カテゴリ:『?』なたわ言( 121 )
窓の外はピーカンだけれど、
我が心に雨がそぼそぼ降る降る。
めそめそしていたら、なぜか母が好きだったこの曲を思い出しました。




東京都内某百貨店でこの音楽が流れますと外で雨が降り始めたことになります。


心に雨が降ったら、降らせておこう。こんな時にはヂャック・プレヴェール Jacques Prévert の詩集をパラパラしたり、フィツヂェラルド F. S. Fitzgerald の「雨の朝、巴里に死す」を読み返すなんてどうだろう。どんな大雨でもいつかは止み、空には虹がかかり、鳩がオリーヴの枝を持って来てくれるものです。
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↑ 早朝のヴァチカン庭園で見た小さな虹に、Grazie mille! ↑

虹は祈りが届いたという天からのお返事です。そんな虹も水と光と空気があればこそ現れます。虹を眺めつつ契約のしるしに感謝したら、こんな曲 ↓ を鼻歌しながら労作に勤しむのも晩春から初夏の楽しみです。





元気のおすそわけ。゚+。:.゚ヽ(=´▽`=)ノ゚.:。+゚
日本では映画監督ヂャック・デミ Jacques Demyの作品でも1964年の「シェルブールの雨傘」の方が知られていますが、フランスではこの1967年の作品 Les Demoiselles de Rochefort (日本語タイトルはなぜか「ロシュフォールの恋人たち」)の歌曲の方が廃れることなく繰り返し唄い継がれています。胸にきゅぅうんとせつない音楽は日本びと好みなのでしょう。どちらもミシェル・ルグラン Michel Legrand の作曲。メロディが今も古さを感じないと思うのは自分が高齢だからでしょうか?それに、画面のこのお洋服、めっさかわいいンですけれど。長方形と三角形の布の組み合わせでこんなにかわいいワンピースが作れるのですね。
舞台となったロシュフォール Rochefort はココんちからそんなに遠くないので、この夏、行ってみたいかも。水兵さんに会いに・・・ヽ(`▽´)ノ ロシュフォールは大西洋側の軍事都市のひとつなのであります。

・・・・と、こんな文を書いているだけで心の雨は止む方向に。
雲間が割れて、マリアさまのマントが裾を開き、やがて太陽が現れます。

心にそぼ降る雨がきっかけとは言え、おカトリーヌ・おドヌーヴさまを思い出してしまうとは、カンヌ映画祭がまもなく開幕だからでしょうか。今年は5月13日から24日まで、です。http://www.festival-cannes.fr/fr.html

なんだかカテゴリーわけの難しいミュルミュル murmure つぶやきだっちゃ。
見ろよ、青い空、白い雲
そのうちなんとかな~るだろー
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le 5 mai 2009, Judith
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by ma_cocotte | 2009-05-05 22:57 | 『?』なたわ言 | Comments(6)
聖 徳 太 子 の 壱 万 円 札
新しいテレビがココんちに来たので、少しずつココんちにあるDVDをおさらいしています。きょうは天気も悪く、うすら寒いので映画鑑賞にはもってこいの日となり、先ほど「続・三丁目の夕日」を観ました。東京タワーができてまもなくの東京、おそらく東京タワーの位置と大きさからして港区の愛宕山あたりが舞台で、私が知らない私の両親の青春時代を連想しつつ、この映画を楽しむことにしています。
映画が始まって10分ほどしたところで、画面に大きく、聖徳太子のピン札が50枚、いえ、帯でとじられたままの壱万円の新券が出てきました。
それを見た途端、一年少し前、私の実家で母の遺品を整理している時に、母の箪笥のひきだしからしっかりとしぼりの和布にくるまれた硬い板に挟まれた聖徳太子の壱万円札、伊藤博文の千円札のピン札(新券)が数枚出て来たことを思い出しました。けど、それをどこにしまったのか思い出せなくて、頭を抱える”神山悟”状態になっている私。

なぜ聖徳太子や伊藤博文の古いお札が新しいまま出て来たのか。調べてみるとこれら紙幣は1984年以前のものです。久しぶりに見た旧紙幣が大きく見えたこと。

遺品を片付けているうちに薄黒く汚れた指先で触れることが躊躇われるほどきれいな旧紙幣でしたが、そういえば母が生前、いつ何が起こるかわからないので新券は必ず数枚家に置いておくように、と私に教えてくれたことを思い出しました。ご慶事についてですね。母はもういないのに、偶然にも箪笥のひきだしから出て来たピン札で内助の功というか日本女性の日常における細やかな心がけのようなものを思い出させられ、そういう習慣を忘れていた自分が恥ずかしくなりました。誰もいない母の寝室で情けなさにうなだれていたら、母がそっと私の肩に手を乗せてくれたような気もしましたが。

仏蘭西という国は日本國とは紙の価値も違えば、お金の扱い方も違います。これだけクレジット・カードやカルトブルー Carte Bleue、=クレジットカードのようなものだけれど暗証番号を打ったとほぼ同時に引き落としになるカードが浸透してもまだ小切手の習慣がしっかり残っており、日本のようなお年玉でもお札ではなく小切手であることもあります。紙も日本より貴重品ということもあるし、日本人はじめとする東アジア人が持つ独特の「かわいい」という感性が仏蘭西びとにはあまりないため、見た目が愛らしく美しいポチ袋のようなものも見つけることが難しく、簡単に手に入るものでもありません。冠婚葬祭も上流階級ならば兎も角、仏蘭西の庶民においてはどんどん簡略しており、特に葬儀における喪服の習慣はなきに等しいです。そんな環境に長くいると、自分は生きているから新しいことを吸収するかわりに先に覚えたことを忘れてしまいがちになり、時にうっかり日本女性としての善き習慣を脳内ハードディスクのゴミ箱に入れてしまっています。昨年の春、偶然、見つけた聖徳太子の新券でがさつな自分を恥じ入ったにも関わらず、それから一年再び忘れかけたところでこうして映画を観て同じことを思い起こし、また反省。そしてまたすぐに忘れてしまうのかしら?老いていく自分自身との付き合いもハードであります。

le 27 avril 2009, Zita

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昨年春の帰省時に、実家から持ち帰った地元新聞販売所が一昨年末に配ったカレンダー。暦としてのお役目終了後、もし日本國にいたならゴミ箱に捨ててしまっただろうけれど、カレンダーの真ん中に印刷された切り絵が描く日本の情景を捨てるには惜しく、額縁屋さんに持参し、額縁棒を選んで、額に入れてもらいました。夏祭りの絵は私が幼い頃、大叔母に浴衣を着せてもらい、祖母と一緒に行った観音さまの盆踊りを思い出します。他の絵は母の幼い頃を重ねています。昭和9年生まれの母は洋装で学校に通っていたので、この絵は大正時代あたりの光景なのかしらん?
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by ma_cocotte | 2009-04-27 23:50 | 『?』なたわ言 | Comments(9)
なにやら10,000km東から悪魔の笛の音が、
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↑ ポワチエの司教座聖堂のヂャンヌ・ダルク ↑

先月3月6日に
今日は初金、こちらでは、十字架の道行、ロザリオ、ベネディクション、ミサ、初金の祈り、と続きます。
ま・ここっとさんとご家族のためにもお祈りしましょう。美しい写真のブログは、時々拝見させていただきます。ではまた。 at 2009-03-06 04:59
では、良い四旬節をお過ごしくださいね。at 2009-03-06 08:18
とコメント欄に書き残し、これを最後に四旬節の黙想に入られたのかと思いきや、この論客さんはヨソの掲示板やらブログでは別のハンドルネームで大活躍中です。以下、この方の四旬節中の過ごし方のゴクゴク一部です。ヘソで茶ぁわかしつつご笑覧くださいませ。

