に宣誓書に新郎新婦と双方の証人、そして司式した市町村長のサインをもって婚姻が共和国に認められます。市民婚直後の数ヶ月の間に免許証や通帳、電力・水道請求など役所発行の証明書を提出して名義変更を行うと無料になることが多いです。
一方、宗教婚は個人が信仰する宗教施設で、その宗教の決まりに従って挙げられます。かつて仏蘭西の国教であったカトリックを例に挙げると、原則として待降節と四旬節の期間中を除く土曜日に、教会聖堂において、カトリックの祭壇の前で、カトリック司祭の司式で挙げられなければなりません。司祭の按手をもって祝福された男女は教会聖堂での挙式後、カトリック教会に婚姻を認められることになります。この挙式の証明を役所に提出したところで、仏蘭西共和国にはなんら認めてもらえないので、政府からの恩恵はありません。故に、市民婚はカトリック教会の婚姻の条件をまったく満たしていないので、もし教会で挙式しないまま市民婚のみで男女が夫婦生活に入った場合、婚前同棲の罪にあたるため、カトリック教会であげられるミサにおいての聖体拝領が禁じられます。ついでにカトリック信者の仏蘭西びとが異教徒である異性と婚姻する場合は、信者同士の婚姻と同様に婚姻前に結婚準備講座に通い、挙式においては誓約婚ではないので必ずしも司祭ではなく、永久助祭が挙げることもあります。仏蘭西のカトリック教会の場合、信者同士の婚姻の際は男女双方が自筆で司教宛に誓約書を書き、指導司祭に提出する義務があります。

====== 十 ======

以上、仏蘭西共和国においては日本國のように男女が結婚を欲し婚姻届という名の一枚の用紙を役所に提出すれば婚姻が成立することはなく、必ず役所で正味30分ほどの婚姻の儀式にあずからねばなりません(ただし、Pacte civil de solidarité (PACS、連帯市民契約) を覗く)。原則として土曜日にしか市民婚は行われないために、早いうちに役所に挙式日時を予約せねばならず、その際に提出する書類もかなりあります。中でも慣習証明という仏蘭西の伝統に則った書類は、自分が「清らかな成人である」と世間に認めてもらうために必要な書類で、婚姻の少し前から役所の掲示板に氏名も明らかに貼り出され、それを読んだ市民は婚姻に異議を唱える権利があります。重婚などの予防だそうですが。
例えば私のようなガイジン、しかもEU国以外の国籍を持つ外国人が仏蘭西共和国民と市民婚を挙げた後、長期滞在許可証の条件を配偶者に変更することができますが、その書類は県庁に提出し、場合によっては地元の共和国警察署において担当官との面談が必要となります。いくら役所や警察に教会やシナゴーグ、モスクで婚姻した証明書を持参しても長期滞在許可証の身分を書き換えることはできません。ところが、警察での面談において婚姻の種類を質問されるのも常という不思議があります。しかも、その婚姻の形がしっかりコンピュータに記録されます。仏蘭西はライシテの国なのに。

====== 十 ======

そして、もうひとつ。
共和国内の役所で婚姻する男女の義務は健康診断を受け、その書類を役所に提出しなければなりません。その健康診断の中にはエイズ検査も含まれています。自分は純潔だからと言う理由でエイズ検査を拒むことはできません。

で、エイズ AIDS 。仏蘭西語ではシダ SIDA と呼ばれていますが、もし市民婚を決めた男女が健康診断を受け、どちらかが、または双方がエイズ検査で陽性が出たとしても、仏蘭西共和国内において役所も、カトリック教会も二人の婚姻を無効にはしません。役所の場合、彼らの主治医や専門医が連携しての治療援助をし、教会は心のケアの一端を担うことになります。互いの愛情をわかりあって婚姻を決めた男女を、エイズという病を理由に引き裂くようなことはしません。
愛を病が分かつことができるでしょうか?
不治の病を愛が治すことはあっても。
しかも、病を理由に挙げて、他人が、愛する二人を分かつなんてことは権力がある者や自己の健常や貞潔を過信している者による傲慢な行いになります。

いずれにせよ、仏蘭西においてエイズは俗世間においても、宗教世界においても忌み嫌われている病ではありません。そもそもキリスト教には輪廻転生や因果応報という概念がないこともあり、発症理由を先祖のせいにしたり、発症もしていない子々孫々を疑わせたりする発想が仏蘭西には通用し難いので、聖においても俗においてもSIDA (=エイズ)は単純に「現在、治療が難しい難病」に過ぎません。世界中の人間が善意をもって治療法と治療薬をこの難病で苦しむ人々のために探し続けるのです。

