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それにしても、いい笑顔だなあ。
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昨日の夕方だったか、フェイスブックにこの写真 ↑ が届き、拝見するなりの第一印象が「いい笑顔だなあ」でありました。この写真は昨日、ポーランドはクラコフで開催されているワールドユースデイ(World Youth Day)で、毎度恒例の大会のクライマックスでもある「ゆるしの秘跡」での教皇さまです。いくつか前のココのエントリーにも書きなぐりましたけれど、ワーロドユースデイそのものがカトリック生活でもあるので、参加した聖俗信者はカトリックの聖務日課や信心行を基本に大会期間中を過ごすことになります。だから、「ゆるしの秘跡(以前は告解という名称で知られていました。懺悔ぢゃありませんからねw)」を主日を迎えるまでに終えなければなりません。←ウソのような本当の話。フランスぢゃ、すでに形骸化している習慣で、守っているひとはマイノリティレベル(失笑) 兎に角、カトリックの伝統に則れば、主日ミサにあずかる前に必ず告解し、聖俗誰もが霊魂真っ白にし、こころを合わせてミサをささげていたのでした。



ま、フランスのカトリックなんか横に置いて、昨日のクラコフでの教皇様が聴罪司祭となっての告解。
今朝になって、フェイスブック版のバチカン放送英語版から新たに写真が届いていました。
https://www.facebook.com/VaticanRadioEnglish/posts/1259890850689183
なんだか、いずれの写真も「いい写真だなあ」です。

フランシスコ教皇様のこのような笑顔、貴重ですわよね。
ヴァチカン市国の国家元首としてのおつとめの最中にはまずこれに匹敵するほどの笑顔を見せることがフランシスコ教皇様にはありませんから。お心に素直なのでしょうかねぇ。知る由は私にまったくなし。


そして、信じようが信じまいがヒトの勝手ですが、教皇様の写真を凝視すると、お首周りに紫色の厚い布の帯が見えます。これ、ストラと呼ぶそうですが、教皇様に限らず聖職者がこのストラを首にかけている時はヒトのようでヒトでない、そんぢゃ、何かと申しますと「ネ申」なんざんす。そこまで知って臍曲がりの私のような者になると、「へぇえええ、罪を聴く神様は笑顔になるンですか。」と突っかかりますが、神様は向き合うヒト(=霊魂)から罪を聴き、その罪を赦し、告白したヒトを日常に送り出すので、こういう最上の笑顔になるンですわ。この時点で自分の目の前の神様がまだ自分が告白した罪や怠惰についてムっとした顔をなさったままだったら、自分、どういう気持で日常に戻りますかね?「ああ、神様はまだ私の罪を心底ゆるしていないし、根に持ってらっしゃる」なーんて想像しちゃいませんかね。

もう10年くらい前になりますが、私が或る神父様に告解の役目について質問したら、神父様としては「聴いたことをすぐ忘れることが大切なのです」と返事をいただいたことがあり、これについてはそれ以降、常に私は気にかけるようにしています。そうかといって自分は神父様でも立派な信者でもないからあれこれ善くないことを引き摺りがちですが、できるだけ7日未満で忘れるよう務めているつもりです(できてないけどさ)。

この「ゆるしの秘跡」は秘跡なのでカトリック信者の特権となり、信者でないひとはあずかれませんけれど、信者でなくても、神父様が首にストラを引っ掛けなくても、日常の喜怒哀楽などを話すチャンスはあるので、おかしくなるくらい思いつめる前に神父様に会うことも善いことだと思います。もちろんひとそれぞれだから、仏教など他の宗教者に相談するのもよろしいでありませう。

ま、兎に角、きょうは主日だ。新教だと聖日と呼ぶのでしたっけ。世間では日曜日だ。
よい一日にしましょう。

クラコフのワールドユースデイは今日が最終日で主日ミサをもって閉幕。
確か次回の開催地が発表になるのも最終日だったと思います。どこだろうねぇ。


le 31 juillet 2016, Ignace



あ、きょうは偶然にも7月31日なのでイエズス会創立者であるイグナチオ・デ・ロヨラのお祝い日だ。
イエズス会はフランシスコ教皇様が会員でもあるし、もしかして次回はイグナチオにゆかりある土地かしらね?
妄想は止めよう、自分。
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by ma_cocotte | 2016-07-31 15:09 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
こんにち7月29日金曜日は「節制と祈りの一日」
仏蘭西語だと、
une journée de jeûne et de prière vendredi 29 juillet


あらららら。おーらららら。
お昼のニュウスで気づかされた時には焼き鳥を口にくわえていたアタクシ。
がーん。
そうだったのでした。
仏蘭西にもカトリック中央協議会なるものが存在し、そちらのエラい神父様のお名前でフランスと善意ある世界のひとびとにきょう7月29日金曜日一日を先日26日の教会テロを思い、節制と祈りを実行する一日にしようという提案が我々にあったのでした。冒頭の jeûne  という単語が「節制」に当たりますが、これ、病院用語だと断食が適当になります。例えば血液検査などのために前日から jeûne を求められる場合が多く、検査直前の登録で「あなたはjeûneしましたか?昨日の(せめて夕方から)飲みも食べもしていませんね?」と確認されるのが常です。

で、カトリックヲールドでも昔はjeûne と言えば「断食」でしたが、最近は「節制」という表現に変わっています。個人によって断食が難しいのであれば、断食とは別の形で節制を行い、自らに厳しく接することを表しています。