上のコメントをクリックするとこの論客さんによる最後のコメントをいただいた拙エントリーに飛びますが、3月6日午前1時38分まで太平洋岸の北関東からコメントを送信続けた方が2時間と27分後の午前4時5分に再びコメント送信を開始しているのに、同じIPアドレスを持つ方がヨソの掲示板でこのようなお話をされています。
「信徒に認められた正当な批判」を「悪口雑言」であるかのように、読者に思わせようと必死な方も、そちらの勢力の方なのか、あるいは、何がしかの原因で現実認識の判断力に欠けている方なのだと思います。彼は、引用する2つのカテキズムのすべてを読まず、都合のいい箇所のみ何度もはりつけるこの行為も、繰り返されれば、洗脳に近い効果を生みだすようにも思います。(素直な方にとっては…)▼彼と同じ方法で、『教会法』『指針』『典礼規則』『カテキズム』に書かれている司教に対する厳しい決まりを、繰り返し貼り付けることは可能ですが、彼に関してはこれまでの書き込みからまともに相手をしないことに決めたのでしません。
忙しい人間がまともに相手をしているとそのしつこさの病的な面に、振り回され、エネルギーを吸い取られる危険があると感じるからです。
( ̄□ ̄;)エ? ちょっとおまいさん? 3月6日の午前1時38分から4時5分までどのようにこの方が過ごされたか知ったこっちゃないですけれど、他人サマにこんなこと ↑ を言える立場ですか?全部、特に強調した部分なんて自ら拙ブログで使った手口ぢゃござーませんか?振り回してエネルギーを吸い取ろうと必死だったのは、あ、な、た 、こんなコメントを優等生のごとく常連の論客宛に書かれた「あなた」です。それとも同じIPから別人がコメントを送信しているのでしょうか? ← と、3月6日時点で私は仮定し、聖域にお住まいの方々が共同で一台のコンピュータを触っているのかとも拝察しましたし、そのような共同生活をされる方々だからこそ一昔前までは世俗が踏み入れることのなかった祭壇の向こう側の立場を拙ブログで延々と披露されたのかと思いきや、なんとヨソの掲示板やらブログでこの方はしっかり女性の言葉で生き生きとコメントを残されていました。HNによって性別も変えてらっしゃるのかもしれませんけれど、それは Only God knows 。しっか~も、同じIPアドレスの方が新しい教会内作法を否定するFSSPX についてまで肯定的にヨソのブログでは語ってらっしゃる。本当にこの方が女性でFSSPXの精神に従う方だったら、祭壇上の典礼書の中身の話題など口も手も慎むはずで、カトリックとして矛盾だらけのことを電脳域で遊んでいることになります。拙ブログでこの方は威厳ある司祭ゴッコを楽しまれ、3月6日以降、コメントを残さずとも拙ブログをしっかりご覧になっているのに、ヨソの掲示板には4月12日付で、
聖週間に教皇様によってささげられた典礼のビデオをご存じの方はお教えください。
仏のKTOテレビか、Gloriaテレビあたりにないかなと思うのですが…。
おシラジラしいこんなコメントを書けるのですねぇ。ここ↑ まで書けるなら、自分で最後まで調べろよ、おい。拙ブログでは4月9日付のエントリーでKTO での聖週間ビデオ一覧のURLをズバリ掲載しておりますし、3月7日3月30日 と2度ほどこの方について触れていることでヒト芝居を打たれたか。3月5日、6日の二日間でアクセス数2000っていったい?30日から31日にかけても1000を軽く越えています。ご苦労なこってすけれど、それでも私は太平洋に面する北関東に足向けて寝ることができます。一座の誰が書いた台本か知ったこっちゃありませんが へたくそ 過ぎます。せめてコメントに KTO や Gloria のHP名を書かなければバレないだろうに、こういう三文芝居を披露することで「私などPC音痴でHPもブログも作れないのですが」という自己主張の証明が成り立つことになるという妙。

以上のこと、ヒトとヒトとの間ではどーでもいいのです。こんなことをされたところでヒトによっては喜んで騙され続けることを選びます。でも、こんなことをするヒトと神という二者の関係はどーでしょう?ぜひともご本人から回答をいただきたいものです。だって、こんなことをするヒトがやたら軽々しく「神」やら「カトリック」の名を出して他人を貶めたり、裁いたり、批判しています。拙ブログにおいてもヨソの掲示板やブログにしてもこの方はまるで司祭のごときカトリック知識を披露していますが、上に書いたようなことを世間に、それも国境のない電脳域でお披露目したら、いくら知識があってもカトリック信仰においてはやかましいドラはたまたゼロです。なぜなら、この方の行いも心の動きも神さまはご存知だからです。そんなことを立派なカトリックなら重々知っているのに知らないふりをしているのなら emoticon-0130-devil.gif ですし、これほど電脳上のほうぼうでお仲間内の賛美の言葉で褒め称えられながら世俗平信者であろうご本人がカトリックの名を出して他者を裁いたり、知識披露を延々と止められないのは告解で赦してもらっては繰り返しているか、逆に告解できない事情がご本人にあるから続けられるのでしょう。字も読めない子供だってカトリック幼稚園に通うならぜったいしないことを公でこの方は率先して続けているのです。神に対して恥の気持なんてまるでありません。
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↑ 1429年3月から4月にかけてヂャンヌがポワチエに滞在したことを記念する碑 ↑

傍観者であればあるほど「ヒト⇔神」の関係は露見するものです。十戒のうちいくつに反していることか。電脳域であれ他人サマからはこの方のカトリック知識に賛美の言葉が塗ったくられています。まさに、「そこに神がいない世界」の証明です。他人を貶めたり裁けたりするお立場には見えませんが、貶めたり裁けたりできるのも「そこに神がいない」証明です。ご自分でこの遊びを否定するならばどこぞからいただいたミッションでありましょうけれど、ご自身においては止められない快楽の域にに入ってしまっているのでしょうねぇ。
あなたの良心はどこ?
とてもぢゃないけど、良心の声に従っている方の言動には見えません。良心の声も聞けないヒトによるカトリック知識披露くらい気持悪いものはありません。← ということを一番よくご存知なのもご本人です。この方はいつまでこんなことを続けるのでしょう? emoticon-0130-devil.gif が心から離れるまで、です。emoticon-0119-puke.gif
みんなたち、この方のヲッチン’を続けましょう。

le 17 avril 2009, Anicet


第八戒に反する罪には、いつわり、そしり、ざんげん、邪推、その他不正に秘密を探ること、あるいはこれを洩らすことなどがあります。
そしり とは理由なくひとの欠点やあやまちを言い表すことです。
ざんげん とは無実の罪をひとに負わせることです。
邪推 とは十分な証拠がないのにひとに罪があると信じることです。
真実を知る権利を持たないひと質問に対して、重要な理由のある場合、あいまいな返事をする のは いつわりになりません。
聖であろうと俗であろうと真実を知る権利を持たないヒトは
立場をわきまえるのが、カトリック。
第八戒「汝、偽証するなかれ」には ひとの名誉を尊重し、秘密を守ることも属している はずなんですが、第八戒について「そんなの知らんかったー」と詮索と妄想のお披露目遊びを続ける I am real Catholic. か。どこがカトリックなんだろう?...Bof

さて、このエントリーでアクセス数は伸びますでしょーか。「伸びる」にスーパーひとしくん
↑ 抑揚なしでどうかひとつ ↑


十 備 忘 録 十
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by ma_cocotte | 2009-04-17 21:05 | 『?』なたわ言 | Comments(9)
おくれなかったことでの呵責
昨日の朝、映画「おくりびと」のDVDがココんちに届きました。



おくりびと [DVD]


海外に在住する日本びと向けのネット通信販売からこのDVDの予約販売の知らせを受け、この映画がエイメリカのアカデミー外国語映画賞を獲得した直後だったこともあり予約しました。先週火曜日に発送完了のメールが届き、同じ週の土曜日には手元に届くのですから私たちが住む地球は本当に便利になったものです。

映画の予告編も見、あらすじも読み、電脳上での噂話も見聞しての予約でしたが、いざDVDが入った日本製の頑丈な封筒を手にしたら封を開けるのに気持が躊躇ってしまい、土曜日の夕方になってようやく封を開ける気持になれました。

