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これまでの30年、これからの30年
そうそうそう、思い出しました。
22日の日。
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陽光に当たり、そよ風に吹かれながら、麦酒を気分良くいただいている時にふと腕時計を見たら、何かおかしいことに気づいたのです。

時計はきちんと動いているのですが、何せ時計盤に分刻がないと好きになれない私なので、些細なことだけれどもんここに「今、何時?きょうは何日だっけ?」と質問。時計が正しい時刻をさしていることに安心して、龍頭を巻いたら、龍頭がきつく閉まらないのです。あれ?今朝、時刻と暦を合わせた時は龍頭はゆるくもなり、閉まりもしたのに・・・と、ここで30年近く愛用の自動巻き腕時計が壊れているのではないか?ということに気づきました。自動巻きなので電池要らずのマイ腕時計、この30年近くまったくの異常無しで、初めて私にSOSを示したことになります。

食事の帰り道に旧市街の時計屋さんに持参し、龍頭がおさまらないことを話しましたら、これは本社工場に送って全点検ですね、とヒトで言うところの入院を宣告されてしまいました。すぐさま、見積もりを伺ったら、なんと、450ユーロくらいではないですかねぇ、と涼やかなお返事。どへ、あんた、そりゃ、新しい腕時計一本買うより高いでよ!と貧困に加え、超ウルトラスーパーどけちの性(さが)を持つ私の心の声が怒髪天突いたンですが、お店の方が「ですが、奥さん、新品状態で戻ってきますよ。今まで30年故障知らずならば今後30年故障知らずです」と。

・・・あーた、お商売上手ね...

と、口に出さずに心ン中でつぶやきつつ、とり合えず正確な修理費用が本社から連絡あるまで委ねることにしました。もちろんその動作中、私の脳内は450ユーロを30年で割ったりかけたり、なんぢゃろね、マトリックスの黒字に緑の縦横ビラビラみたいな感じ。麦酒とワインをいただいた後で脳が働いただけでもたいしたもんです。

それが22日で、こんにちは29日。
一週間になりますけれど、未だ旧市街の時計屋さんから何の連絡もありません。
あたしの腕時計、人質に取られたような気分ざます。返せ、こんにゃろめ。



・・・・って、こういうネタ、10年くらい前だったら「ヂャウ・ハランバン夫人」シリーズでエントリーしたよね、なんてことを思い出した。思い出せたことも奇跡だな。


le 29 septembre 2016, Michel

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by ma_cocotte | 2016-09-29 16:01 | 『?』なたわ言 | Comments(0)
暦の上では秋なのだけれど、
今年の9月は異常気象だそうで、未だ夏の陽気が共和国内を覆っているのだとか。
確かに先の週末は夏のような暑さでした。

さて、ココんち。
毎年9月の第三週あたりにココんちのスペシアルウヰークがございまして、それは22日の結婚記念日と翌23日のもんここの誕生日を含む週を指します。今年は22日が木曜日、23日が金曜日。特に22日はわれわれの市民婚から15周年。

だからと言って、例年を超越するほどの贅沢はできませんでしたが、ココ新天地に引っ越してから10年となりわれわれが気になっているお店に今年も寄らせていただきやした。と、ここで、お天気。冒頭に書き散らかしたとおり、今年は異常気象で未だ夏のようであることからか、例年ならば室内の席に通されるのに、今年はいずれもテラス席に案内されました。

22日のお店。
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23日のお店。
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お食事を待つ間、造園をぼんやり眺めては「私もああしたい、こうしたい」とばかり脳内で妄想。同じ造園はできなくても、たくさんのヒントをいただきました。

兎にも角にも、どちらでも、青空の下、そよ風に吹かれながら、晩夏のひと時を過ごすことができました。去っていく夏、名残惜しいざます。


le 28 septembre 2016, Venceslas

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by ma_cocotte | 2016-09-28 14:55 | 『秋』 Rien de special | Comments(2)
慰めを求める道
今日の午前中、Hommage national aux victimes du terrorisme と言う「テロリストの犠牲者についての追悼式典」がパリのアンヴァリドで行われました。