もうお昼を食べちゃった私は何か別の節制を探すことにしましょう。
歌舞音曲を避ける・・・? それぢゃ、甘いか。

そして、きょうのお昼の、フランス国営放送のニュウスを見ていたら、またもカトリックの話題に触れ、26日の教会テロをきっかけにカトリックの聖堂を訪問するひとが増えているのだそうです。きょうは金曜日ということもあり、(ここでは説明を省きますが)初金という名の信心行につながる曜日なので朝ミサをささげている教会が多く、報道でもその様子が映し出されますが、司式する聖職者にしろ、参列している世俗にしろ、26日以降、心に傷が少なからずあり、慟哭の中にいる方が多いらしい。うむ、私も比べるのは難しいけれど、日本の相模原での事件とルーアンの教会テロについて考えに考えてしまっていたりもするので、そのうちのひとりかもしれません。

ひとそれぞれですが、教会訪問するにしても、きょう一日、節制するにしても、どちらをしなくても、脳と心で思い巡らし、考えることが大切で、それが「祈り」そのものではないかと思いました。ですが、悪の方面に陥るのではなく、どうするにせよ、善に向かうことですよね。

そして、そして、きょうのお昼のニュウスではフランシスコ教皇さまがアウシュヴィッツを訪問されたことについて繰り返し紹介されています。ひとりぽっちで収容所のアーチをくぐり、ベンチにひとりぽっちで座ってしばし黙想。そして、歩を進めている時は目の前にある当時の建造物の断片に触ったり、接吻されたり。もちろん日本にもゆかりある聖マキシミリアノ・コルベ師が帰天された独房にも入り、お祈りの時間を持たれたこともニュウスで紹介されました。欧州はまだ午後1時を過ぎたばかりで、教皇様は午後もアウシュヴィッツ・ビルケナウにいらっしゃるそうなので、きょうの夜のニュウスではまた新たな知らせがあると思います。

それにしても、ショックだな・・・やっぱり、自分。


le 29 juillet 2016, Marthe

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by ma_cocotte | 2016-07-29 20:14 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
世界中で、いつも、同じ。
昨日は、ミサ漬け。
おとといの夕方、花の都はパリのノートルダム司教座聖堂で捧げられた先の教会テロ事件の犠牲者と家族のために意向をささげたミサとポーランドで開催されているワールドユースデイでの教皇司式ミサ生中継と2本も「ミサ中継」を視聴してしまいました。でも、私ですから「~しながら視聴」です。

カトリックのミサというのは平日でも主日(=土曜夜から日曜夜まで)でも世界中同じ朗読箇所が読まれ、平日は2つ(旧約または新約の使徒行録以降のいずれかと福音書)、主日は3つ(たいていは旧約、新約の使徒行録以降、福音書)で、これらはヴァチカン本丸で定められているわけです。ただし、葬儀や結婚、幼児洗礼など内輪のミサにおいては必ずしも同日の決められた箇所を読みません。そして、平日ならば二つの聖書朗読の間に、主日ならばひとつ目の朗読の後に答唱詩篇という、旧約の詩篇が朗読または朗誦されることになっています。
で、おとといの、2016年7月27日水曜日ですが、世界中のカトリック聖堂のごミサで朝から夜まで読まれた朗読箇所は以下のとおりざます。
第一朗読 エレミヤ15・10、16-21

エレミヤの預言
15・10ああ、わたしは災いだ。
わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。
国中でわたしは争いの絶えぬ男
いさかいの絶えぬ男とされている。
わたしはだれの債権者になったことも
だれの債務者になったこともないのに
だれもがわたしを呪う。

16あなたの御言葉が見いだされたとき
わたしはそれをむさぼり食べました。
あなたの御言葉は、わたしのものとなり
わたしの心は喜び躍りました。
万軍の神、主よ。
わたしはあなたの御名をもって呼ばれている者です。

17わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく
御手に捕らえられ、独りで座っていました。
あなたはわたしを憤りで満たされました。
18なぜ、わたしの痛みはやむことなく
わたしの傷は重くて、いえないのですか。
あなたはわたしを裏切り
当てにならない流れのようになられました。

19それに対して、主はこう言われた。
「あなたが帰ろうとするなら
わたしのもとに帰らせ
わたしの前に立たせよう。
もし、あなたが軽率に言葉を吐かず
熟慮して語るなら
わたしはあなたを、わたしの口とする。
あなたが彼らの所に帰るのではない。
彼らこそあなたのもとに帰るのだ。
20この民に対して
わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。
彼らはあなたに戦いを挑むが
勝つことはできない。
わたしがあなたと共にいて助け
あなたを救い出す、と主は言われる。
21わたしはあなたを悪人の手から救い出し
強暴な者の手から解き放つ。」


答唱詩編 詩編56・2+3、4+10

詩編56
56・2神よ、あわれみを注いでください。
わたしは昼も夜もしいたげられ
3はむかう者がいつもわたしに襲いかかり、
逆らう者はあとをたたない。

4恐れにとらえられるとき、
わたしはあなたにより頼む。
10わたしはあなたに助けを求め、
神がともにおられることを知るようになる。


福音朗読 マタイ13・44-46

マタイによる福音
そのとき、イエスは人々に言われた。13・44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