想像していたより淡々とした映画でした。物語というよりは医学部に例えるなら症例報告の列挙のように思えました。ひとつひとつの症例、いえ、納棺の形とその例に登場する人物の感情表現は「こんなことあるだろうな」と観ているこちらも冷静に判断したりもしていました。
主人公にとって初めての症例、ではなくて「納棺の例」ですが、死後2週間が過ぎた独居老人の遺体に関わる例で、主人公の心身が五感で他人の死を知ってしまったことで、主人公の心身がどのように反応するかが美しくリアルに表現されていたように思いました。我が身に振り返って思い出したのが、某医大に奉職した数日後に上司から病理から解剖の電話を受け取ったら、解剖室に行き、ヒトの脳、上腕三等筋、肝臓などをいただき、研究室にて肝臓の血抜きを行うという仕事を命じられた時のことです。その命令を聞いた時の私の顔はおそらく主人公が就職先の上司から仕事内容を聞いて悟った瞬間の表情と似たようなものだったかもしれません。私は上司からの命令を断りました。すると上司がこの映画の主人公の上司と同様、
慣れればなんともないよ。
と私に言ったんですね。この上司ではないけれど、他の医師からは病理解剖の際、最初のメスのひと入れでヒトの血液は天井にまで届くほどまだ飛ぶことを教えられたことも未だ忘れられません。もし私が上司に反発することなく魚屋さんで見かけるクラッシュアイスを敷き詰めた発泡スチロールの箱を持って病理室に行ったとしたら、この映画の主人公が初仕事に挑んだ時のようなうろたえや失態を私は間違いなくしました。なんせ遠足のバスの中で誰かがもどしただけで、私の五感はすぐさま反応して顔色が変わってしまうほどですから。毎度そういう現実に出っくわすたびにその場に鏡はないから自分で分からないまま、私の顔色に気付いた他人がすぐいたわってくれたりする...私もヨソサマにそういう様子を認めたら手を差し伸べる。やっぱりヒトはひとりで生きるのは難しいのかも。

映画を観続けているうちに昨年春の、2月27日午後3時から実家で行われた母の「納棺の儀」なるものを思い出してしまいました。納棺の儀が始まる一時間前に葬祭センターの方が二人の女性を連れて来ました。映画を観てわかったことはこの女性ふたりがまさに納棺師だったことです。母の場合、納棺の儀が始まるまではドアを閉め、納棺師お二人と母だけで着替えを行い、リンゴの保護ネットを母の頭部から取り、髪型を整えてもくださいました。パジャマを着ていた母が寝たきりになる前に通院の際に好んで着ていた洋服に着替え、儀式を始める直前に母の三面鏡のひきだしに入っていたディオールの口紅を母の唇に乗せました。私のせいで母は4日もの間、巨大なドライアイスを両肩に乗せていたので、映画のように美しく固く握られた両手をはずすことができなかったのでしょうか。母の服は背面にはさみを入れて着せられた形になりました。母がいつか私の結婚式で着ようと決めていた色留袖が仕付け糸が通ったまま、母の寝室の枕元に置かれていたこともあり、この着物を母が長年のへそくりをはたいて作ったことも知っていましたが、一度も袖を通すことの無かったこの色留袖をそのまま棺に納めました。一昔前ならば故人の愛用のものを「あの世でも探さないように、困らないように」と棺に納められたのに、近年の火葬においては棺の中に納められるものも限りがあるようです。金属や革製品が納められないことで、なんとも中途半端な装いで母を天に送ってしまったことは今も胸中複雑になったりします。
納棺の儀が始まり、その場に集まった身内が清水を含んだコットンで母の身体を軽く拭きますが、コチコチに固まった母の指と、まだ生きているかのようにモチっとした母のふくらはぎの感触は今も覚えています。お化粧はしたけれど母が常にコンプレックスを持っていた短く薄い睫もそのままで、マスカラを乗せたらいいのかしら?と内心で不謹慎にもクスリと笑いつつ思ったりもしましたが、元気だった頃の母がマスカラを使っていたこともなかったので自然の睫のままの母の方が「私の母」ですね。今となっては骨しか残っていませんから「あれで良かった」と残された者は自分に言い聞かせるしかないのです。

納棺の儀を実家で終えてすぐ、母の棺は通夜と葬儀を行う葬祭センターに移動になりました。母の肉体が二度とこの家には戻ってくることはないということをわかっていてもつらかった。通夜の際も、葬儀の際も、母の身支度を整え棺に納めてくださった女性二人を見つけることはできませんでした。あの時は「あの二人はどこからやってきてどこに去ったのだろう?」と不思議にも思いました。この映画を観るまで、あのお二人は密室でカチカチになった母とプロレスのように戦っていたのではないかと私は想像していました。もし「おくりびと」の主人公のように優美に見えるほどの無駄のない動きで準備してくださったのだとしたら母が一番喜んでいることでしょう。母しか知らないのですから。通夜や葬儀の際、母に対面してくださった方々から母が美人さんと褒めていただけたり、幼馴染の方々からは子供の頃と代わらない母の表情があってうれしいという言葉もいただきました。でも、通夜のお清めが終わって棺の中の母を見たら、おでこあたりにあざのような斑点ができ、口が少し開き始めていました。翌日、お葬式を終えた後は斑点が更に増え、口元から見える歯の数が一本増えていました。既に脳を献体しているので母の死をわかりきっているはずの自分なのに、顔の様子が変わったことでこの肉体に既に魂がないこと、否が応でも母の死をいっそう具体的に私は知ることになりました。

DVD「おくりびと」を観ているうちにこうして一年と一ヶ月ほど前の母との別れが妙にリアルに思い出されてしまい、もしかしたらこの映画は今の私が観るにはまだちょっと早すぎたかな、とも映画半ばで後悔するような思いを感じ始めましたが、結局途中でDVDを止めることもなく最後まで観てしまいました。映画の中の数々の症例において主人公の反応も、遺族の反応も、私自身が身内を見送ったからこそ自分が経験したことにあてはまることを冷静に摘み取れたのかもしれません。母を送る前の私だったら恐怖感が先になり、観る勇気さえ持てず、もし鑑賞したところで感想もまるで違っていたと確信しています。

火葬場で母を待っている間、お坊様といろいろお話しました。浄土宗のお坊さまでしたが、どこかカトリックの神父さまのようと申しましょうか、これまでご自分が関わったお葬式での失敗とそれについてどうご自分が反省して変わろうとしているのか面白おかしく話して下さるのです。が、拝聴していてもその失敗談を伺ったところでお坊様を軽蔑する気持にはまったくなれませんでした。志を持って増上寺にあるお坊様になるための学校に通い、お葬式に携わるようになっても最初は恐くてしようがなかったそうです。でも、或る時、ヒトの死ほど荘厳なものはなく、その荘厳に携われる自分の役目に誇りを持てるようになったそうです。そう思えるようになったのも先輩にあたる方々と亡くなられた方とそのご家族あってのことです、と。拝聴しているこちらも母の死がなければ出会えない人々に多く会うことができました。この方々と関わったことで私の知らない世界を知り、私の中の死生観がかなり大きく修正されつつあります。「~されつつある」と書くのは今も私は葛藤している最中で死を喜んで受け入れられるほどの悟りにまだ至っていないからです。

映画の中で私が一番どきりとした瞬間は、主人公が納棺師という仕事に巡り会ったことはそれまで身内の死に関わることがなく、実母でさえ自分は看取ることも葬儀にも参列せず骨壷になった母と対面したことでの因果応報ではないか、と主人公による淡々とした語りが流れた時でした。私にも思い当たる節があります。主人公は祖父母の死は幼少期で記憶がないと語っていましたが、私も母の死まで身内や友人、同僚の死に深く関わったことがほとんどなく、母方の祖父、父方の祖母、母の大叔父の葬儀で親戚として参列したことしかありません。そして兄弟姉妹のいない私がこうして海外に住んでいることについて父母からどれほど叱られたことか。父からの恨み節は現在進行形であります。私の現状を話したところでヨソサマからたびたびいただく「一人っ子なのによくおうちの方が許したわね」という言葉も私にはハツを一突きする刃だったりします。私は日本に生まれ育った日本人だから因果応報という言葉は聞く度にドキリとします。両親の思いに従わずに我を貫いて海外にこうして住んでいることも良心の葛藤やら呵責を感じることは日常お茶飯事です。母との間については既に結果を見たことで、これからの私にどんな運命が待っているのかわかりません。もし因果応報があるなら私の残りの人生もいっそう波乱万丈でありましょう。他人さまから見たらネガティヴな、因果応報と呼べる私の運命であろうと、自分に与えられた運命はたとえ自分にとって不満であったり恐ろしくあっても、背を見せずに向き合い、考え、できることならまずはやってみるしかないのでしょう。