====== 十 ======

と、こ、ろ、が、です。
ここ数年、電脳域の、それも日本語環境において「我こそは本物のカトリックである」と名乗る方々(← 国籍は電脳域なので不明としよう。)が、ご自分の考えと異なる人々に対し、この人々はエイズ菌に冒されており、いずれ地獄に堕ちるとまで日本語の文字で表わしています。エイズ AIDS という現代の難病名を自分が相容れない他人を蔑むために利用しているように私には見えますが、このような考えを日本國内のカトリックで本当に教えているのでしょうか?仏蘭西のカトリックとはまったく異なる考えです。おそらくイタリアや米国など欧米諸国のカトリックとも、アフリカ大陸各国のカトリックとも異なる考えです。たとえ或るヒトがエイズを発症したとしても、その方の魂が善であるならば地獄に堕ちるなんてことはないと考えるのが私個人が知っているカトリックであり、今年三月に私がロオマ巡礼した際も教皇さまからエイズ対策活動を依頼されている世俗団体サンテヂディオ la Communauté de Sant'Egidio の創立メンバーのひとりである責任者が同様のことをおっしゃっていました。日本語で自らカトリック信者と名乗る者が送信しつづけているエイズ蔑視発言とはまったく逆と思われますが、どちらが真実?...なんて、教皇さまにつながるサンテヂディオに決まってンでしょうが。

電脳域とはいえ、あまりのエイズ偏見がカトリックの名を絡めて日本語で流れているので調べてみたところ、日本国内にも存在する一見キリスト教のようでキリスト教ではない或る新興団体において、成年信者のための集団結婚をさせる際、候補者全員にエイズ検査を行っており、団体で最もエラいヒトがその結果を見て結婚相手を選択するのだから誰もが安心して結婚できるのだそうです。つまり、エイズ陽性の男女は「省かれる」のです。だから見ず知らずの結婚相手でも「安心」なんですと。この団体ではエイズは純潔を守らないから発症する病気と教えているそうで、時に輪廻転生やら因果応報まで絡めて蔑視かつ忌み嫌うとか。

「キリスト教」という単語を用いるにしても、エイズという難病の捉え方がこの新興団体とカトリックでは正反対。ところが、電脳域の日本語環境では I'm Catholic と名乗りながらも、実はカトリックではない団体の思想をまるでカトリックの常識のごとく流している人間が世界のどこかにいることになります。日本國がカトリックマイノリティの宣教国であり、おまけに日本語が世界において孤立した島国言語だからこんな大嘘を無責任に流布できるんですかねぃ?世界のマジョリティ言語でカトリックの名を出してこんな愚論を流したら、数秒後に反論がちゅどーんです。

さて、「純潔」という言葉ひとつを取っても、カトリック世界においては聖母=純潔として殊更に重んじられる鍵語ではありますが、同じ「純潔」という漢字と発音であっても、カトリック以外の日本語環境ではその中身がまるで違い、例えば前出の日本国内で活躍する某新興団体においてはこの団体で一番エラいヒトの許可無く性交しないことがイコール「純潔」で、このエラいヒトが命じた相手とのみ交われば純潔は保たれるのだそうです。Σ( ̄△ ̄; 
一方、カトリック世界における「純潔」は無原罪である聖母の生き方に倣うことでありますが、それは決して聖母の処女懐胎をさすのではなく、受胎告知における聖母のように真理を純粋かつ誠実に受け入れ、(神から与えられた)使命を実践する生活態度の積み重ねを生涯続けることを指します。原罪を持つ人間が聖母のごとく無原罪にはなれませんが、魂が肉体を離れる瞬間まで魂をできるだけ聖母のこころに近付ける努力を怠らないことを指します。ゆえにたとえどんな難病に肉体が蝕まれても、天を疑わない人間ならば誰もが平らに等しく、各々の魂を育てる仕事が課せられており、いずれ天に帰れるのです。肉体はいずれ塵に戻るものだから、難病に発症したという理由では決して地獄に堕ちないよ。自分が気に入らない他人にエイズという単語を用いて恐怖に陥れたりするのは、いっくらカトリックと名乗ってはいてもカトリックらしからぬ言動だと思われます。