230名もの、共和国内で発生した複数のテロ事件の犠牲者の名前が読み上げられましたが、その中にはもちろんイスラムに由来する名前を持つ方が多々おり、あらためてテロというものは無差別殺人、殺戮なのだと実感しました。

この式典が今日行われることで、今日は朝から繰り返しニュウスのたびにこのことと、7月14日にテロがあったニースにおける近況が紹介されました。ニースの現場周辺で涙するひとびとの様子を見た限り、いくつかの市町村長が海岸でのブルキニ着用を禁じたのは仕方なかったのかもしれないと思いました。日本人は感情を抑えながらの喜怒哀楽を表す傾向がありますが、欧州人の多くはどちらかというと感情を明らかにする言動があるように思えます。今日の朝の報道を眺めていても、海や道路、ろうそくの火を見ただけで泣き崩れるひとがかなりいて、これぢゃ、ブルキニ姿を見ただけで吐き気を催したり、卒倒するひとがいるかもしれないことが容易に想像できました。

だからと言って、私は「ブルキニ着用禁止」には反対の立場ですけれどね。

お昼のニュウスで、ニースの事件で犠牲となったモロッコ系のムスリマ女性の遺族(=もちろんイスラム教徒)が近々、ヴァチカンまで教皇に会いに行くと紹介されてもいました。「慰めてくれるひと」を求める気持は宗教を超えたヒトとしての素朴な感情だと思います。イスラム原理教条過激派の連中からすれば、イスラム教徒が恐怖によって自分たちに従うのではなく、自分たちの宿敵の長上に慰めを求めたというのは激怒に値すると想像もしますが、これこそまさに真理ではないでしょうか。

フランスでは先週からひと雨ごとに気温が下がり始めてもいますから、ブルキニのスキャンダルも下火傾向にあると思います。まったくイスラム生活文化や信者さんに関わりのない方々からすれば、ブルキニでネガティヴな興奮を覚えたことも仕方のない今年の夏でした。どうか来年の夏までに悲しみや憎しみが小さくなりますように。

もし自分が大統領に選ばれたらブルキニ着用を禁止する、と断言したサルコぢと言う人物はまったくイスラム生活文化や信者さんに関わりない方なのかもしれません。←イヤミよ、Bof



le 19 septembre 2016, Emilie

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by ma_cocotte | 2016-09-19 20:19 | actualite 現時点の現場から | Comments(0)
おひさしぶりに、ふぉんごんぼ
前回の訪問から8か月とちょいになりますか。
男子ベネディクト会のフォンゴンボ大修道院 L'Abbaye Notre Dame de Fontgombault に行ってまいりました。
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兎にも角にも山中の秘境と呼んでよいような場所にぽつーんとあるので、前回は道を迷いに迷い、ココんちからフォンゴンボに辿り着くまで車で3時間強となりましたが、今回は前回の反省も踏まえ、道程を再検証。ココんちから二時間弱でフォンゴンボの門を通り抜けることができました。でおぐらしあす。

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ココの聖堂では毎日午前十時からごミサがささげられています。
典礼はパウロ六世典礼ではなくヨハネ23典礼です。典礼文は全文ラテン語です。そして、なんと聖書朗読もラテン語でした。これには驚いたなあ、もう。私が今まであずかったヨハネ23典礼ミサは典礼文が全文ラテン語でも、聖書朗読はフランス語でしたから。


ごミサの後は周囲のマダム方の真似をして、食料品をゲット。
初心者のあたくしはチーズを買ってみました。
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すこぶる美味でした。


le 15 septembre 2016, Dolorès

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by ma_cocotte | 2016-09-15 16:08 | 『巡礼』 Rien de special | Comments(0)
夏の最後にブルキニ水着のお話
9月も1/3を過ぎたと言うのに、まだ共和国内には酷暑の波が西から東に繰り返し動いてもおり、日替わりとは言え、或る日は大西洋岸で35度超え、別の日には地中海側で35度超えの状態が続いています。