となりますので、ココでおとといの夕方にパリの司教座聖堂で捧げられたごミサのビデオを見ると、



このごミサがささげられたのは水曜日の夕方だったこともあり、答唄詩篇だけ56ではなく58を選んでいますが(これはヴァチカンからおそらく二択の選択肢があったのだと思います)、第一朗読と福音書朗読は上に掲載したとおり、同日に世界中のすべてのカトリック聖堂で読まれている箇所と同じです。つまり、教会テロ事件の犠牲者とその家族(への慰め)が意向のごミサであっても、聖書朗読箇所はヴァチカンからの思し召しのままだったンですわ。少し考えたら、このごミサはノートルダム聖堂で連日捧げられている夕ミサに意向を乗せて同時刻に捧げられた、または時間がずれても夕ミサに置き換えられているかもしれないので、聖書朗読箇所は「そのまま」なのかもしれませんね。まあ、いずれにせよ、このごミサで朗読された聖書箇所は、聖だろうが俗だろうが、個人の選択による朗読箇所ではありません。

ヴァチカンがどのように箇所を選んでいるのか細かなことを員数外の私が知る由も術もありませんが、ただ、私個人の過去を振り返ると10年ほど前、私自身の教会婚やココんちの仏人の堅信の準備で、長らくイタリア人の修道女から要理を学んでいた時、そのシスターは80歳代の方ということもあり、必ず勉強に入る前に聖書朗読を行い、それはただ声を出して読めば済むのではなく、声の大きさから息継ぎまで指導するというもので、その時に旧約聖書の好戦を連想する箇所を読まずに飛ばす。その直前になると必ずシスターが「止め」とおっしゃり、飛ばすことをご命じになる。私は大昔にカトリックの学校で学んだものだから、シスターになぜ飛ばすのか質問したら、今の時代、カトリックでは旧約の好戦にあたる場所を読まないのです、と教えてくださったのでした。これは聖書のみ信ずの新教の方々とのおしゃべりでしばしば口論になりかねず、私自身もシスターに倣い、好戦箇所をあえて取り上げる方々から怒りを頂戴したこともあります。

ですが、洗脳と言われちゃそれまでなのかもしれませんが、好戦にあたる箇所を抜いて、平和につながる連想となる聖書箇所のみを聴き、自分の脳と心でよく考え、自分自身も平和を築くひとりになっていくという行いは、それこそ神がヒトを創造した時にヒトに与えた賜物だと思うというか信じます。もしいくら考えても納得行かなかったら、聖だろうが俗だろうが自分が信頼するひとに正直な気持を話し、他者の意見を伺って、また自分の脳と心で考える。こうしている間にも時は進んでいるわけで。脳みそ洗われたりしねーぜよw

このエントリーをタイプしながら、半十年前くらいにカトリックの洗礼を受けた「プロテスタント環境育ち」の友人がカトリックの礼拝では世界中で同じ朗読箇所が読まれていることに感動していたことを思い出しました。その時にそういえば私が耶蘇女学校の女学生だった当時、シスターが宗教の授業でカトリックでは世界中どこであろうとどんな言語であってもひとつの典礼(文)と教えてくださったことが脳内スウィングしたことは言うまでもありません。

カトリックっていいなあ・・・とあらためて感じ入った金曜の朝でした。

・・・でも、金曜日なので自分の外出には気をつけようっと。こんな思いを発したくないけれど、しかたないか。悲しいね。


le 29 juillet 2016, Marthe


あれ?
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by ma_cocotte | 2016-07-29 16:44 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
二人目。
おとといのノルマンディはルーアンの南に接するサンテティエンヌ・デュ・ルゥヴレイ Saint-Etienne-du-Rouvray の教会で起こったテロ事件について、二人の容疑者のうち、まだ人物確定に至っていなかった二人目の「イスラム国兵士」について調べがついたというのが、きょうの朝のトップニュウス。

その報道を流すテレビの画面が興味深いというか、その該当者の母親と、該当者の寝室が紹介されました。
床に直に置いたマットレスが印象的かな・・・典型的移民家庭っぽいと「それを観た時」の第一印象でした。

さて、その二人目。
アブデル・マリク・ナビル・プチジャン Abdel Malik Nabil Petitjean という名で、19歳。
サヴォワ地方のエクス・レ・バンの出身とのこと。

そこまで知っての二つの疑問は彼の苗字にプチジャン Petitjean とあるので、ウルトラフロンセな、つまりとてもおフランスな苗字であること。そして、エクス・レ・バンはサヴォワ地方で、私の記憶が正しければスイス国境に近い都市なので、事件があったノルマンディ地方とはパリをはさんで真逆の土地にあたること。

なんでまたノルマンディに?

記事を読んでいたら、彼もまた今年6月下旬にトルコ経由でシリアに入ろうとして見つかり、フランスに強制送還されたひとりとのこと。もしかしたら既に昨日、発表された第一の容疑者であるアデル・ケルミシュ Adel Kermiche と同い年ということもあり、どこかで(もちろん電脳域も含めて)意気投合した結果が、おとといのあの蛮行であり、二人が同時に絶命するという運命に至ったのかもしれません。

エクス・レ・バンの家に残る母親は、息子の死を知り、「私の息子が?ありえない! Mon fils? Impossible! 」と先ず言葉を発したとのこと。そして、事件の直前にメールが母親への愛情を語るメールが届いていたことも明らかにしました。このお母さん、お名前がヤミナ Yamina で、典型的なマグレブ出身の女性名を持ってらっしゃる。もしかすると、息子アブデルは欧州系男性との間に誕生した男児かもしれませんね。(そのうち明らかになるでしょう) 名前を検索すると、なかなかのハンサムさんです。

きょうになって、犯行を実行した男性が二人とも19歳とわかり、わが心、苦しくなっています。

とりあえず、ココまで。そんぢゃ。


le 28 juillet 2016, Samson

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by ma_cocotte | 2016-07-28 17:12 | actualite 現時点の現場から | Comments(0)
ワタクシの個人において貴重映像w
昨夕、花の都はパリのノートルダム司教座聖堂で捧げられた、サンテティエンヌデュルゥヴレイ事件の犠牲者とその家族に意向がささげられたごミサ Messe à l'intention des victimes de Saint-Etienne-du-Rouvray et de leurs familles のビデオをココに。




