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あ、そこには触れないで!..._| ̄|○ ソウイウコトダッタノカ
久しぶりに、ウヰリアムソン師。

教皇さまからの求め に未だお返事なさらないFSSPX の司教 リシャアル・ウヰリアムソン Richard Williamson 師がブログを始められました。
Dinoscopus
http://dinoscopus.blogspot.com/
ブログから拝察するにウヰリアムソン師は大英帝國は倫敦市内にいらっさるようです。
数日前偶然知ったことですが、このウヰリアムソン師が2004年8月に日本國内にお住まいの聖ピオ十世会の信者8名の堅信、いえ、堅振 のために来日されていたのですね。

ところで、ウヰリアムソン師の来日の件について書かれたHPの最後に、ピオ会の礼拝にあずかる「兄弟姉妹への3つのお願い」が掲載されていました。今になって興味深いことに、司祭から兄弟姉妹への願いの文面の中には
「担当司祭の承認 Authorization や許可 Permission 」
「担当司祭から公式に任命 appointment」
「原則的に禁止 Forbidden 」
「理由によってお望みの方は、その都度担当司祭の許可 permission を得て下さい。事情により許可 Permission は必ず与えられるとは限りません」
とあり、はて?どこかでほんの数日前に見聞したお話 が思い起こされます。以上の注意事項を英語に訳す際、カトリックの世界でも世間でも法律に関わる単語があてられることは高等教育で語学を学ばれた方なら「コメント交換やら会話に用いる語」を当てはめません。ピオ会の神父さまもカトリックの慣習をご存知だからこそ実践され、羊に求めていらっしゃるこのような具体例があるのに、なぜピオ会とヴァチカンの完全な一致を心待ちにする世俗の方々が分断し、このカトリックで受け継がれてきた習慣を軽んじるのでしょう。

指針あがないの秘跡の第104項 だけ に限って、以上の単語の関連と用法が別の文書における解釈と異なるとヴァチカンも教会もおっしゃったことはありません。現状で第104項に限って単語の用法を例外と日本語で断言するなら、それは読み手が世俗とするなら個人の事情あって一般論を否定したいだけのことであり、もしカトリックの聖域に住まう方々が「この項に限っては例外である」とおっしゃったら、世俗は考えずに従うのみです。本物の伝統主義者 Traditionaliste なら尚更のこと。伝統主義どころか教条主義者 intégriste だったら逆にたった一冊の本の中の第104項だけの例外なんてあるめぇ。

読み手である市井に生きる人間が世間一般の定型を自分だけの信念をもって変えるにしても、例えばお仏蘭西だったらアカデミ・フォンセーズ L'Académie française に認められるまで、決められた書類に本人による「理由によってお望み」を明記し、決められた段取りを守って提出し、何年かかってもお上の沙汰を待つしかありません。生きているうちに自分の願望が受け入れられたら「運が良い」。あれれ、カトリックの世界の中と同じぢゃん。ひとつだけ違うことはアカデミ・フォンセーズは祈らずに最終決定を出しますが、カトリックの聖職者は最後に祈りをもって「アーメン」とします。ただし、教皇B16 さまはアカデミ・フォンセーズの海外在住者会員であり、仏蘭西はアングレーム Angoulême の司教クロード・ダヂャン Claude DAGENS 師もアカデミ・フォンセーズ会員であります。つまり、アカデミ・フォンセーズ全体が祈らずに最終決定を発表するのではなく、会員の中には極一部かもしれませんが、祈って答えを見定める方々もいるということです。

そっれにしても、カトリック世界の英文公文書において Be permitted (語幹は permi-)なる、宗教を抜きに世間一般の法律用語が「あがないの秘跡 第104項」のみでしか使われていないのか、日本語環境の騒ぎっぷりで不思議でしたが、調べてみたら、騒いでらっさる方々がしばしば話題、2007年7月7日付けの自発教令 Motu Proprio Summorum Pontificum から探し出すことができました。以下、一目瞭然の例をいくつか。
Art. 2. In Masses celebrated without the people, each Catholic priest of the Latin rite, whether secular or regular, may use the Roman Missal published by Bl. Pope John XXIII in 1962, or the Roman Missal promulgated by Pope Paul VI in 1970, and may do so on any day with the exception of the Easter Triduum. For such celebrations, with either one Missal or the other, the priest has no need for permission from the Apostolic See or from his Ordinary.
第2項 会衆なしに行われるミサでは、ラテン典礼のカトリック教会の司祭は皆、教区司祭と修道司祭の別にかかわらず、過越の聖なる3日間を除くすべての日に、1962年に教皇福者ヨハネ二十三世が発布したローマ・ミサ典礼書と、1970年に教皇パウロ六世が発布したローマ・ミサ典礼書のいずれをも用いることができる。いずれのミサ典礼書に従ってこのような典礼を行うにせよ、司祭はそのために使徒座ないし自らの裁治権者から許可を得る必要はない。