電脳の世界とは言え、カトリックの名をみだりに軽々しく出しつつ、読者の心に疑いの種を蒔き、善良な人々を薄暗い脇道に引き摺ろうとする日本語の文章にはくれぐれも気をつけましょう。

le 15 novembre 2009, Albert

かつてペニシリンが発見されたように、エイズ治療のための最良最善の医療と薬物が一日も早く見つかりますように。以下は教皇さまもしばしばお言葉に出されるカトリック世俗団体サンテヂディオ Sant'egidio のエイズ問題専門ホームページの英語版です。
http://dream.santegidio.org/homep.asp?Curlang=EN
タイトルは DREAM 、英文和訳ならば「夢」ですが、Drug Resource Enhancement against AIDS and Malnutrition の略称です。主にエイズと栄養失調のための薬剤(資材)開発促進運動です。
日本國内ではカリタスジャパンがカトリック精神の下、エイズ問題に取り組んでいます。
カリタス・ジャパン エイズ啓発活動
http://www.caritas.jp/caritas_japan/caritas_japan05.html
偏見のない、善の目を養いましょう。
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by ma_cocotte | 2009-11-15 21:22 | 『?』なたわ言 | Comments(15)
平等観の違い、平等の勘違い
久しぶりに、旧市街に用があるたびに利用していた100台以上は軽く駐車できる無料駐車場に我がチビ車を駐車しようとしたら、いつもなら(特に朝市がある日はいっそう)駐車スペースを見つけることが難しかった広場ががら~んとしており、なぜがらんどなのか悟るまで私の蛍光灯脳では時間がかかりましたが、その原因は無料が有料に変わっていたからでした。
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この旧市街の丘の上にある大駐車場がある場所は以前はギロチン広場であり、目鼻の先に教会があり、この両者をつなぐ道の両脇は当然のことながら墓地だったそうです。今では19世紀から20世紀初頭にかけて建てられた長屋のアパルトマンが丘を取り囲み、ギロチン広場には共和国軍支部や公共機関や施設が入る威厳ある建物があります。

この旧市街に限らず、観光都市を覗く仏蘭西共和国内の市町村において、このような共和国民が頻繁に利用する公共施設や役所、病院、教会近辺の駐車スペースはたとえ旧市街の中であっても無料に設定されていました。それは共和国万民が集う施設があるのだから、貧しい人々が駐車料を理由に足を遠のかせることを良心が許さなかったからです。

ところが、真の神聖賢愚帝サルコぢ一世の御世となって我々に強いる金権営利主義と、中道よりヒダリの諸政党が帝を穿つために我々に訴える平等観がウルトラQのオープニング様となり、旧市街の内側において全ての駐車スペースに平等の条件で有料とし、駐車のための自動販売発券機を大量設置となりました。よくこんなもんを設置する金があるよなー、もっと他のことで使えよ、とついうっかり思ってしまいましたけれど、この工事費用も駐車有料化でいずれチャラになるんでざんしょ。

未成年者でもなく、高齢者でもなく、障害者でもないひとりの平らで凡なガイジンがこの変更を眺めて思い巡らすのは、
万民が集う場所には貧困の中にいる民もいるのだから、万民が利用する施設周辺の駐車スペースは無料とする。
と、
旧市街の内側の全ての駐車スペースは平等に有料とし、全利用者から平等に駐車使用料を徴収する。
のどちらが「真の平等」なのだろう?と。私には前者が本当の真の平等のように思えてなりませんが、拙者は脳味噌ツルツルのアホちゃいまんねんパーでんねんな生物♀にすぎないので、不肖ま・ここっとの感想は偏見なのかもしれませんが。バス代より一本のバゲットの方が安い仏蘭西共和国内で、貧しいヒトが病院にも、教会にも、役所にも「お金がないから行けません」という道を行政が造ってしまってよいものなのでしょうか。実際、南仏だったら駐車違反で督促状をワイパーに挟んだところで、罰金を払うために行かねばならない市役所周辺が有料駐車だとしたら、それを理由に違反者は不払いを決め、いつのまにか間に団体SOSラシズム Sos Racisme おかかえの弁護士がしゃしゃり出て来て、ラシスト理由にまわりまわって役人に退職命令なんて話、うぢゃうぢゃゴーロゴロです。仏蘭西共和国の三大スローガンのひとつが平等 égalité で、近年は第四のスローガンとして連帯 solidalité が挙げられるようになりました。ココに王無き共和国が今も重視するヴァチカンからは現教皇がやたら隣人相互愛 charité を仏蘭西語で勧めてこられる。連帯 solidalité と隣人相互愛 charité はそっくりだけれどどこか異なり、駐車条件の均一化は前者、個人のアイデンティティを慮っての条件は後者なのでは?という思考の中に浸りながらの11月第一週のしめくくりとなりました。
たかが無料駐車場の有料化にしても、
仏蘭西独自の良さがまたひとつ失われた
ように思い始めています。