仏蘭西はきょうから La semaine sainte (聖週間)と呼ばれる週に入り、この日曜日はRameaux らも、=枝の主日というお祭り日で、イエズスさまがエルサレムに入城したことを省みる日なのだそうです。この祝日には教会で聖水で祝別した枝を配るので、午前中に旧市街に出ると多くのヒトが青々とした枝を持ち歩く姿が目立ちました。この枝は自宅に飾り、これまで飾ってあった枝はココんちあたりでは土に埋め塵に戻します(ゴミ箱に捨てることは厳禁なんですと)。
枝の主日の前日に「おくりびと」のDVDが届き鑑賞したことで、きょうの午後、古い枝を土に埋める際、何か厳かな思いが心に広がりました。「おくり枝」ですね。この世の生きとし生けるものは全て、いずれ塵に戻るのです。

le 5 avril 2009, Rameaux
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by ma_cocotte | 2009-04-05 15:51 | 『?』なたわ言 | Comments(11)
生 き る 。 生 き て 行 く 。
2009年3月12日、ココんちあたりは深い靄に包まれたまま夜が明けました。
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↑ 2009年3月12日午前7時49分、モヤモヤ~なココんち ↑

きょうは私の母の誕生日です。
昭和9年(1934年)生まれでしたから、もし今もココにいたら75歳。
昨年2月24日に母は永眠し、28日に私は母を見送り、3月26日にココんちに戻りました。ココでのいつもの生活に戻ってすぐ、母が2月に旅立ち、3月に誕生月を迎えるのだからと、晩冬から春の始まりに咲く草木を選んで庭に植えました。
こうして今年の3月12日を迎えましたが、私の計画は頓挫。椿も木瓜も蕾は持ったものの開花してくれませんでした。ですが、今朝、台所前の日陰に花が咲いているのを見つけました。
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こうして写真を眺めると、雑草と呼んでもいいラムズイヤーの方が立派に繁り、美しいです。白く小さな花に寄ってみましょう。
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あまりにひ弱な、虚弱なヒヤシンスです。茎もなければ、葉は既に虫に食われて穴が空いています。2月だったか土を耕している時に私がうっかり真っ二つに割ってしまった球根が花をつけたのです。とてもお花屋さんの店先に出るような芳しい香りを放つ美しいヒヤシンスではありません。

でも、うれしかった。
半分に割れた球根をゴミ箱に捨てなくて良かった。
私は断面が丸見えになった球根を土に埋めることで土に戻ると思ったけれど、真っ二つになってしまった球根は土に戻るより「生きよう」と真っ暗闇の土中で決意したのでしょう。土の下でひたすら地上から染み入る朝露を飲み、生きて、生きて、大きくなって、こうして今日、花を咲かせたのです。外見は雑草より控えめでも、ひと花摘み取り、鼻のそばに寄せればヒヤシンスのあの華やかな香りがします。香りは目に見えなくても、私が摘んだひと花は自らがヒヤシンスであることを香りで証明してくれました。

花のいのちは短いけれど、私が埋め返した球根は断面が見えるほど身が欠けてしまっていたけれど、こうして花をつけるまで生きたヒヤシンスならば、花を咲かせた後に地中でいくつかの子球根を産むことでしょう。そして、子球根は来春に美しい花を咲かせようと母球根から栄養をもらって育ちます。一方、私が半分に割ってしまった球根は子球根たちに身を吸われ、しなび、やがて土に戻り、使命を果たして生涯を終えることになります。

半分に割れ、半分を失ったたヒヤシンスだって日陰に埋め捨てられたにもかかわらず生きることを諦めませんでした。身が半分になっても生きて、生きて、こうして地上に花を咲かせました。私は外見も内面も親にとって納得行かず、満足いかない存在ですが、親から命をもらったからにゃあ生きるしかない。この白いヒヤシンスのように。みすぼらしくても、ひ弱でも、こうして花を咲かせたことで喜んだ私がいるではありませんか。大喜びしたのは世界中でたったひとりだけれど。そんな大きな喜びを私に与えてくれたのも、日陰でひっそりと蕾を開いたあまりにも地味なこのヒヤシンスの花です。泥をかぶっていても、虫が食っていても私には気にならない。花を開いてくれて、ありがとう。

母の誕生日の朝、こうして開花した小さな白いヒヤシンスに「生きる」ことを教えてもらいました。これから先、私の身がどう変わり、私の周りの環境がどうなるか私にはわかりません。
でも、生きよう。生きてみよう。生きて行こう。
我が身がしなびて土に返る日まで生きてやる。
私が割ってしまった球根もそう。球根の立場になってみれば、突然私に身を二つに割られ、それまで南向きの良質土の中に埋まっていたのに、日陰の粘土のような土に私の判断で埋め替えられてしまいました。粘土のような土では地上から届く水も少なければ、土が重過ぎて根を思うように張ることもできません。それでも「生きる」と決めたのは球根自らです。私ではありません。私はこんなひどいこと、かわいそうなことを球根にしたのに、この球根のことをすっかり忘れていました。私が何をしたのかこうして開いた花が思い出させてくれました。
来年はいくつのヒヤシンスが土を割り、白い花を咲かせ、芳しい香りを放ってくれることでしょう。来年生まれ来るヒヤシンスを既に待っている私がココにいます。

le 12 mars 2009, Justine
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by ma_cocotte | 2009-03-12 18:05 | 『?』なたわ言 | Comments(3)
飛び入りして後片付けもしないで去れるとは、
こんにち、そのやふなことをあそばしますとは、オソレオオクモカシコクモ(ココで最敬礼)、どちらの親王さま、姫宮さまであらせられますでせう?

ココ数日、ご自分が知っていること
①2008.1.13.のシスティナ礼拝堂でのミサは、「パウロ6世の名で公布されたローマ・ミサ典礼書」が使用されていること
②教皇様の朝ミサも、同じ典礼書が使用されていること
③メアクルパを「集う者全員」で声をそろえて唱えるのは、「パウロ6世のミサ」においてだということ
を拙ブログに自ら持ち込み、エントリーとは話がそれる方向に持っていく大量のコメントを残し、こちらの質問には何ら答えず消えた方がいらっしゃいます。HNが 匿名 とおっしゃる方で、拙ブログスペースを貸してくださっているエキサイトブログ社から提供されているIPアドレス表示を元に調べましたら、他の掲示板等では別の名前で活躍されている方とまったく同じIPアドレスであるということまでわかったことをまず申し上げておきます。ついでに、数日にわたり 心のともしび運動 HPから御文を拙ブログに無断転載を送信し続けている方とは別人です。

さて、匿名さんが拙ブログのコメント欄に初めてコメントを下さいましたのは、2009年2月25日でした。元は鍵コメントでしたが、今回のこのエントリーのポイントになる部分は別の色に反転いたします。匿名さんが引用した私のコメントについてはにします。
Commented by 匿名 at 2009-02-25 23:39 x
at 2009-02-25 21:05の記述
>そして教皇さまが毎朝7時に小聖堂であげている背面ミサも、毎年1月にシスティナで行われる幼児洗礼式での背面ミサも第一ヴァチカン公会議以前の背面ミサで、イタリア語の典礼文です。
ま・ここっとさん、これだけは訂正してください
これは、まぎれもないノヴス・オルド(パウロ6世の新しいミサ)です。
ノヴス・オルドを背面祭壇であげておられるのです。
〝第一ヴァチカン公会議以前の背面ミサ〟??
〝FSSPXが言う聖伝のミサが誕生する以前の典礼〟??
これは、違います。式文を見て、所作を見れば明らかです。
是非、ビデオをご覧ください。イタリア語のノヴス・オルドの典礼文とどこが違いましたか?1990年代に、典礼秘跡省が、ノヴス・オルドを背面祭壇であげる方が良いこともあると、文書で出していることは、ご存じですね。
こうして初舞台を踏まれた匿名さんが9日後の3月6日になって私宛にこんな問いを別の拙エントリーのコメント欄にお書きあそばされました。
Commented by 匿名 at 2009-03-06 04:16 x
15
ま・ここっと様
>匿名さんが1970年以降のパウロ6世ミサ=ローマ典礼と限定してしまうと
★?????どこで、限定したでしょうか?????
(後略)


Commented by 匿名 at 2009-03-06 00:05 x
ま・ここっと様
2009-03-05 16:08の私に対するコメント
>匿名さんは典礼を信じているのですね。
>どうしてもPaul VI ミサを分断されて生み出された典礼と主張したいのでしょ?