共和国の市井においては9月に入ったことで、ほとんどのひとびとは職場、学校に戻り、新年度の様子に慣れつつあります。

が、冒頭に書きなぐったような気象であるため、週末に海岸を冷やかしに行くひとは多いです。そういう状況で今思い出すのは先月、共和国内で騒がれ、国際配信までされちゃったブルキニというムスリマが公衆海水浴場やプールで着用する水着についての話題です。確か私の記憶が確かならば地中海側の海水浴場に面するいくつかの市町村でブルキニの着用を禁じる令が出たとか。それについてもちろん人権団体諸々が人種差別や不平等をあげて抗議しました。8月末の時点で、カズヌーブ内相は多くのムスリマが着用する全身を覆うブルキニ水着の着用を共和国内で禁止することは違憲かつ無効であり、法制化されれば取り返しのつかない緊張をもたらすとの考えを示しもしました。

この件については先月26日に共和国の最高裁判所にあたる国務院がブルキニ着用禁止を凍結する決定を下しましたが、ココでは何の因果か仏蘭西共和国に長期滞在中の日本人である私の印象をつぶやかせていただきます。

内相やら国務院など三角形の頂点方面のアタマが良くてエラいひとびとは横に置いて、ガイジンであり、日本婦女子の私が眺めているかぎり、これまで仏蘭西の、特に地中海沿岸で当たり前である海水浴場での女性の上半身または全身のすっぽんぽんを目にするよりブルキニ着用の女性の方が傍観者としてハラハラしません。私のように肌や皮膚が弱い者にはむしろブルキニをまとってみたいほどです。(註:全身のすっぽんぽんはマルセイユあたりのカランクならば朝一番で全身スッポンポンが泳ぎ始めたら、そのカランクは一日全身スッポンポンの溜り場になります。法なんぞ「なにそれ?」の域の人種ですけれどね。そんなもんですよ。)ついでに、仏蘭西国内で販売されている水着には裏地がありませんし、胸にカップもついていません。生地そのものもかなり薄いです。こんな素材だからつけても、つけていなくても同じという考えになり、すっぽんぽーんになるのでしょうかね。もちろん肩や胸に水着の跡を残さず真っ黒けになりたいというセンスも存じておりますよ。

そうかと言って、今年7月14日の終わりにニースでトラック暴走による無差別殺人があったことを忘れてはならず、今年のヴァカンス中に起こった事件でもあるから、事件直後に犠牲者や当事者でなくても(残念ながら)ブルキニを見ると同時にパニックに陥るひとびとが存在しても不思議ではないし、そういう弱っているひとびとへの刺激をなんらかの方法で止めたいという気持が「ブルキニ着用禁止」という安直な言動に出たのかもしれません。この安直な言動については賛成しかねますが、ああいう恐ろしいテロの直後にパニックなどに陥るひとびとへの同情は私にも強くあります。

ですが、しかし、どちらでもない立場の私の正直で素直な気持は誰にとっても楽しく穏やかなヴァカンスを過ごしてほしいということ。
イスラームの生活慣習において、公衆において男性は男性だけ、女性は女性だけで行動するということも私は知っているし、それについて批判もしません。未成年というか中学入学前までの男児、女児は性別に関係なく公衆では母親と一緒にいることが多いです。しかも、ムスリマのママンはまるでイタリアのマンマのように子供に愛情深いことが常なので、どんな装束であれ、ムスリマの母子が海水浴場で楽しく夏を過ごすことは権利だと思います。でも、その様子を偶然見て、ニースの惨劇がフラッシュバックしてつらく苦しい思いを発するヒトもいるとなると・・・。

私見による愚案に過ぎませんが、ブルキニ禁止という極端な決まりを発するのではなく、しばらくの間は海岸を「ブルキニを見たくないヒト向け」「ブルキニ着用者向け」「そんなのどっちでもかまわないで仲良く楽しみましょうよ向け」の3分割するしかないのでは?と私は発想しました。ところが、こういうことを口にすると仏蘭西という国では「それはコミュノタリズムにつながる」とか反論してくるひとがいるわけです。私個人はコミュノタリズムを100%否定する立場ではないので、どうにもコミュノタリズムの単語を出してヒステリーに他人をぶった切るひとびとがパーに見えて仕方ないのです。が、今年の夏はある意味、ニースのテロ、ノルマンディの教会テロ発生など緊急状態のうちだっただけに、第三者のしらけた目線での白でも黒でもない灰色の案が、万民に平らに等しい判断なのではないかと思います。一方の思いを重んじるあまり、他方の、この場合、ブルキニを着る女性たちに水浴の我慢をさせたり、子供たちに喜びを与える母親としての義務を怠らせることを市町村の上長が命じるって私にはキチガイ沙汰に思えます。気の毒ですよ、善良なムスリム、ムスリマさんたちが。