§ 5 In churches that are not parish or conventual churches, it is the duty of the Rector of the church to grant the above permission.
§5 小教区教会でも修道会付属教会でもない教会堂では、教会主管者司祭が上記の許可を与えなければならない。

Art. 9. § 1 The pastor, having attentively examined all aspects, may also grant permission to use the earlier ritual for the administration of the Sacraments of Baptism, Marriage, Penance, and the Anointing of the Sick, if the good of souls would seem to require it.
第9項 §1 小教区の主任司祭は、すべてのことがらを十分に考慮した上で、霊魂の善益が求める場合に、洗礼、結婚、ゆるし、病者の塗油の秘跡を執行する際に、以前の典礼を使用する許可を与えることができる。
ここ ↑ に書かれているカトリック教会内の聖俗間における「申請 application → (権能の)委任 autholization / 免許 permission 」という動作と書類の流れは教会生活全てにおける基本で、ささいなことでもこの動作を聖俗の間で常に求められているということは、ミサにもあずかり、典礼や社会司牧の手伝いもなさる方ならば、信者であろうがなかろうが、気付けることです。文頭に述べたピオ会の司祭が世俗に求めていることも同じ流れのひとつです。小さな決まりも大きな決まりもこの基本所作の応用にすぎないのだからして。ですから、「カトリック知識が司祭よりはるかに豊富なカトリック信者」といくら第三者に褒め称えられてもこのカトリック生活における基本を軽んじ、無知の羊をそそのかしているような言動を取るなら、他の第三者に「もしかしてこの方は生きたカトリック教会の中で生きていない方なのでは?」と思われたところで、それは自らご自身の教会での立場を公で表明したに過ぎません。誰のせいでもありません。まず、自分が実世界のカトリック教会で「生きる」、それしか心身をもって2000年の間、ヒトからヒトに、ヒトが決めた国境を越えて伝えられたカトリック慣習を体得する道はないし、その道は死の瞬間まで自分の魂の足で歩まねばならないのだからして。
教皇さまはじめ、こういう方々 ↑ にカトリック伝統の生活慣習を無視されている聖域の方々、お気の毒です。
教皇さまは2009年2月4日付文書の中で以下のとおりおっしゃっています。
The lifting of the excommunication has freed the four bishops from a most grave canonical penalty, but it has not changed in any way the juridical situation of the Fraternity of St. Pius X, which for the moment does not enjoy any canonical recognition in the Catholic Church. Neither do the four bishops, though liberated from the excommunication, have a canonical function in the Church and they do not licitly exercise a ministry in it.
四司教の破門解除のみであり、聖ピオ十世会の法的立場は今も解除以前と変わらず、カトリック教会内の基本手続きを無視しての秘跡執行は一切ヴァチカンに認められていないのです。世界に散らばるピオ会の聖俗信者さんがこの言葉 ↑ を無視していることが問題なのです。本当に自他共に認め合うほどの聖座直結ならば、教皇さまが求めていることが理解できるひとりひとりがまず守らなくっちゃ。

ピオ会から追放されたラゲリ師がFSSPXを何と譬えたか、教皇さまもご存知でしょう。
だって、今はしっかりつながっているお二人だもの。

le 11 juin 2009, Barnabé
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by ma_cocotte | 2009-06-11 17:03 | 破門→波紋→和解→破壊 | Comments(0)
Perinde ac cadaver
昨晩、友人より一通のメール。
なんでも拙ブログの内容がちりばめられた意見文章が電脳域で公開されているとのことで、私も拝見することができました。以下の二つのエントリーです。
'09.06.02 (火) 彼女はそれを 「常識」 と言い続ける
http://gokyo.ganriki.net/diary2009/d-2009-06-02.html
'09.06.03 (水) 典礼秘跡省に訊くことにします
http://gokyo.ganriki.net/diary2009/d-2009-06-03.html
以下、一凡女の拙なるたわ言を書き連ねます。
が、その前に。上に挙げました2エントリーにつきまして何かご存知のことがありましたら、無知の私に教えてください。