??なぜ、そういえるのですか??
??そんなことどこにも書いていませんよ。??

以上、鍵コメントを悪く用いている一例になりますか。今一度、匿名さんご本人が初めて拙ブログにコメントを残された時のコメント ↑ に戻ってみましょう。匿名さんは
まぎれもないノヴス・オルド(パウロ6世の新しいミサ)
これは、違います
これだけは訂正してください
とご自分でタイプしたコメントを送信、2009年2月25日23時39分付でこちらが着信しています。次に、匿名さんが初送信で引用した私のコメントをご覧ください。
>そして教皇さまが毎朝7時に小聖堂であげている背面ミサも、毎年1月にシスティナで行われる幼児洗礼式での背面ミサも第一ヴァチカン公会議以前の背面ミサで イタリア語の典礼文です。
私は「第一ヴァチカン公会議以前の背面ミサ」と「イタリア語の典礼文」の間に句点( 、 )を使っており、教皇さまがイタリア語で典礼文を唱えているところまでしか私は触れていませんし、それ以上の内容について私は何も書いていません。
典礼文の中身について話題を変えたのは明らかに匿名さんです。
その後も匿名さんは私のコメントを読まずに見てキーワードで反応するだけになり、最終的に以下のようなやり取りになりました。
Commented by ma_cocotte at 2009-03-06 05:35 x
★ 匿名さま、何度も同じ文章をおそれいります。
それでもトリエントミサ以前の典礼様式なんですよ。
教皇さまの司式ミサは戻りすぎだったのです。
どうして典礼文にのみばかりこだわりますか?
たとえ典礼文が1970年の改訂版だとしても元は1570年以前のものを
改めたもの
であり、2008年1月13日の典礼様式は1570年以前に
基づくもの
です。
この拙文 ↑ に対し、匿名さんから以下の返答が送信されました。
Commented by 匿名 at 2009-03-06 08:18 x
ま・ここっと様
(繰り返しですが)
>それでもトリエントミサ以前の典礼様式なんですよ。
★「トリエントミサ以前から続いてきた様式」とは、
司祭が背面祭壇の方を向いて=会衆に背を向けて
ミサをささげること、を指しています。
司祭の向き(立つ姿勢、祈る方向)が、
「トリエントミサ以前から続いてきた様式」なのです。
そして、使われているローマ・ミサ典礼書は、
「パウロ6世によって公布されたローマミサ典礼書」なのです。
¢( ・_・) エェエエト?
このエントリーの冒頭に戻ると匿名さんが引き合いに出したあてくしの拙文
>そして教皇さまが毎朝7時に小聖堂であげている背面ミサも、毎年1月にシスティナで行われる幼児洗礼式での背面ミサも第一ヴァチカン公会議以前の背面ミサで、イタリア語の典礼文です。
何か、どこか、間違っていますか?
結果として今回のやり取りを振り返ると9日間にも渡ってインネンつけられたような嫌な気分になります。しかも、匿名さんは最後のコメントで「では、良い四旬節をお過ごしくださいね。」で
あ ば よ っ っ !
これ、電脳界で言うところの釣り?それともヨソのステージで踊り疲れて、イイ汗かいての退散ですか?床に落ちた脂や汗水を拭くのは私の仕事だと? 
b0070127_23384464.jpg
↑ 14世紀に作られた手書によるローマ典礼書  Missel Romain


何度も匿名さんとのコメントのやりとりで「パウロ6世が定めた典礼文」について拘って書き続けられる理由を尋ねましたが、まったく返答がありませんでした。いったい何が匿名さんの目的だったのでしょうか?ご本人が
Commented by 匿名 at 2009-03-06 04:59 x
私の目的は〝事実の確認のみ〟です。
それ以上でも、それ以下でもありません。
とコメントを残してらっさいますが、私は2月26日の段階で匿名さんに、
Commented by ma_cocotte at 2009-02-26 00:36 x
私はL'Osservatore Romano 紙の記事で、その説明を読みましたが
違うのですか。訂正を私が貴殿の指摘のみで勝手にしていいものでしょうか?
と書きましたし、その後も
Commented by ma_cocotte at 2009-03-05 17:20 x
★ 匿名さま、
selon la manière antique attestée universellement dans
tout l’univers chrétien (jusqu’aux prétendues réformes
de Martin Luther qui a voulu célébrer sa cène face au peuple).

・・・・_| ̄|○  まー、いいや。
匿名さんとOR紙で話し合ってください。
等等、私は何度も繰り返しています。が、こんな返答も匿名さんからいただきました。
Commented by 匿名 at 2009-03-06 01:10 x

ま・ここっと様
>匿名さんとOR紙で話し合ってください。
そんな必要はありません。
なんぢゃあ、こりゃあ??確認しないのぉ? 
きょうのきょうまで匿名さんのIPアドレスのみがわかっても、匿名さんの性別もわからなければ、匿名さんがカトリック聖職者なのか、キリスト教神学者なのか、カトリックに関わる修道者なのか、神学生なのか、還俗者なのか、世俗なのか、世俗でも末席なのか、教導資格があるのか、典礼委員長や教会役員に選出されるほどの立場なのか、それともFSSPXのミサに通う方なのか、カトリックとFSSPXの両股かけなのか、私もこの場に集う読者も何も匿名さんについてわからないまま、私がこの電脳上の公衆で
そうですね、
あなたがおっしゃることは正しいです。
と返答できるでしょうか?しかも典礼書の内容、中身については私の独断で正誤判断できるレベルではありませんよ。匿名さんから私に「典礼書の厚さでわかるでしょう?イタリア語の典礼を耳にすればパウロ6世ミサの典礼文だってわかるでしょう?」とまで圧されたけれど、
わかるわけないぢゃん。(*´Д`)=3
おそらく匿名さんは祭壇の向こうに立つことのない私に、祭壇の向こうについての私の知識における正誤を確認して、公衆に知らしめたかっただけだったんだよねぇ。カト的空回りとはこのこと。
言い返せるのなら、舞台の小道具のように分厚い典礼書の中身が真っ白の紙でも祭壇の手前の立場の私には構いません。メアクルパを唱える時に3度胸をたたくのはパウロ6世ミサのみの所作であっても、教皇庁や世間がウヰリアムソン師の件で使用している Mea Culpa という単語の意味はなんら変わりません。辞書で Mea Culpa を引いたとしても「Mea =私の、Culpa=過ち」であって「Mea Culpa : 胸を3回叩く動作」なんて書いてありません。いつ、どこで教皇庁がウヰリアムソン師に典礼所作と典礼文丸暗記という課題を達成すれば無罪放免にするなんて公布し、それを世間の一般全国紙が取り上げて騒いだのでしょう?ご自分の知識を拙ブログで披露することに懸命になり、元の話からご自分の語りたい話題に摩り替えるのもここまで来るといかがなものか・・・つうか、そんなことをしたい匿名さんの目的は何でしょう?
...これで、もし匿名さんが世俗の女性でしたら?
_| ̄|○  なんておそろしい。四旬節だからこんなことがアリエルなのねん。