最前列に仏蘭西ぢゃ結構有名な政治家さんがいらっしゃり、そこにはオランド大統領とヴァルス首相も見えますが、聖体拝領の列に並ばれたのはヴァレリ・ヂスカアルデスタン元大統領のみ。ご自分の番となり、直立のままお口でご聖体をいただいたヂスカアルデスタンさまなのでした、まる


フランソワ・フィヨンは手で拝領してた。


オランド、ヴァルス、サルコぢは(カトリックヲールドにおいて)重婚ゆえ聖体拝領しないもんね。


ブツブツブツ・・・・やめとこw

ごミサの閉祭は「サルヴェ・レジイナ」でしたね。
私のような小汚なく薄汚い霊魂でも天に昇れるような錯覚を覚える聖歌であります。



le 28 juillet 2016, Samson


しっかし、花の都はパリの司教座聖堂は流石です。
何から何までキラキラしてるし、抹香焚いてるし・・・
うらやんぢゃいけねーよ、自分w
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by ma_cocotte | 2016-07-28 15:29 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
練成会の季節
練成会と書いて、「れんせいかい」と読みます。
半月くらい前だったか、私が通っていた耶蘇の修道会が運営する小学校のブログにこの「練成会」が開催されたことが記されていました。正確には「信者練成会」。文章によると、課外授業にあたる特別要理を受けている児童を対象にこの練成会が行われ、今年は東京都内は文京区にあるカテドラルを巡礼、神父様からお話を伺った後、4年生以上の参加者が「ゆるしの秘跡」にあずかったそうです。

と、そういう内容を読みつつ、「練成会、れんせいかい」という響きに懐かしさを覚えました。
前出の耶蘇の修道会が運営するガッコに計14年通いはしたものの、カトリック信者でも求道者(=洗礼を受けることを希望する者)でもない私には課外授業である要理の存在も、内容も知らないままで過ごし、たまたまその14年の間に私個人が信者や求道者の同級生と関わったことで「練成会」なるイヴェントがあることを知りました。確か高校の時だったか、貸し布団屋さんで布団を借りて学園に数日泊まりこんでの「練成会」があったと記憶しています。そして、この小学校での「日帰り一日練成会」ね。

練成会の記事を読み、フェイスブックの友人たちに練成会についての思い出があるかどうか質問したら、なんとヨソの耶蘇修道会運営の女学校では信者でも求道者でもない全生徒が「練成会」に参加していたことを知りました。うむ、「公、一、聖」の耶蘇でもいろんな応用やスタイルがあるものだとあらためて知った次第。

そこで、昨日からポーランドはクラコフで始まったヲールド・ユース・デイ World Youth Day ですわな。略称WYDで、仏蘭西語だとJMJ、伊太利亜語だとGMGの略語になります。

これ、思うに地球上のカトちゃんの青少年が一同に集い行う「練成会」みたいなもんですなあ。
日程の間に要理のお勉強に参加する義務があるし、参加者のうち信者には「ゆるしの秘跡」にあずからねばならないし、随行しているどエラい身分の方々を含めて聖職者方にはミサをささげるだけでなく、そのゆるしの秘跡なるもので聴罪するという義務が発生するからです。カトリックの聖務日課と信心業を基本にした日程なので、カトリック色が濃い。その日課や信心行の合間にはもちろんイマドキの若いもんが好みそうなイヴェントをまぶしてあるにしても、そこはカトリックの小世界です。ミサ以外の聖務日課やら聖体賛美式もあるし、小巡礼もある。グループによっては内省や静粛の時間も毎日、会期中にある。だから、カトリックのトラディショナリストであっても日常に比べると「濃い数日」を過ごすことになります。まあ、今の時代の「カトリック包括世界」の表れのひとつがワールドユースデイなのかもしれません。

上に述べた東京の小学生の日帰り練成会が基本で、それを数日間にわたり実行するのがワールド・ユース・デイだわさ。毎日、ミサにあずかり、要理の授業があり、告解の義務が発生となると未信者の参加自由とは銘打っていても、求道者なりある程度のカトリック世界への理解がないと「たいくつな数日」を過ごすことになってしまいますし、なんらカトリックの教えに興味ない青少年が集って、ご自身が心酔する思想を会期中に寝食共にするひとに語られてもねぇ。互いのために改善は難しいのが現実でありんす。もし耶蘇校時代の若かった私がWYDに参加したとしても「悪魔の子」だわね。間違いなくミサや告解のおサボりを勧めていたもの。

21世紀の今、ヴァチカンを頂点としたカトリック教゛会にも教区だけでなく、修道会もあれば、世俗主体の共同体も多々あるので、その中には固有の要理を教える団体もあると漏れ聞いたことがあります。今回もポーランドに集った団体には聖霊主義に近いグループもいれば、ヨハネ23典礼や背面のパウロ6典礼を守っているグループもあります。だから、例えば地元教区に参加の青少年や司祭、家族も会期中は必ずしもずっと一緒というわけではなく、要理の時間にはそれぞれの団体のクラスに分かれてもいるそうです。まあ、もちろん未信者向けの要理クラスもひとつや二ツや三つ、四つとあって当たり前だのクラッカーではありますが。