た、だ、し、ココんち地元の仏蘭西社会党員が治める旧市街の現状でも、正午から14時まで、午後7時半以降翌早朝まで、主日(=日曜日)国定祝祭日は有料駐車スペース(駐車場、路上脇、共)は無料です。これは駐車違反取締りの役割が中央警察 Police nationale ではなく地方警察 Police municipale であることから、地方警察官の昼食休憩やら勤務時間やら主日条件勤務などの伝統とカトリックにおける主日の考え方の名残(主日に裁き、裁かれない)ゆえです。ただただしぃ、旧市街外円道の際に立つ十字架像から出たら、隣町までの路上には主日であっても憲兵隊員が我々の悪さを監視していますから、決して羽目を外さないように。
エデンの東 ってか?

le 7 novembre 2009, Carine
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by ma_cocotte | 2009-11-07 01:43 | 『?』なたわ言 | Comments(2)
根のない「嘘」に「本当」という漆を塗る口場(こうば)
十一月、長月。日本國内は文化祭シーズンたけなわ。
またも、電脳日本語環境域において新しい舞台が設定され、そこでは次々と 想像過多 発表会 が公開されています。え?お祭り?あ、文化祭シーズンですものね。
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久しびりの電脳散歩でこんな「疑いの種」を売っている屋台を見っけました。ε= (´∞` )
諸聖人の祝日 ..2009/11/01(日) 05:59
私も10月の終わり頃に、フランスに旅行したことがあるのですが、11月1日に先だって、皆さん、お墓参りをなさってましたね。
結構な御年の方々が、派手な大きな花束を抱えて歩いておられる姿を目にしました。
....はあ? ┐(-д-`;)┌
仏蘭西の伝統的生活習慣においては万聖節には 鉢植えの菊 をお墓に飾ります。だから、一週間ほど前からスーパーマルシェにも、生花店にも、墓地の出入口にも色とりどりの菊の鉢を並べた売り場が出ます。仏蘭西ならではの季節の風物です。一方、切り花の花束は仏蘭西ではヨソのご家庭に招かれた時に選ぶ品物のひとつです。でなければ、葬儀ミサにおいて切花の花束が棺の上に置かれることもありますが、それは参列者が持参というより、アレンジメントなり花束を作った花屋さんが聖堂まで運ぶのが常です。墓地においても棺を埋めたばかりの墓石の上に花束が置かれており、それが墓所に新参者が埋葬されたことの決め手になったりもします。

日本からの旅行者が万聖節の少し前に来仏し、偶然、どこぞ市街で見かけた派手で大きな花束を抱えたご年配が事前の墓参りに行ったと断定できるほどの独自の想像を電脳域でお披露目したところで、その独自のご想像が
本当の真実と当たっていればいいですね、まる 
もしかしたら御友人の御宅などに招かれて美しい花束を求めただけなのに、当人の知らないところで墓参と決め付けられたご年配の仏蘭西人、お気の毒です。根も葉もない戯言から、根の無い切花の束。なーるほど。でお・ぐらーしあす。

同じ人物による想像が事実のように語られている件、これで少なくとも二度目です。
http://malicieuse.exblog.jp/11672539
どこぞのご老人が携える花束を墓参だと思い込む程度なら個人の勘違いで済みますが、以前のように仏蘭西司教団がヴァチカンの教皇さまの意向に背いて司教総会で叱られたなんてことを、イタリアの地方夕刊紙の日本語私訳が掲載されたブログだけで世俗が確認もなく事実のような断定発表なんて、いくら聖座忠誠派の伝統主義者と名乗っても、聖座に土下座することが自分にはないという甘えと安心による無責任だからこのような遊びを電脳で披露できるのでしょう。そんな名も無い個人の代わりに聖座の御前で無知の羊の愚かさを謝罪するのはご自分が所属する土地の教区長さまか長上さまであることさえわからないなんて、畏れを知らぬカト世間知らずとはこのことなりなり。
あわれみのみ心 われらの願い
みそなわし給いて 聞き入れ給え
愛の主のみこころ
深き罪科(つみとが)より 清めたまえよ
二番の歌詞の方がどっきりマンモスだけどね。
えー、さてー、黒革聖歌集の何番でしょ?← 難易度1だよ、しかし ε= (´∞` )