ここで、各新聞が教皇さまの背面ミサがトリエント典礼ではないことを証明するのに懸命だった理由が何であるか触れてみましょう。

2007年7月7日のモツ・プロプリオについてカトリック新聞紙上で、某カトリック修道会の日本人修道司祭の説明文が掲載された内容を私も友人を通じて拝読することができました。が、その内容は仏蘭西国内の報道で流れた背景とまったく違いました。カトリック新聞の記事には「トリエントのミサが認められるのは『聖ピオ十世会』のような人たちのためです。」(原文のまま)とありましたが、そんな理由は欧州では微塵も流れませんでした。だって、2007年7月7日以前に教区はじめ教区長から認可がおりた複数の修道会聖堂でトリエントミサは絶え間なくあげられていたのですから。
欧州の大地で語られた2007年モツ・プロプリオ発布の経緯は第二次世界大戦終了から63年が過ぎ、背面ミサが目に入っただけで、グレゴリオ聖歌が耳に届いただけでトラウマに苦しむユダヤ人世代の多くがこの世を去ったこと、教皇JPIIが異教の方々に謝罪の行脚を続けられたことの結果としてトリエントのミサをおこなう条件を緩やかにできると見計らったこその実現であるということでした。この裏事情説明が報道で流れたのは2007年はじめで、モツ・プロプリオ公布の半年近く前です。終戦後まもなく欧州各国に帰還したユダヤ系の方々がいろいろと訴訟を起こす際に、トリエントミサなどを絡めて賠償を求めることも続いていたのです。「ちらりと見聞するだけで意識を失う」等。つまり典礼文の内容なんて異教徒には関係ないのです。背面ミサの様子を目にしただけで発症する心身の苦しみをカトリック教徒はわかっているのか?ということが社会問題だったのです。だから、教皇さまが2008年1月13日にシスティナ礼拝堂で背面のミサをあげた時に欧州の一般全国紙が丁寧に説明したのは、教皇さまがあげた背面ミサはトリエントミサではないということなのです。一方で1970年以降に生まれた人々には対面でなく背面のミサなのにトリエントミサではないとなると「そのミサは何というミサ?」となるし、FSSPXとこの団体の支持者が背面ミサであっても典礼が「第二ヴァチカン公会議以降に作られたパウロ6世ミサ」だから「伝統でもなければ、聖伝でもない」と噂を飛ばす可能性が高いので「教皇さまがあげた背面ミサがローマ典礼であり、この典礼は1570年以前は背面かつ現地語だったのだ」と各紙が説明しているのです。
ま、ユダヤ租界もなければ、日系ユダヤ人もユダヤ系日本人もいない日本國にはまったく関係ありませんね。はい。
欧州における第二次大戦終結は1944年5月8日、第二ヴァチカン公会議開催は1962年10月11日。嘘か真か、この18年と5か月3日の間、宗教を越えて世界の平和を考えたからこそローマ典礼がパウロ6世ミサという名で400年ぶりに陽の目を見たとも語られていたりします。果たしてパウロ6世ミサの制定は「ユダヤ人のせい」でしょうか?近代史を涼やかに振り返ればカトリックが第二次大戦以前のように自我を張れない事情があるとしか見えないし、報道で流れたように背面ミサを垣間見ただけでスイッチが入ってしまう方々が21世紀に入りほとんどが帰天していること、JPIIが在位中に先頭になって続けられた償いあってこそトリエントミサの認可手順が緩和されたという事情は私個人はわからなくもありません。もし第二次世界大戦なんかなかったらトリエントミサはずっと堂々と続けられていたかもしれません。
今年に入ってからのFSSPX 関連の話で、教皇さまが4司教破門解除は教会一致までの長い道程の中での一基点をひとつ置いたに過ぎないとおっしゃっていること、本当にそうだと思います。起点ではなく基点です。

拙ブログなんかで自己知識の披露に懸命だった匿名さんより、OR紙や一般全国紙の編集者の方がよっぽどカトリック教会にも、異教徒にも、一般社会にも気遣った記事を提供しています。どうやら「自己の平和」と「自己の満足」は必ずしも同じではありません。
自己が不満足になると予想しても、
世の平和のためにできることを個人がする
今回の件で身に沁みてよくわかりました、まる

le 7 mars 2009, Félicité
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by ma_cocotte | 2009-03-07 17:18 | 『?』なたわ言 | Comments(0)
この一年、生きてこれた、生きていられた。
2月24日になってしまいました。
きょうは私が生まれてはじめて迎える私の母の祥月命日です。
本当なら一周忌で帰宅するのでしょうけれど、母の場合、私の父方の実家の墓所工事を昨夏行ったこともあり、納骨が9月の彼岸に行われ、その際、お寺さんの承諾の下、一周忌の法要も共に済ませていただいたのでした。

この一年、私は生まれてはじめて母無しに生きました。
なんとはなしに母からすぐお迎えが来ちゃうンぢゃないかな、と内心思っていました。でも、来ませんでしたね。天国で退屈な思いをしていないのか、天国から眺める一人娘の生き様があまりに面白いのか。
既に私は実家を出て10年になり、昨年2008年2月24日まで母と一年以上会わなかったことは数度あります。でも、間に海や川があっても同じ地球の上、大地でつながったどこかに母が「いる」、母の「存在」を確信できる、たとえ母が言葉さえ思うように発せず、経管栄養だけで生きているだけの「存在」でも娘にとっての母は心のビタミン、栄養でありました。そりゃそうですよね、自分がこの世に飛び出るまでの毎日、母から栄養をもらって既に育てられていたのですから。でも、その母を今はいくら地球を何周まわったところ見つけられません。お墓の下に母の存在の証となる燃えカスが収まっていることはわかっちゃいます。でも、その存在の中にあった魂までが燃えて昇華してしまったとは私には思えません。母の存在と言う栄養剤を欠いても、私がこうして今も母から呼ばれることもなく生きているのは、母の死を通してヒトがこの世に生かされていることを何とはなく悟ったからかもしれません。

母無しのこの一年、母を亡くしただけでなく私にも喜怒哀苦楽いろいろありました。でも、私が自ら「すぐ死にたい」と思うことはありませんでした。昨年2度の帰国で、複数の友人、知人から「人生はこの世ですべてが終わり、死の後は無なのだ」という考えも聞きました。それならそれで、私が今生きている地球は美しい星なのでできるだけ長くこの世に生きて愛でたいと、我が身に纏わり着く世知辛いことは横に置いて素直にそう思うのです。

子供がいない私だからこんな風に思えるのでしょうか。母が亡くなったところで、子供がいれば「いつ呼ばれても、ま、いっか?」なんて微塵も思わず、「これからはこの子のために生きよう」と自分の立場を置換できますか。ただ、「いつ呼ばれてもいいや」と内心思いつつも、その日を迎えるためにはそれなりの物心両方の準備がいるようにも思えるので「今すぐ呼ばれちゃうのはちょと困るかも」と私の心が死に対してもぢもぢしていたりもしています。そんな自分の心の中の葛藤が面白くもあります。
生きぃているから悩むんだ。
掌を太陽に透かして見れば、真っ赤に流れるボクの血潮~♪
これからの私の余生は死ぬための準備をするためにあるのかなあ、擦り傷をおえば赤い血が出る私の手もその準備のために必要なんだね、たぶん。どうせ塵に戻るんだから、親からもらったこの身体を使わなくっちゃ。