いずれにせよ、日本人ならば多くの方の思い出に残る夏の林間学校や海浜学校、冬のスキースクールのごとく、WYDに参加することで「良い思い出」を作り、「善い未来へのきっかけ」を見つけられればこれ、さいわいでありますな。それは、青少年だけでなく、司祭方や修道者方にも言えることですが。

WYD開催初日に、かつては「カトリックの長女国」と渾名された仏蘭西という国でカトリック司祭が聖堂の祭壇で祭服をお召しのまま他人によって絶命させられるという信じがたい事件がありましたけれど、昨日から飛び交っているように「この世のカトリック教会にとって武器は祈りと兄弟愛である」し、「神は我々に互いを殺せとは命じない」のです。今のような世の中で、この意見にそう簡単には頷かないひと、反論をするひとはゴマンと存在するでしょうし、もしこの意見にうなずくにしても退屈な屁理屈に思えるほどの理由が実はカトリックにはあるわけです(歴史上の過去の、カトリック教会の愚かな言動についての反省も含めてです)。

そして、深く考えずに同意するのも、深く考えに考えて「そうだよね」と思うのも、個人の自由です。

私たちの「思考する喜び」を、地球のほうぼうからポーランドに集まったひとびとのひとりでも多くが会期中に覚え、そして、会期中最後のごミサの派遣をもって、再び地球のほうぼうに戻り、それを他者に伝えられますように。


le 27 juillet 2016, Nathalie



余談、きょうびカトリック教゛会には YouCat という青少年向けの要理本(なんて通じないか、カテキズム本)が存在し、和訳も既に販売されています。目に痛いくらいの黄色い表紙の本だし、中を見ればなんだか安っぽい日本語会話で構成されている感じ。正直、私個人はあまり好きになれない「軽い本」ですが、もちろんカテキズムについてはぶ厚く重く文章も重厚な和訳本もあるし、コンペンディウムという要理要約本もオトナ向けにあるので、誰もが相性の善い本を選ぶ自由もござるです。私は脳みそツルツルのパーなんで、私にとって最も相性がいいのはコンペンディウム(ベニン版)です。軽いし、もっと深く知りたければ、分厚い要理本の番号も掲載されている便利本でござあます。てか、分厚い本は高過ぎクンなので、図書館で立ち読みに限る(何語であっても番号は世界共通です)。
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by ma_cocotte | 2016-07-27 18:03 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
いかなる神も我々に「互いに殺しあえ」とは命じられない。
« Aucun Dieu ne peut nous demander de nous entre-tuer »

本当にそうよね・・・と、昨日午前にノルマンディーはルーアン近郊の教会で起こった蛮行から一夜明け、この記事の見出しを読み、うなずくばかりでした。

話が昨日のエントリーと重複しますが、昨日午前の事件は午前9時45分(正確には午前9時43分だったらしい)にサンテティエンヌデュルゥヴレイ Saint-Étienne-du-Rouvray という名の町のカトリック教会の小聖堂で朝ミサが始まると同時に容疑者二人がアラビア語を叫びながら飛び込んで来たらしい。日本語の新聞に教会に立て篭もり、篭城という表現が散見されますが、午前10時30分に容疑者二名は警官隊により射殺されているので、わずか45分ほどの間の出来事だったと思われます。

この9時45分から開祭された朝ミサですが、亡くなられたヂャック・アメル Jacques Hamel 神父様は午前9時半に聖堂の扉を開いたそうです。だとすると、ミサ開祭の準備のため、神父様は香部屋に入られ、祭服をお召しになるなどの準備に入られたと思います。昨日の朝ミサの参列者は隣(それとも近所?)の修道院に住む修道女お二人 3人と世俗さん2名、つまり神父様を含め計 六名が小聖堂に集っていました。おそらくですが、修道女方も午前9時半の開扉とほぼ同時に教会に入り、ミサのために祭壇周囲の準備をお手伝いなさっていたのではないでしょうか。
兎に角、そのお二人 3人の修道女のうちのひとり(昨日は心理学士との面談治療を理由に名を伏せていましたが、今朝になってSr. Danielle 、ダニエル修道女と名前が明らかになり、証言のビデオ も掲載されています)の証言から、ミサ開祭と同時にアラビア語で何かを叫びながら刀を振りかざした男性二人が小聖堂に駆け込み、(シスターが小聖堂を離れるために祭壇に背を向けた時には)彼らが既に神父様に蛮行を始めていたそうです。

昨日のこの事件で神父様は頚動脈を刀で切られ絶命。もうひとり、同様に首に刀をあてられて危篤に陥っている人物がいます。おそらく、世俗さん二人のうちのひとりで、女性ではなく男性だと想像します。昨日の時点で、私はこの推察から小聖堂にいた女性3人はいち早く教会の外に出されたのではないかと思いましたが、今朝の報道だと教会からいち早く逃げたのはSr. Danielle おひとりで、他の3名 四名(うちひとりは現在危篤)は小聖堂に残っていたようです。

そして、問題は午前10時半の、警官隊による容疑者二名の射殺が「どこであったのか」という点。わかるひとにしかわからない感覚かもしれませんが、どんな宗教でアレ、聖域内で銃撃というのは「あってはならない」わけで、もし万が一、昨日の惨劇の〆が小聖堂だったら「とてつもなくヤな感じ」が心の中に充満します。この「ヤな感じ」を言の葉に表すのは小説家でもないと難しいかもしれません。
が、今朝の報道によりますと、小聖堂に残った人質が前を歩き、彼らに続いて容疑者二人が教会の外に出たところを警官隊により射殺されたのだそうです。この時点が午前10時半丁度ということになりますわな。警察にはもちろんただひとり聖堂から出られたダニエル修道女がすぐに通報したので、それは午前10時より前でしょうね。そして、30分後に射殺となる。