私個人はブルキニより上半身や全身のすっぽんぽんをなんとかしてくれ、と思いますよ。セイウチ、アザラシ、トドみたいなんだもん。あ、言っちゃった。まじめに私にとってはブルキニの方がおしゃれです。日本の海岸でいずれ流行するかもしれません。


le 11 septembre 2016, Théodora



あー、そうだ、書き忘れた←棒読みでどうかひとつ。

例のサルコぢね。
この人物はこのブルキニの件について、
フランス大統領に返り咲いたら
全土でブルキニを禁止する
と8月25日に宣言したのです。彼、アホぢゃありませんね、パーですね。ハンガリー移民の父親とユダヤ人の母親の間に仏蘭西で生まれた移民二世のサルコぢがこういう発言をするとは。大統領、つまり、国父が或る宗教の生活宗旨で生きているひとびとをいぢめているようにしか見えませんけれどね。愚かすぎるぞ、サルコぢ。
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by ma_cocotte | 2016-09-11 16:46 | 『?』な、お!?仏蘭西 | Comments(2)
今年の犠牲祭 イード・アル=アドハー
今朝、メールボックスを覗いたら、外務省関係のお知らせが届いていました。
表題は「注意喚起:犠牲祭期間」。
犠牲祭というのは年に一度行われるイスラームの大切な儀式で、当然イスラーム暦に基づくので、ラマダン同様、年々ずれることになります。今年は来週の9月12日から9月15日頃だそう。「頃」というのがミソだなあと思います。日没をさすのか、それとも16日の夜明けまでをさすのか、ちょっとわからん。

この犠牲祭ですが、イスラームになじみのないヒトにはかなりキツい儀式で、画像検索なんぞ私個人は決して勧めません。もし行うなら、それなりの覚悟をお持ちあそばせ。で、犠牲祭について文章に表すとするならば、外務省からのお知らせを引用するに
イスラム教徒は,神(アッラー)への捧げ物として,
羊,牛,山羊などを屠り,貧しい人々と分け合うことが習慣
となります。この「屠る」行いが元気な動物の頚動脈をナイフで切るスタイルでして、これはもちろん日常のハラルでも同じで、イスラーム教徒はお肉をいただくにしても動物の血を完全に抜くことが義務なのですね。それをこの犠牲祭の間は市井で業者ではなく一般の男性信徒によって行われることになるわけです。

フランス共和国においては新生児の7割がイスラム教徒という話題が数日前にマスコミを飛び交ったこともありますが、そうかと言って、フランスの土壌は未だイスラームに変化し終えていません。ですから、この犠牲祭の知らせで思い出したことは、隣村に住む私の知人宅の隣にイスラーム教徒の方がお住まいで、庭で犠牲祭にささげる羊や山羊を飼育し始め、知人(欧州系の元パリジエンヌ)が困惑していたことです。飼うのは妥協するにしても、隣の庭で動物を屠るのは心理的にキツいと繰り返していました。

うぅうううむ。

そして、もうひとつ思い出したことはイスラーム原理教条過激派の、いわゆるテロリストと呼ばれるひとびとが異教徒の処刑に頚動脈を切る、首を落とすという行為を選ぶのはこの犠牲祭につながるロジックがあるらしいという説。つまり、イスラームとしての人生において大切な犠牲祭で神にささげる動物を上手に屠るために、異教徒を「練習に使う」という感覚です。信じがたいですけれど、彼らにとって「人間のくせにイスラームとして生きられない」人間は神にささげるための動物より「以下」、「低い生き物」なんですね。そういう思考回路はおぞましく思えるのも、自分自身が何の宗教であれ原理教条主義の過激派ではないからです。でお・ぐらあしあす。