この一年、母の死を通してたくさんたくさん学んだこと、知ったことがあり、私にとってのきょう2月24日は一周忌というより一周愛です。母が「親が死なないとわからないことがある」と、私と口論になるたびに言っていましたが、それはきっと、何より愛ですね。一年経って母の愛、友からの愛、私が受け止められないほどいただいていることを実感しています。このいただいたたくさんの愛を私も分けていきましょう。
数日前、田口芳五郎 という方が生前に残されたこんな言葉を見つけました。
私が今日あるのは、母の祈りです。
ああ、ああ、本当にそうです。私もそう。
母が毎朝晩かかさずお仏壇に手を合わせていたことを思い出しました。

le 24 février 2009, Isabelle
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by ma_cocotte | 2009-02-24 18:56 | 『?』なたわ言 | Comments(11)
なんとなく特別な週末を迎えた。
2009年2月22日。
なんとなく特別な週末を迎えた。お仏蘭西的には日曜日は週明けなんだけど。
というのも、二日後24日に私の母のはじめての祥月命日を迎えるが、2008年2月23日は土曜日でまもなく日付が代わる時刻に突然電話がなって父から母が他界した旨の知らせを聞いたのだ。涙なんか微塵も出なかった。翌週の水曜日の飛行機で帰国することが決まっていたから木曜日の午後に帰宅すると父親に話したら「何、言ってるんだ!?」と怒鳴られたことも覚えている。電話を切った直後から空だか宙を浮いたような感覚の中に私は入ってしまい、こんぴーたの前で航空会社の連絡先を探したり、それがうまくできずにとりあえず横になったり、明け方には妙な寝汗で目が覚め、再び机の前に行き、と。横になろうが直立だろうが私はウトウトと、まさにそういう感覚の中にいたと思う。後になって私が妙な寝汗で不快感を感じた同時刻に母が脳を献体するために手術台の上にいたことも知った。偶然ですけれどね。
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ココんちの仏蘭西びと♂がおそらく洗礼を受けた洗礼台。現在はまったく使われていないようだ。

夜が明けて、その日は日曜日だったからココんちの仏蘭西びと♂と一緒に教会に行った。その教会は彼が生後まもなく幼児洗礼をいただいた教会で、私たち二人が婚姻の秘跡というものをいただいた教会でもあるから、彼は教会に着くなりまっすぐ香部屋に飛び込んでその日の司式司祭に私の母が亡くなったことを告げた。すると、その神父さまが私の母の名前を尋ねてきたので、彼が私の母が異教徒であることを話したが、その神父さまはそんなことは構わないから教えなさい、と彼にびしっとおっしゃったそうだ。そんなことを私は宙だか空の中にいたので何も知らず、ミサが始まってしばらくして聖人名でもない私の母の名に「-さん」がくっついて読み上げられた時には驚いたし、不謹慎にもちょっと「さん付け」に笑ってしまった。異教徒なのに母の名を読み上げ、そのミサに参列した人々が皆、一瞬でも遠い異国の異教徒の母のためにまで祈ってくれたこと、いくら感謝しても感謝しきれなかったりする。

今月はじめ、8日だったと思う。
この昨年2月24日、おそらく世界中で最初に母の死を思い祈ってくださった神父さまが2月2日に帰天され、5日に既に密葬が済んでいたことを知った。自分が情けなくなった。10,000kmも離れた日本で死んだ母の通夜にも葬儀にも私は出席できたのに、同じ市内に住む一司祭の葬儀にも出られず、彼の帰天を知った時に彼は既に土の下だった。再び自分が空の中に誘われたかのような感覚に襲われた。この神父さまと同じ司祭館に昨年9月まで共に住んでいた助任司祭からこの神父さまががんらしいということは2週間ほど前に聞いており、それなりの覚悟を私もしてはいたが、まさか入院後たった3週で帰天されるとは。後日、同じ助任司祭から聞いた話では腎臓癌の末期だったそうだ。この神父さまは定年を数年後に控え、昨年9月に長年住み慣れた小教区教会から地元の公立病院付司祭として異動になった。異動後たった5か月での帰天というのも何か意味があるように思えたりもする。

私は教区司祭の埋葬についてまったく知らないのだが、彼が所属した教区HPや訃報が掲載された新聞HPなどをインターネットで確かめて、彼が生まれ故郷の小さな墓地に葬られたことを知った。苗字に「ド de」が付く方だったから、どうも一族の墓所で永遠の眠りに付いたようだ(↓)。
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2月14日、前々から予定していた訪問先に行く途中、その墓所に寄ってみた。数百年前までは獣道でそこにアスファルトをしいただけのような道を抜けた向こうにある山間の小村の小さな墓地。その真ん中に彼と同じ苗字の墓石がいくつかあった。大きな新しい墓石の側面には複数の人物の名前が掘り込まれていたけれど、その中に1885年生まれで名前の前の敬称にラベ L'Abbé (=司祭、修道院長)が付いた人がおり、もしかしたら私たちの教会婚直後に司祭館でアペリティフの準備をしてくださったこの神父さまがアジア顔の私に気をつかわれて話してくださった南アジアに渡ったことがあるイエズス会宣教師だった叔父上のことではないかと想像した。が、苗字にド de が付く子沢山の家ではひとりや二人、司祭や修道者が出るのもついこの間までの仏蘭西の伝統だったので多分私が思いついたことはハズレだろう。イエズス会修道司祭なら一族の墓所ではなくイエズス会の墓に入るだろうしね。
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この神父さま、ドつきの出自にもかかわらず、もろ1968思想のカトリック司祭で伝統軽視はもちろん、信心業を全て否定していた司祭だった。昨年夏に前出の助任司祭から漏れ聞いた話ではこの神父さまがこういう思想なのに、兄弟姉妹のうち数名がFSSPX の礼拝に通っているらしいとのこと。同じ一族なのにね、そういう分裂を招いているのも仏蘭西共和国内の其処此処彼処にゴロゴロ転がっている家庭内問題だったりもする。私個人はカトリックの学校で見聞してきたカトリック的信仰生活とこの神父さまが自他共に実践していることにあまりにもギャップがありすぎて付いていけなかったけれど、そんな伝統を軽んじるこの神父さまが聖櫃に向かって挨拶する時の所作の美しさ、典礼準備のために集った若者たちの前で聖書朗読と解釈について指導する際の眼光の鋭さなど我が脳に焼き付いてしまい忘れることができない。幼い頃から身にしみこませた習慣や所作を成人してから選り好んだ思想で自分から消し去ることはできなかったのだと思う。

1968年に絡む思想について天においての真贋やら善悪は私にはまったくわからないし、まさに天に委ねるべきことだろう。何から何まで思考の一致がないのは親子関係でも同じこと。日本から離れて住む私には両親とほぼ同世代のこの神父さまが「私のパパ」でもあった。なんか理由はないけどそう決めていた。今の私にとってこの神父さまがこの新天地で一番最初に異教の名前である私の名前をしっかり覚えてくださったこと、一昨年のノエルの準備に参加してくれたアフリカ系移民の母息子がおり、その息子の名前がクリスタムール Christ-Amour (=キリスト-愛)と聞くなり二人で目を合わせて感動を分かち合ったこと(私は内心、学校でいじめに合わないか心配になった)、いつも笑顔で私のほっぺに優しくビズしてくださったこと、・・・そういうことばかり思い出しては感謝するばかりだ。お葬式には行けなかったけれど墓参できただけでも良かった。メソメソしている私にココんちの仏蘭西びと♂は、今は天国で私の母がこの神父さまに最初に祈りを捧げてくれたことや私に優しくしてくださったことに礼を述べているよ、と慰めてくれる。それが本当だといいな。だけど、まだ私の心のどこかでは一年前に母を祈りで見送ってくださった方が土の下というのはどこか割り切れないままでいる。

母は24という数字がつく日に亡くなり、カトリックの典礼暦だと24の付く日は重要な祭日であることが多い。一周忌にあたる今年の2月24日は偶然にも仏蘭西ではMardi Gras マルディグラ(=脂の火曜日)という日で世界中のカトリックが復活祭の準備のための節制に入る日(Cendres、=灰の水曜日)の前日だ。今ではハロウヰンというエイメリカのお祭り騒ぎに圧されてしまったけれど、本当ならこのマルディグラに仏蘭西のお子たちはお菓子をもらうために町内を仮想して練り歩くのだ。もし母が生きていたら、かわいい子供たちのためにたくさんのお菓子を準備したことだろう。私の友達が実家に遊びに来るたびに、帰り際に大きな紙袋を渡して「ほら、広げて」とジェスチャーしつつ、その袋の中にたくさんお菓子や果物を入れて楽しそうだった母を思い出す。今朝、父からの電話で一周忌を前にいただいたものをお仏壇に捧げたという話をもらった。もう母は永遠にお腹の空くことのないどこかにいるはずなのに。


ちょっとだけ、センチ。


le 22 février 2009, Isabelle

ココらへんは冬休みに入りました。春は近い。
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by ma_cocotte | 2009-02-22 18:13 | 『?』なたわ言 | Comments(15)
この絵を見て脳に描いたことを言葉で表して絵に描いてみてください。
こちら ↓ 、ココんちの近所の教会の壁画です。
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この絵を見て、どのような物語を思い描くのでしょう?