うむ。

昨日の私はこの事件にぢわぢわとショックをもらいました。
第一報を知った直後は、私の共和国寄留生活でお世話になっている神父様方のお顔を次々と思い出しました。神父様方は皆、昨日、殉教(=実際に電脳内の仏語世界では神父様が21世紀のカトリック殉教者だと騒ぎ始めています)された神父様と同じく、小教区の普通の教会を任され、隣接する司祭館におひとりで住んでいらっしゃるケースが多いです。司祭不足の今、以前ならひとつの司祭館に3、4名の司祭が共同生活していたものですが、今はひとり暮らしがフランスでも普通になってしまっています。
そして、朝ミサですが、カトリックには朝ミサ、昼ミサ、夕ミサなどの習慣があり、平日にささげられる場合はたいてい神父様ご本人の聖務日課にも絡んでいることがあり、神父様がひとりぽっちでささげられることもあれば、今回のように世俗さんが出席可能に扉を開く神父様もいます。その場合は小教区のミサ案内に時間は公開されていますからね。おそらく容疑者のひとりは地元のニンゲンなので知っていたのではないかなあ。

そう、容疑者二人のうちひとりのアイデンティティが公開されたのですよ。もうひとりのアイデンティティは未発表。
アデル・ケルミシュ Adel Kermiche という19歳の青年で、現在、両親はこの町に在住。アデル本人は1997年3月25日にモン・サンテニャン Mont-Saint-Aignan というルーアンの北方の町で生まれました。事件があったサンテティエンヌデュルゥヴレイ Saint-Étienne-du-Rouvray はルーアンを挟んで反対、ルーアンの南に位置する町です。19歳の若さながらこれまで2度、イスラム国亡命に失敗し、平日午前のみの外出以外、家族の監視下にあるという条件で生活していたそうで、身体の足だか手に24時間監視の輪っかがくっつけられていたとのこと。なんか犬みたいでヤだなあと思いましたが、彼ら二人は爆弾と称してアルミホイルにくるんだ何かを聖堂に持ち込み、聖堂内の5名を威嚇したそうです。

出たな、アルミホイル。

この話題は一年以上前になりますか、地中海側で妊娠を装った女性の膨らんだお腹にアルミホイルでくるんだ爆弾を発見したという事件があり、その時にアルミホイルにくるまれた爆弾は監視システムに引っかからないという話が飛び交ったのです。おそらくイスラム国支援者の間でこれが信じられているンですな。なるほど。

昨日は遅くになって、サンテティエンヌデュルゥヴレイ Saint-Étienne-du-Rouvray にあるモスクのイマムが「最高の友を失った」と涙に明け暮れているという記事を読み、同情に堪えませんでした。そして、たった二週間前にお子さんの洗礼を神父様に授けていただいたばかりの家族の証言や涙に暮れる町長さんのインタビュウやら・・・・目頭熱くなってしまいました。

電脳においてイスラム国の拠点がどこにあるのか私は存じませんが、ヨソの宗教の聖域に土足で入り、聖職者殺害の蛮行をなぜ今、命じたのか? それが本当に気になるところです。

フランスの庶民(おそらく地方に生きる庶民)の間では今世紀中に「市民戦争(内戦)がある」という話題が繰り返されており、もしそうなった時に(敵が異教徒であれ、共産党であれ)最初の犠牲になるのはカトリック聖職者であり、続くは修道者だと言われていたので、カトリック聖職者の中には既にそれなりの覚悟をもって日々を祈り生きていらっしゃる方もいます。そういう覚悟を表明せずとも、今回のこのような事件が実現してしまうと、これは市民戦争勃発への引き金が引かれたような錯覚を覚えたりもします。事実、カトリック教会がいくら武器は祈りと兄弟愛のみと繰り返したところで、政治家からは好戦的発言が見え隠れし始めてもいます。

イスラム国の世界には私たち員数外には理解しがたい思考があり、昨日の事件で彼らの兵士二人は射殺という結果に終わり、私たちならば「大事な兵士を二人失った」となりますが、彼らにとっては「我々の兵士は天国に直行し、今は天国で全ての欲求が満たされしあわせである」となります。そして、彼らにとってイスラムに改宗しない「愚かな異教徒」の首を切って絶命させたことはとてつもない「成功」であり、「賞賛される行い」です。つまり、昨日の事件はイスラム国にとっては「成功」ですから、今後、同様の事件が続く可能性があります。

華々しい大都市ではなく、
地方の、田舎の教会での蛮行ですよ。

そんなこと、大都市だろうが田舎だろうがあってはなりません。

でも、現実においては警備の甘ったるい、田舎の教会を守っている神父様、そこに通うひとびとが危険にさらされていることになります。昨日の事件を境に、世界のどこであれ、私たちは恐ろしい時に突入してしまったように思います。エルサレムで大変なことが起こりませんように。(ロオマは二の次だべ)


le 27 juillet 2016, Aurèle




タイトルの話になるけれど、自分を崇めないひとを「殺せ」と命じる神ってアタマおかしいとちゃいますか?

あたしもヒトのこと言えないけれど、聖典だか啓典を見たところで読んではおらず、加えて読解力に問題がある。
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by ma_cocotte | 2016-07-27 16:58 | actualite 現時点の現場から | Comments(0)
我々の武器は「祈り」と「兄弟愛」のみである。
L’Eglise catholique ne peut prendre d’autres armes que la prière et la fraternité entre les hommes.