兎にも角にも、犠牲祭の期間中にイスラーム原理教条過激派の方々が変な気を起こしませんように。

参ったな・・・ブツブツブツ。


le 8 septembre 2016, Nativité de la Vierge Marie

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by ma_cocotte | 2016-09-08 18:00 | 『?』なミュぢゅるマン | Comments(0)
9月に入って、ぼそぼそぼそ。
私にとって9月 長月は嫌いな月ではありません。
8月の終わりになると9月が待ち遠しくなり、オフコースのI love youや竹内まりやのSeptemberやらEarth Wind and Fire のSeptemberが壊れたジュウクボックスのごとく繰り返し繰り返し鼻歌になって出てくるのが毎年恒例です。

今年の9月を迎えて7日となりましたが、ココんちあたりは今週に入って酷暑のぶり返しです。連日午後になると35度前後ですからアスファルトの温度がどれだけ上昇していることか。犬の散歩もよくよく考えて時間を選ばないと、犬が散歩の途中でおかしくなってしまいます。こんな異常気象を毎日午後遅くなって感じながらも、午前中と来たらかなり涼しく、寒いに限りなく近い体感です。一日の間にこれだけ極端な温度差があるせいか、身体が追いつかないように思います。気をつけなくっちゃね。

と、家の中で避難中の午後。
昨日は「ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子」と「マツコの知らない世界」のおいなりさんを視聴しました。極端な午後だったわw 「ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子」はこの夏のドラマで私個人は1、2位に位置づけです。もうひとつは「伝七捕物帖」だから、甲乙つけられない。そりゃ、よよよい、よよよい、よよよいっよい、めでてぇなあ。いや、ちょっと違うか。兎にも角にも、昨晩は「ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子」の最終回を視聴しつつ、さすがに吐き気をそこはかとなく催しましたがな。映像的には最終回はソレまでに比べりゃ目を背けたくなるようなもんではなかったように思うのですが、なんぢゃろね、台詞にやられての吐き気だったのかなあ?不思議。でも、しっかり最後まで視聴し、それなりの〆だったので、続編やらスピンオフを見たくもなりました。感想として残すならば、脇役さんについてのストーリーのつめが甘かったように思えてしまうのが残念かなあ。中途半端に消えてしまった気がしてなりません。

そして、犬の散歩をしてから、マツコさんのおいなりさん。
私個人においては歴史に残したい回、テーマでした。
今度の里帰りの時にどれだけ紹介されたおいなりさんを味見できるか・・・これが課題だ。と言える位、私はおいなりさんが好きなのでした。

と、以上、どうでもいい話でした。

一日も早く酷暑が去ってほしいです。ほんと、つらいわ。

そうでした、ココんちのいちじく。
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50は軽く実ったものの、小粒のまま熟しません。
酷暑と水不足が災いしているのだと思います。
いくつでも構わないからふっくらと熟してくれるとよいのですが・・・
期待薄いかも。



le 7 septembre 2016, Reine

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by ma_cocotte | 2016-09-07 19:44 | 『夏』 Rien de special | Comments(2)
大聖女の功罪なのかもしれないけれどさ。
昨日は午前十時から仏国営放送総合(France 2)で生中継されたコルコタの(マザー)テレザの列聖式とそれに続く主日ミサを私は毎度のごとく「~ながら視聴」しました。こんぴーたにおいてもYouTubeのヴァチカン公式チャンネルからライヴ中継されていたので便利でした。コレ ↓ ね。デオ・おグラアシアス。


おフランスでは一週前の日曜の午前にマザーテレサの生前についてドキュメンタリー番組が放映され、その翌日からコマアシャルで次の日曜日の午前十時から列聖式生中継放映と繰り返されていたせいか、傍観していると現実でもテレビ画面の中でもどこか多くのひとびとがヒステリー状態になってしまっているのではないかと想像するほどでしたが、こうして列聖式のライヴ中継を見たら、参列者はサンピエトロ広場内に納まっていたので想像より参列した一般人が少ない。現実に目を覚ますことができました。やっぱヴィジュアルって大事だね。聞いただけぢゃ妄想が災いします。