お仲間内の電脳公開ヤマカン当てゲームが参加者各自の快楽になっていることが、既に多数の傍観読者に伝わっていることも気付けないで興じている。次のヤマカンはなんだろねー♪ 
みんなでお気軽極楽にヲッチ、ヲッチッチねー♪
上のコメントをクリックするとお祭りの屋台に直行できます。店主の同意する来客のみ歓迎だそう。この世において天主にしか同意しない来客に向かって店主ごときが女王気取りのこの屋台、どうやら店主が来客より偉いのは明白。幼稚園児のおままごとみたい。こんな遊びを妙齢過ぎた成人日本人がするなんて、
身の程知らずで怖すぎぃ ((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル

le 2 novembre 2009, Défunts


仏蘭西国内の伝統生活文化について、真実ではないことを真実と、伝統ではないことを伝統であるという実しやかな話に作り変えて日本人に手段を選ばず流布したいのでしょうね。それはなぜゆえ?
嘘も突き通せば本当になる。
ベネディクト十六世ご自身が心身をもってよく知り尽くされ、今は嫌悪されている第二次大戦時中の獨逸国家の言動そのものです。
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by ma_cocotte | 2009-11-02 19:04 | 『?』なたわ言 | Comments(0)
私はどの立場なのだろう?
ココんち近く、旧市街の美術博物館にて。
一枚の壁に並んでいた三枚の絵を左から順に。
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確か三枚の絵の共通テーマが貧困 la pauvreté でした。
田舎町の美術館に常設展示された絵画なので、描かれている建造物は旧市街のどこかで見たようにも思えます。このような光景は遠い昔の過去とは言い切れず、装束を変えれば現在もココんち界隈で見る様子でもあります。フランスにおいては貧困は過去ではなく、今も身近にあり、探す必要はありません。

このような一枚の絵を観て、おのおのが心に思い巡らすこともひとつではありませんし、描かれている人物の誰に自分をあてはめるのか、それともあてはめずに単に傍観するヨソモノに過ぎないのか、あるいはかつて貧困を経験した家族や友を思い起こすのか、それもおのおの異なることでしょう。

おのおのの立場は千差万別であれど、「施す者と施される者」とか「見下げる者と見上げる者」、「強者と弱者」という意識に留まってしまうと傲慢や卑下など要らぬ感情が心に生まれかねません。それでは「施される者、見上げる者、弱者」と仮定したところで、弱者とされた人のズルさで嘆く人も数多いたりもします。

しばらく前、司祭館で神父さまと面談している最中に呼び鈴が鳴り、神父さまが玄関先に出ると「弱者」と思われる人がおり、困っている自分に施しをくれ、とおっしゃる。神父さまが「お金はさしあげられませんが、一緒に食事をいかがですか?」とお話した途端、その「弱者」と思われる人は「あ、いいです」と言い切らぬうちに神父さまに背中を向けて門を出て行きました。
それより前、まだ私が南仏に住んでいる時、婚姻準備の勉強のため修道院に行くと、シスターがどこか落ち込んでおり、聞けば、住む所もない子供を数名抱えたジプシーの母親が洗礼を受けたいとやって来たので修道院の一室を与え、三食をシスター方のお食事から分け、住み込みのまま洗礼の準備と子供たち(そのうちひとりは自閉症症状を持つ男児)の教育をし無事受洗。それでは、堅信の準備をしましょう、とシスターが話したところ、翌朝、全員が跡形もなく、お金を持ち出して消えていたのだそうです。夜逃げですな。ところがシスターはこれが初めてではないとおっしゃる。初めてではないし、こういうことがあったからとてこれからも困った人が現れれば同様にし続けるとまでおっしゃる。
さらに何年も何年も前、東京の某教会の神父部屋(と、若者は呼んでいた)に入り浸っていた頃、やはりドアのノックの音を聞いてドアを開けると独特なニオイを携えた方が無心する場面に何度も遭遇したことがあります。神父様はご自分のお財布から出すこともあれば、お財布を覗いてから「少し待ってください」とその人に告げ、小走りに裏のレジデンスに行き、院長様に事情を話して戻って来たこともありました。そういう人の中には何を思ってか二度、三度と同じ事を繰り返すことがあり、優しさあれども甘やかすことはしない神父さまが厳しく諭す様子も私は見たことがあります。