きょう2016年7月26日はポーランドのクラコフという地方都市で世界中から青少年が集うカトリックの一大イヴェント World Youth Day (略称WYD、仏語略称はJMJ)の開催初日です。仏蘭西という国では元はカトリック国境国ではありましたが、近年の共和国民におけるカトリック信徒率は5割強でイイとこ。そんな現実であっても、きょうから始まる大レースぢゃなくて大イヴェントについて地上波の、普通のニュウスで3番目に紹介されるのだから、カトリックもまだ仏蘭西において捨てたもんぢゃないのかもしんない、と思った矢先に悲惨なニュウスが私の目や耳に入ってきました。

それはお昼少し手前で、どういうわけかマルセイユの地方新聞La Provence のFacebook向けの速報によるものでした。事件はノルマンディー地方のルーアンという都市(ジャンヌ・ダルクが火あぶりの刑に処せられた都市だったかな)の近郊の小さな町サンテティエンヌデュルゥヴレイ Saint-Étienne-du-Rouvray のカトリック教会聖堂に2名の賊が入り、司祭が殺害され、2名の賊は午前10時半に警官隊により絶命されたとのこと。

と、ココまでの報道を読んだところで私は外出。
きょうは火曜日だし、朝に聖堂に飛び込んだところでなぜ神父様が聖堂内にいらしたのだろう?もしかして賊は司祭館に入ったのか?それとも朝ミサだったのかな?などなど思いつつ、日頃、お世話になっている神父様方のお顔を思い出し、とてつもない不安に襲われました。

そして、私は午後2時頃に帰宅し、ニュウス専門チャンネルを見ると、もちろん報道はかなり詳細に進んでいました。案の定、賊は朝ミサがささげられている最中の聖堂を襲い、司式していた84歳になる司祭(ヂャック・アメル Jacques Hamel 師)の首を刀でかっさばいて殺害(一部の日本語の新聞に犠牲となった司祭に「司教」と冠していますが、彼は司教でも、引退司教でもありません)、もうひとり人質となった人物は現在危篤とのことで、この方も神父様と同じく首を切られたらしいです。
そして、賊二人はイスラム国の構成員(この事実は外れて欲しかったです)。
フランソワ・オランド大統領とカズヌウヴ内務大臣がパリから現場にかけつけ・・・現在進行形・・・ですかね。

やっぱり朝ミサの最中だったんだ。
彼らは「アッラー、アクバル」と大声をあげながら刀をふりかざして聖堂内に突入したそうです。

以下、あくまでも私見ですが、市民戦争への引き金が引かれてしまったような気がしてなりません。
というのも、あのイスラエルだろうと、米国だろうと、仏蘭西だろうと、ありとあらゆる宗教の聖所、つまり礼拝所、祈祷所に異教徒が互いに土足で踏み込まないことで「平和を保つ保障」になっていると思うからです。日本びとにとって難しいかもしれませんが、ニースの事件にしろ、シャルリ・エブドの事件にしろ、バタクラン劇場にしろ「聖所」とは異なるのです。ところが、きょうのように、イスラム国につながる人物(おそらくイスラム原理教条過激主義者)が異教(この場合、キリスト教カトリック)の聖所に、しかもミサという神を賛美する儀式の最中にズカズカと入り込み、儀式を中断させ、儀式を司っていた人物を死に至らしめたことになります。

簡単に表すならば「タブーに触った」でしょうかねぇ。
瞬時に塩になっちゃうような取り返しのつかない恐ろしさを覚えます。
これ、いかがなものでしょう?
彼らがやっても、あたしはぜったいやらない。
としか思い浮かびません。他人様が必死に祈っているところを邪魔する気にはなれませんぜ。神社仏閣教会でなくても、家庭でだってお仏壇や神棚に手を合わせている家族をそっとしておくのが互いの思いやりではありませんか?

が、しかし、こんな私が猛烈に不安を覚えることは原理教条過激思想者はイスラームに限らず、キリスト教にだって一定数、存在するわけです(もちろんユダヤにも存在する)。今回のこの事件を境に、そういうキリスト教のパーが共和国内のイスラムの祈祷所(モスクなど)に報復したらとんでもない未来が発生することになります。どこぞの国と同じように過去にカトリックが国教であったことを悪用する政党や政治家ももちろん仏蘭西にだって存在するわけで。

仏蘭西のカトリック中央協議会からは既に「我々の武器は人類における祈りと兄弟愛以外にない」と発表があり、これはどんな挑発があってもカトリック教会は武力、暴力で応じることはないという表明にあたると思います。


今も分刻みで新しい情報がテレビ画面で見聞できますが、こうして仏蘭西の超ウルトラスーパーど田舎に住むガイジンの私がぼんやり思うことは、こうしてノルマンディーのルーアン(ココんちから車で約4時間ちょい)の、旧市街ではなく市街地の普通の、たいしたものが何もない町の教会でこんなことが発生してしまい、しかも実行犯は死亡したとはいえ、異教徒の殺害に成功したという事実になってしまうと、共和国内のあちらこちらに潜伏する彼らが次々と彼らの地元で実行を始めるのではないかということです。

前も書いたけれど、移民や難民の出が多いイスラムを生活信条とするひとびとにとってパリもニュウヨオクも東京も「違いがわからない」に等しいのです。彼らの特徴は自分の知っている範囲で大中小が決まるから、わざわざ上京して犯行などしません。身近で実行する。パリはパリ近郊に住むひとに任せりゃいいんです。オレさまは地元で決行、自爆して、天国に行くぜ・・・なんでしょうけれどね。

現時点では犯人さんは現場で死んでしまい(って、聖堂内で殺害されたのだとしたらそんなことあっちゃいけねーわけですよ)、今頃犯人のお二人さんは天国で70数名の美女といちゃついているのでなぜ今日決起したのか理由を伺い知ることも部外者にはできませんが、もしかしたら犯人たちは今日から「カトリックで大きな集会がある」から自分たちの知っている地理上の範囲内にあるカトリック教会に突入したのではないでしょうかね?