まあ、昨日は「これをもってマザーテレサは聖人になりました、まるっ」程度の締めくくりの心持だったのは私だけではないと思うし、一方で今もって「とうとうマザーテレサは聖人になったのだ」と興奮が冷めないままのひとびとも世界中にたくさんいらっしゃるのだと察します。

昨日はたまたま「マザーテレサ」で検索したらマザーについての批判文書が上位を占めていたのでちょいとヴぃくーりもしましたし、私個人の彼女への冷めた、ドンビキの感覚の理由の根と比べ、その批判が私のソレとはツボ違いに思えたのでちょっと安心したりもしました。

私のようなおば(あ)さんが未成年時にたまたまカトリックミッションスクールに籍を置いたことで、はるか昔のマザーテレサの来日やその後の各国訪問、ノーベル平和賞受賞の前後もライヴで知ってはいました。当時の批判の素は単純に2点だったと記憶しています。それは彼女が集金上手であることと、臨終洗礼がマザーテレサが有名になって以降減ったことです。

集金上手については私としては19世紀の天才がドンボスコなら、20世紀の天才がマザーテレサ程度にしか想像つきません。で、それの何が問題なのかもよくわからん。というのも、きょうび列聖審査や会議には必ず列聖にネガティヴな立場の人物が委員に存在しているので「福者某は金集めに熱心で、祈りに欠けていた。清貧から見ていかがなもんだろ?」と問う者が複数いるわけです。そういう反論者からの意見も含めて最終的に列聖が決定し、教皇がお認めするわけですから、世界に散らばるシモジモがブーブー言い続けるのは愚。意外と列聖認定は「お友達サークルでわいわい」としか概念にないひとびとが列聖について疑いと教会批判を延々と述べまくるのが世の常だったりしますね。

次に臨終洗礼については、むしろこちらの問題の方が「お金集めの天才」の話題より重要なことなのかもしれません。
昔だったら、政教一致の国においては、国民の生から死までカトリックが包括していたわけで、病院で誕生した赤ん坊がすぐ病院内の聖堂で洗礼を受けることも当たり前、孤児院に引き取られた子供が洗礼をすぐ授けられてしまうのも当たり前でした。が、これは「政教一致の、カトリックが国教の国」だからであり、宣教先の異教国の場合はどうなのだろう?と一呼吸置くのが考察する道筋の出始めではないかと思います。

マザーテレサが生涯のほとんどを過ごしたのはインドであり、インドにおいてキリスト教、カトリックはマイナー宗教です。ヒンズー教の生活文化ゆえか、インドは貧富の差が大きい国でもあるので、世界中のキリスト教新旧あらゆる派閥の団体が宣教師をインドに派遣しました。マザーテレサも最初は富裕層の女子を教育する学園に派遣されたカトリックの宣教女のひとりでした。彼女はインドで日常を過ごすことで、インドには「生まれながらに死ぬために存在する階級」が存在することや障がい者として生まれた赤子を捨てる習慣もあることを、インド国内にありながら富に恵まれた学園、修道院を囲む塀から飛び出したことで現実を知り、塀の外の広い世界でそのような枠に追い込まれた弱者たちへの救済の思いがどんどん心の中で強くなり、最後には彼女が奉献生活をしていた修道会から一度出、新たにインド巷の貧困者を救済するための修道女会の設立となったわけです。

日本ではどういう理由、心理なのかマザーが創立した「死を待つ人の家」についてばかりクローズアップされますが、おフランスではなぜか「死を待つ人の家」より路上に置き去りにされた乳幼児、障がい児の施設について強調されることが多いです。