こちら ↓ 、ルルドで見つけたこのモザイク画ではどんなお話が思い浮かびましたか?
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一枚目の壁画で左下で両手を広げているムッシュウと、二枚目のモザイクで右上の端っこでお手手を合わせてナームゥなフランケンシュタイン親父はどうも同一人物であり、ラザロ(仏蘭西語だと Lazare ラザール)という名前です。

おそらくどちらの画家さんも、新約聖書ヨハネ福音の11章の1節から44節を読んで絵にしてくれ、と教会のエラいヒトに頼まれて、自身の妄想、いや、想像で 一目でわかる長いお話 を表現されたのだと思います。一枚目の絵はこの教会聖堂を寄付したナポレオン三世が画家に依頼したのかもしれませんが。

話戻って、ラザロさんですが、私の手元にあるフェデリコ・バルバロ訳新約聖書(ドン・ボスコ社、1973年、第27版)によりますと、いえっさんがベタニアという町に着いた時、このラザロさんはお墓に納められて既に4日目だったそうで、家族や友人がその死を悲しんでおいおい泣いているのを見たいえっさんが墓参りがてら、墓石を取り除けるようおっしゃったと。すると、ラザロんの家族であるマルタちゃんがいえっさんに
四日も経っていますから、臭くなってますよ。
と、妙にリアルな発言をしたのです。ま、ニオいに敏感な私ならそこで「あなた、やってよ」と誰かに頼んで野次馬にまわりますが、いえっさんはマルタちゃんに「あなたが信じるならイイもん見せるって言ったぢゃん?」なーんて言ってマルタちゃんに墓石を動かさせ、
b0070127_21493932.gif ラザロ、かっもーん 
と、いえっさんが墓穴に向かって一声かけられたら、ラザロんが「Rebonjour à tous! 四日間のご無沙汰でした」と墓穴から出て来たんですってよ、奥さーん。

・・・・となりますと、バルバロ訳に近いのは一枚目の大きな壁画より二枚目のモザイク画の小さな絵でしょうか。なんでタイ風の挨拶でいえっさんに呼ばれて墓穴からぢゃぢゃぢゃぢゃーんなんだかわからないけれど、画家さんはそう想像し表したのでしょう。聖書には「ラザロが手を合わせて出て来た」なんて一言も書いてないけどさ。それより、
臭かったのかなあ・・・そこが知りたい。
この事件が現場で起こったのは今から2000年近く前のことで残念ながら現在、目撃者は誰も生存していません。記録文書を読んで各自が絵で表現すれば明らかな違いが出、そっくり同じだと盗作騒ぎやら没個性批判が起こりかねません。逆にこの一枚の絵を見て自分が思い描いたストーリーを言葉や文章に変えた場合、聖書とズレが生じたならば「ヨハネ11章、開いて読んでみまっし」と妄想と記録の違いを確認できます。そして、その違いを確認した本人に「絵で表現して」と頼めば、これまた新しい一枚の絵がこの世に誕生します。

そんなわけで、現場の目撃者が見たもののみが真実で、その目撃者が見たものを言葉で表現したらそれはもう目撃者の個性がその言の葉の中に含まれているのです。同じ文章を読んで脳裏に広げた世界についての表現を見聞して、どれが正しいか正しくないか?結局のところ、各自の想像力の真贋や、その言葉を発するヒトへの信頼を問うているに過ぎないのかもしれません。実際の事実は現場にいた者が知るのみなのだのだ。臭いについてはまさにそう。
あああ、その場にいなくて残念でした、っとぃ。
いや、その場にいなかったのも神のみ旨なのさ。← 赤のラッションペンで、はなまる。

le 10 février 2009, Arnaud
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by ma_cocotte | 2009-02-10 21:21 | 『?』なたわ言 | Comments(21)
開けたいけれど、
開けられない。
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なぜなら、こんなに愛らしく包まれたモノをほぐす気持になれないのです。
日本國に住んでいた頃ならば丁寧な包みは私には当たり前で、時に破り開け、リボンや包装紙をポイっとゴミ箱に捨てました。でも、今の私にはリボンも包装紙も貴重で、ましてこのように丁寧に美しくおめかしした物体はそのものが私には飾り物です。

実はこの包み。昨年末、クリスマス直前に近所のBIOショップで私が私のために買い物したのに、店員さんからこんな時季でせっかくなので包ませて欲しいとせがまれ、私がそれを聞き入れたことで、このような仏蘭西のド田舎のド庶民生活では滅多にお目にかかれない貴重な包みがココんちにやって来たのでした。

確か中学時代の公民の授業と記憶していますが、紙の価値について習いました。特に各国の紙幣を見ればその国の紙の価値と貧富の程がわかる、と。仏蘭西では今も庶民の生活で普通に見るお札は50ユーロ以下のお札でしょうか。その50ユーロのお札さえ、何の気なしに店員さんに渡すと真偽のほどを確かめられたり、時には拒まれたりもします。自分はお札を丁寧に扱っているつもりでも、買い物の釣銭でセロハンテープでつなげた5ユーロ札が手渡されることもあります。日本びとの私はそれを受け取ったところで、別のところで使用を拒まれそうな気がして、この運命に憂鬱になることもあります。日本國のお札がここまでヨレヨレだったりセロテープでつなげられた状態で動いていることは滅多にないと思います。
こんなヨレヨレの怪しい紙幣が出回ったり、価値のあるお札を手に取ったら真偽を疑われたりする国で、文房具売り場にふらっと行けばノートにしろ、コピー用紙にしろ日本の同等のデザインのものに比べたらべらぼうに高いことも実感します。かわいい!なんて思わず叫んで手に取れるようなデザインなんてまずなくて、実用的なスタビロ(蛍光ペン)が日本びとの視覚にはたまたまかわいいツボにはまる程度ぢゃないでしょうか。消しゴムなんて臭いをかいぢゃダメよ。

そんな仏蘭西共和国ですから、日本びととサルコぢ一家が喜んで飛び込むような高級店以外で紙を惜しげなく使った包装なんてしていただけることは滅多にございません。てか、店員もそんなことは「私の仕事から外れたこと」という意識が強かったりします。こちらが買ったものはビニール袋にポン!と買った私が入れることさえございます。ほんと、時節柄、店員さんご本人にモチベーションがない限り、こんな「お包みしましょうか?ぜひ私に包ませてください」なんて申し出はありえなーい。

でも、こうして仏蘭西の日常から物資が豊か過ぎるわが母国日本國について私なりにわかることができたこともこういう時代だからこそ幸運、好運なのかもしれません。先日も外国滞在者向け通販で買い物をし、丁寧に梱包された商品が日本からココんちに届きましたが、上質のダンボールも封筒も、商品を守るために包んだパッキンや発泡スチロールも今の私には宝石のように見えます。こちらでは簡単に手に入らないものなので、折りたたんで、いつか私から何か発送する時に使えるよう押入れにしまいました。
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1月も16日。早くも半月を過ぎたので、いい加減、リボンをほぐしてパッケージを開けた方がいいですね。仏蘭西びとみたいにビリビリなんて私にはできないや。
そんなことを思いつつ、リビングのクリスマスの飾りつけの片づけをしました。

le 16 janvier 2009, Marcel
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by ma_cocotte | 2009-01-16 18:52 | 『?』なたわ言 | Comments(6)