だとすると、ココんちの近所の小教区だってヤバいです・・・。
自警団結成かなあ・・・。


le 26 juillet 2016, Anne et Joachim




彼らは金曜日でなければ、異教徒の祝祭日にやらかすってことだな、こりゃ。Bof


【追 記】
朝ミサは午前9時45分から教会内の小聖堂で開祭だったらしい。
司式は殺害された司祭おひとりで、参列者が教会の隣の修道院に住む修道女2名と二人の世俗さん、計5名が小聖堂にいたとのこと。思うに、神父様と世俗さんのうちのひとりが男性で、このお二人が頚動脈を刀で切られたのではないでしょうか。(あくまでも仮説ですが)シスターお二人と世俗さんの女性3名が(さいわいにも)小聖堂から退出できた?
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by ma_cocotte | 2016-07-26 22:19 | actualite 現時点の現場から | Comments(0)
だから、金曜はダメよ。
金曜日のお昼あたり以降、大都市においてユダヤん商業地区や欧米人が嬉々と集いそうな公衆には今しばらく近づかない方がいいです。金曜日の午前中に祈祷を終えた原理教条過激なミュヂュルマンがぴちぴちと爆弾背負って飛び交うからです。

しばしばカトリックの御方々が主日のごミサの後、「チカラを得た」かのご発言をなさるものですが、ミュヂュルマンにとって金曜の祈祷後の心境はまさにそれに等しいものがあります。チカラを得るなり自爆するのも員数外の私には納得行きませんが、殉教すれば天国直行で70数名もの絶世の美女と交われるのですから祈祷ででヴぉおしゃんし得たチカラをもって天に昇華する「我こそは美しい」ンですかねぇ。

昨日の私は夜9時過ぎてニュウス専門チャンネルを見たところで独逸はミューニッヒ(ミュンヘンのこってす)の惨事を知りました。一夜明けて、遅ればせながら実行犯が18歳のイラン系ドイツ人(ドイツ系イラン人という表記も飛び交っていますが)の青年であり、既に自殺済みであることも知りました。彼は今頃天国で70数名もの美女といちゃついているのでしょうか・・・。

昨日の時点で私個人はイスラムとはまったく関係のない欧州の白いヒトによる犯罪ではないかとも想像していたのに、なんだかな、これぢゃ、週に一度のペースでイスラミストが関わる犯罪があっちこっちで「ある」ではありませんか。来週はココんちあたりなんてことになりませんように。

超ウルトラスーパーど田舎に住んでいても凶悪なテロ犯罪はパリや大都市で起こるのであってウチのあたりはたいちょぷなんて言えませんからね。だって、そういう私たちの地理感覚を彼らの多くは持ち合わせていません。自分の身近で「実現、実行」ですよ。Bof ニュウヨオクの写真を見せて「これがパリ」と言っても信じてくれるし、エッフェル塔の写真を見せて東京タワーだと嘘ついても信じてくれるもんです。そういう無知を互いに善に生かすのであれば善しか生まれないけれど、そういう無知を悪く扱うのであればいずれとんでもないことが起こる。それは地球上のどこであってもそうなんです。

兎に角、しばらくは金曜日の自らの行動に重々注意するにこしたこたあありません。

止めることなく「地には善意のひとに平和あれ」と祈り続けます。



le 23 juillet 2016, Brigitte

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by ma_cocotte | 2016-07-23 20:34 | 『?』なミュぢゅるマン | Comments(2)
大英帝國、恋しや、ほーやれほぃ
今の時季、いつもにも増してココんちあたりには大英帝國びとが増えるせいか、先日、地元のスゥパァマルシェでかようなお菓子を見つけたンざます。
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McVitie's Ginger Nuts


McVitie's の文字を見れば、ニフォンで生まれ育ったおば(あ)さんはオートマティックに「やんっやーや、まくヴぃてぃ」のCMソングの鼻歌が出てしまうものです。もちろん定番のダイヂェスティヴビスキッツやチョコレエトがべっとり乗っかったボソボソビスキッツも目にしましたが、それに比べると地味な包み紙のこの「ジンジャアナッツ」、気になるではありませんか。

早速こうして手に入れていただいてみると、うみゃっ、うみゃすぎる。
ひと口噛むなり(・・・と文字では簡単に書きましたが、かなり硬いです)、強烈な生姜の味とほんのりとピーナツらしきナッツの味、そして後味にレモンが来る・・・という感じです。レモンはおそらく隠し味で含まれているのではないかしら?

この硬さならばおフランス式に飲み物に浸していただくとしても崩れ落ち難いです。

そして、なにより、英国風にいれた濃いコーヒーにも紅茶にも、あう。

あまりの生姜のキツさに食べ終えても口腔内が生姜臭が残るので、濃いコーヒーや紅茶をいただくことで口腔内の臭いを流し込む感じでしょうか。
ちょいとあたしにはこのマクヴィティ社のジンジャアナッツビスキッツ、この夏の大ヒット商品となりました。


le 22 juillet 2016, Marie-Magdeleine

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by ma_cocotte | 2016-07-22 16:58 | The ou Cafe? | Comments(0)