個人的に思うに、ですが、カトリックの慣習からして、もし乳幼児の施設に引き取られた乳幼児や障がい児には洗礼が授けられているでしょうが、死を待つ人の家に引き取られた成人男女には洗礼を必ずしも授けておらず、彼ら本人の意思と意志を引き取った側の施設職員が何より尊重するというベースです。乳幼児と成人を分けて考える。もちろんわれわれがカトリック信者ならば死にゆくひとを前に愛があればあるほど天国に直行してもらいたいから臨終洗礼を授けたくなる気持ちは当然、自然です。が、おそらくマザーテレサの判断は引き取った成人がもし意識清明ならば本人の宗旨を尋ね、そのご本人が信じる宗教を尊重して「死に行く人の死」を見送り、その方のこの世の人生を締めくくられていたのだと思います。これがもし、マザーがご自分の施設に運ばれた死にいくひとびと全員にまず必ず洗礼を授け、洗礼を授けられた者のみが施設の敷居をまたげ、治療をはじめとする恩恵にあずかれるといたならば、ネットで批判をしている人物の数が幾分減ったのかもしれません。(つまり、乳幼児施設で行っているであろうことだけれど、このcan、can、canな文章に吐き気を催すわい。特権の押し付けぢゃんね。)

ここまでの話でもカトリックを知らないとよくわかんない話ですが、さらによくわかんない話を進めると、カトリックにおいて死んだひとの葬儀の形式はたいした問題ではないのです。なぜなら葬式は亡くなった本人とって秘跡ぢゃないんです。でも、ひとの死の前にいただく秘跡は死に行く本人にとってとても重要で、それは今の時代だと「病者の塗油」と呼ばれるもので、一昔前だと死の直前に一度だけ受ける秘跡でした。(余談、ルルドの聖母出現で有名な聖女ベルナデット・スゥビルは危篤時にこの秘跡を受けた後、元気に生還し、この不思議を二度繰り返し、3度目の病者の秘跡をいただいた後、帰天したのでした。これについて二度の生還時にベルナデット本人が笑い話にしていたそうです。)この病者の秘跡には通常、ゆるしの秘跡(告解)と聖体拝領がトッピングされるわけでして、異教国においてはどうしても死に行くひとを見送るために、そのひとが異教徒であるならば先ず臨終洗礼、続いて聖体拝領、告解、病者の塗油で「A Dieu、A Dios」となります。この臨終洗礼について、意外や布教国(=いずれの御時にかカトリックが国教国だったフランスのような国)の教区司祭だと「そんなこと、神学校で教えてもらってませんよ」なんて平気でおっしゃることがあるのが現実でして、司祭であるにもかかわらず彼らの概念に臨終洗礼そのものがまったくなかったりするので、宣教国からフランスはじめカトリックおマヂョリティ国に宣教国から移住しているカトちゃんズはこの点に「お気をつけあそばせ」だったりします。彼らは素直に、ご自分が病院に呼ばれるのは既に幼児洗礼を受けた人物が人生最後の告解、聖体拝領、病者の塗油を司祭であるご自分が司るから、と捉えています。そもそもフランスの公立病院では司祭にこれが許されていても、病室域において入院患者に宣教すること、洗礼を授けることは禁じられているのですから臨終洗礼の概念が植えつけられたところで病院ではそれを実行するのが限りなく難しいとなります。これまた余談ですが、フランスでは年々成人洗礼者数が増加しているという現実があるので、臨終洗礼について教区司祭も知る時期に入っていると思います。死を前にして希望するフランス人はひとりやふたりいることでしょうし。もちろん毛嫌いし、神やらカトリックについて口汚い言葉を止めずに息絶えるフランス人も何百人、何千人と存在します。

で、話戻って、インドにおいて、マザーテレサが引き取った死に向かっているひとびとに臨終洗礼を授けなかったことについて私個人はそれでいいのではないかなあと思います。ご本人が望んでいないのに無理に水をぶっかけてもねぇ。ですが、もし自分と血がつながっているひとで、ほうぼうのカトリック信者さんから「臨終洗礼を授けた方がいい。これは特例だから世俗のあなたが授けてもかまわないのよ」とルルドの水が入ったプラスチック壜を握り締めさせられたら、自分の死に行く身内を思って水をぶっかけるかもしれないし、その人物個人のキャラから考えて動かないかもしれないし、もし意識が既にないのならぴゅっぴゅっぴゅっと動いちゃうかもしれないけれど、それが果たして私個人の思いなのか、聖霊の働きなのか
わかんない
この「わかんない」は実はマザーテレサも同じ気持、考えだったンではないですかねぇ。はい。祈りに祈って出た見解が、死に行くひとご本人の意志を尊重するので、あたしは無理やり彼(女)に水をぶっかけない、なんでしょう。