凡人の私にはいずれの場合も神父さまもシスターもあまりに人がよろしすぎるのではないかとついうっかり思ってしまうけれど、どなたも同様に「騙されるのが私でよかったのです」とおっしゃる。そう聞いて、自分が必ず施す側と信じ込んでいるなら、騙される自分についてだけの善行を思い描いたりします。

が、最近、ふと気付いたことですが、貧富というのは目に見えるものだけでなく、心の価値さえ計れるということ。そうだとするならいくら外見が富裕であっても心が貧しく、飢え乾いて水を求めている人もいるかもしれません。逆に見た目はあまりに質素でも、心が豊かな人もいるでしょう。心の貧富はどう見抜くかは、互いが交流することにあります。となると、「施す者と施される者」、「見下げる者と見上げる者」、「強者と弱者」という目で判断できる関係においても、互いの「善意」が必須なのではないでしょうか。数学に例えると両者が「善(+)」ならば足したところで「二つの善」、かけたところで「善の二乗」だけれども、どちらか一方が「悪(-)」ならば足したところで善は減り、善(+)に悪(-)をかけたら善は悪に変わってしまいます。数学では空しい結果になるけれども、ヒトには知が与えられているのだから知を用いれば悪を善に変化させることもできるはず。それは時間も労力もいることだろうけれど、悪と悪が足されて二つの悪と化したり、悪と悪が掛け合わされていっそう強い悪になることは善人であるならば知力をもって避けねばなりますまい。そう、「地ニハ善意ノ人ニ平和アレ」を信じるならば。もし自分がこの世の由無しごとで他人の傍目に「弱」の立場になったとしても、決して善の心だけはこの心身から失ってはならないのです。・・・っと、弱っちい自分にビシビシ言い聞かせつつ、今年も十一月という月を数時間後に迎えます。

おフランスには21世紀に入り、そして「金が全て」の神聖賢愚帝が共和国大統領なんかに身を窶して以後、ハロウヰンが無理に庶民に浸透し、本当ならば待降節と共に訪れるクリスマスの準備が前倒しされて10月最終週から大規模店舗にはお菓子、香水、おもちゃや仮装商品の特別コーナーが設けられるようになりました。その勢いに負けまいと、テレビのCMではスクール・カトリック Secours Catholique (仏蘭西のカリタス組織)の浄財を求めるコマーシャルも流れ始め、なぜかそのコマーシャルの中にはスクールカトリックでは遺言書作成のお手伝いをするというものまであります。

自分を中心にするなら或る対人関係で自分が凸でも、他の対人関係では凹かもしれません。上の一枚目の絵は勝手口の様子ですが、お手伝いさんはこの状況では施す者でも、扉の向こうでは主に仕える者です。三枚目の絵も修道女方が待ち求める人に善意を示しても、修道院の中では神に仕え、人と人の間では従順を伴う共和の中に生きてらっしゃる。相手の凸や凹を自分の凸凹に合わせればひとつの四角になります。ですが、凸の自分が凹の他者に合わせて、自分も凹になったところで、合わさるどころか内側に隙間ができ、他者が自分のように凸になったところで今度は両脇に隙間ができてしまいます。目に見えない凸凹なれど、こうして表現するとひとつになるのは難しい。個々の間の互いの違いを認め合うだけでなく、個々を取り巻く不況や格差など人ひとりの思惑では生み出せもしなければ消せない現状も、その中で互いに思いやり、善と善をつなげれば、心だけは豊かでいられるかもしれません。「~かも」という仮定は、まず自分が実践すれば消せます。

今年は11月29日の待降節のはじまりまで心身、物資ともども自分にできることを、自分に無理のないテンポで準備に入る。十二月を人は師走と言うけれど、師歩でいいぢゃないの?十一月に良い準備をして、十二月は一日、一日丁寧に過ごしてみよう、なんてどうでしょ。
よっこらしょっ、と。

le 31 octobre 2009, Quentin
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by ma_cocotte | 2009-10-31 19:44 | 『?』なたわ言 | Comments(0)