それはたぶん、もしマザーテレサご自身がイスラム主義国で死に行くひととなり、イスラームの施設で終末を過ごすことになり、お世話してくださるムスリム、ムスリマから「イエス(=アラビア語だとイーサー)は神の子ではなく、ムハンマドさまより下位の預言者だと誓いなさい。誓わなかったらあなたを救いません」と言われたら?マザーテレサご自身が信じ、唱えるクレド(信仰箇条)の文面と矛盾してしまうではありませんか。これを仮定すると、ご自分の施設に次々と運ばれてくるひとびとに正論を独善で押し付け、うなずかせていいものかどうか。

臨終洗礼についてもし小教区に知らせがあれば受洗者リストに載り、年度末に統計の人数に加算され、数値が増えることになるけれど、その数を強く意識するのもいかがなものでしょう。その数だけで自ら安心できるというのも一種、病気だと私は思う。信仰というのはそういう目に見えるものの上に「ある」なんだろうし、数字で悲喜こもごもというのはちょっと、かなり「天国は遠い」気ガス・・・w

それに洗礼を受けてようが、いまいが、死んだ直後の私審判についてこの世に生きている最中のわれわれが正しく確認できないわけで・・・。そうかと言って、洗礼の有無に関係なくすべての霊魂は天国に入るという万民救済を説かれるわけわかんねー聖職者もきょうびいるし、その説教に魅了されて洗礼を受ける羊もいるし。

知らないよねぇ、そんなの。
自分が死ななきゃ真実はわからんぜよw
でも、自分がどんなパーな話を信じようが信じまいが真理にブレはなんら無しですぜ。


le 5 septembre 2016, Raïssa




しゃべくりついでに、ヴァチカンが問題視しているのは「マザーテレサ教」ですよね。ほれ、「パードレ・ピオ教」もそのひとつ。列聖した人物が信仰対象になって神についてはその聖人が信じていたし、私たちにも信じるよう勧めたので「あたしもカトリックを信じる」というヤツ。


それ、違うから。
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by ma_cocotte | 2016-09-05 18:25 | 『?』なKTOりっくん | Comments(3)
そんなに、オオゴト???
今度の日曜日午前10時から仏国営放送局の全国放送(France 2)でヴァチカンはサンピエトロ広場で行われるマザー・テレサの列聖式を生中継すると、きょうの朝の仏国営放送コマアシャルで知りました。
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https://www.facebook.com/AnimatoriSalesiani/

いつもならば毎週日曜の午前10時半頃から同じ枠で欧州のどこかでささげられている主日ミサの生中継が放映されており、この番組は2016年の今となっては多くの共和国民から「今すぐ撤廃」を望まれていたりもします。

その枠で今度の日曜日はヴァチカンからの列聖式の生中継放送。
列聖式を含めた主日ミサですから、約2時間ほど。おそらく放映も正午までなのでありましょう。

しっかし、マザーテレサってフランスとそんなに濃いつながりがありましたっけ?

マザーテレサご本人はマケドニア生まれで大英帝国だかアイルランドゆかりの修道女会で奉献生活を始められ、後になってインドに宣教女として派遣されたことがきっかけで多くの方がご存知のように修道女会を一度退会し、新たにご自身で修道女会を設立し、死を待つひとの家や路頭に捨てられた乳幼児、障がい児を養う施設を運営しました。生前、ノーベル平和賞も受賞されたし、何が有名って世界中の富裕国を訪問し、資金を集められたことです。

列聖式はヴァチカンで年に数回行われるので、そんなに珍しいものではありません。もちろんマザーテレサの列聖式は後にも先にもあさっての一回こっきりではありますが・・・でも、列聖式のたびにほぼ必ずフランス人の宣教師や修道者が含まれているのに仏国営放送で生中継なんて流さないし、ニュウスで取り上げられることもありません。

いやー、マザーテレサ。
たいしたもんだとおもいます。

以上。


le 2 septembre 2016, Ingrid de Skänninge
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by ma_cocotte | 2016-09-02 19:46 | 『?』なKTOりっくん | Comments(1)