先月、聖地巡礼にいらした教皇さまが 12日にエルサレムで司式された野外ミサ の生中継ビデオをどうぞ ↓
Messe célébrée dans la Vallée de Josaphat
http://www.ktotv.com/cms/videos/fiche_video.html?idV=00044914&vl=video_nouveautes
このビデオの一時間45分目あたりから聖体拝領の様子が映りますが、1時間46分31秒以降、両形態の拝領側のSelf intinction も、授与者(つまり司祭)がホスチアをカリスに浸して拝領者の舌に乗せているのもしっかり拝見できます。
教区長方は教皇さまの下、平等のお立場ですから、他教区内におみ足を運ばれたところでその教区に「改善も改悪も」求められません。が、ローマ教区長、すなわちローマ教皇のみが世界中どこの教区におみ足運ばれても「改善も改悪も」その教区の聖俗信者に求めることができると私はかつて神父さまから習いました。これを前提にするなら、教皇さまはエルサレムで教区長に両形態を禁じることができますのになさいませんでした。おそらくエルサレム教区では両形態が認められており、このごミサにおいても両形態についてローマ教区長である教皇さまはL'autorisation (許可)、Permis (免許)を発していることになります。英語で表現するなら、
The Pope permitted to intinct the host himself in the chalice, or to receive the intincted host in the hand.
permit (動詞:許す、名詞:許可/免許)の派生語には permission (許可/免許)、permissive 随意などありますが、動詞は動作を表わすので、希望する団体や本人が委任認可 authorization の免状 permission をもらえるよう書類を集め省庁(教会)を訪ねるなり動かねばなりません。まだ人がなんら動かないままの時点なら、Forbidden だろうが not be permitted だろうが「してはならない禁止行為」であるということくらい、ネイティヴスピーカーなら感覚的にわかっています。ただし、委任認可を求める事務手続きの時間経緯において、免状を手にする前からその行為を始められるか否かは各環境の両者の契約条件によります。
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http://malicieuse.exblog.jp/9075715

さて、ここで今一度、指針あがないの秘跡 Redemptionis Sacramentum の第104項全文を各国語で見てみましょう。
羅典語104. Ne permittatur communicando per seipsum hostiam in calicem intingere nec hostiam intinctam manu accipere. Quoad hostiam intingendam, sit hæc e materia valida confecta necnon consecrata, omnino vetito usu panis non consecrati aliusve materiæ.

英語[104.] The communicant must not be permitted to intinct the host himself in the chalice, nor to receive the intincted host in the hand. As for the host to be used for the intinction, it should be made of valid matter, also consecrated; it is altogether forbidden to use non-consecrated bread or other matter.

仏語104 - Il n’est pas permis à celui qui reçoit la communion de tremper lui-même l’hostie dans le calice, ni de recevoir dans la main l’hostie, qui a été trempée dans le Sang du Christ. De même, il faut que l’hostie, destinée à la communion par intinction, soit confectionnée en employant une matière valide, et qu’elle soit consacrée ; il est donc absolument interdit d’utiliser du pain non consacré ou fabriqué avec une autre matière.

西語
[104.] No se permita al comulgante mojar por sí mismo la hostia en el cáliz, ni recibir en la mano la hostia mojada. Por lo que se refiere a la hostia que se debe mojar, esta debe hacerse de materia válida y estar consagrada; está absolutamente prohibido el uso de pan no consagrado o de otra materia.

獨語104. Es ist dem Kommunikanten nicht erlaubt, selbst die Hostie in den Kelch einzutauchen oder die eingetauchte Hostie mit der Hand zu empfangen. Die Hostie, die eingetaucht wird, muß aus gültiger Materie bereitet und konsekriert sein; streng verboten ist die Verwendung von nicht konsekriertem Brot oder anderer Materie.

伊語[104.] Non si permetta al comunicando di intingere da sé l’ostia nel calice, né di ricevere in mano l’ostia intinta. Quanto all’ostia da intingere, essa sia fatta di materia valida e sia consacrata, escludendo del tutto l’uso di pane non consacrato o di altra materia.

日本語 104. 拝領者は自分でホスティアを御血に浸すことや、御血に浸されたホスティアを手で拝領することを許されてはならない。御血に浸すために用いられるホスティアについては、有効な材料で作られており、聖別されていなければならない。聖別されていないパンやその他のものを用いることは絶対に禁じられる。
さして長い文章ぢゃないのに、104項の中から前半だけのつまみ出しでは、後半部分で使われている語句と簡単に比較できるのに、それを書き手が個人の意図あって敢えて読者に認めさせないようにしていると判断されかねません。しかも、ラテン語とイタリア語においては禁止事項全文がNe permittaturNon si permetta al にかかっているようなので、否定のNe、Nonを省けば Permit- または permet- の語幹となり、他の言語より禁止事項が甘く表現されていると言えるかもしれません。

そもそもこの項で用いられ判断の決め手となる単語 forbid(仏語の interdire)、permit(仏語の permettre ) は宗教用語ではなく、一般生活において法律や規則に用いられることが多く、無神論者でも感覚的に違いはわかります。私たちの日常でこれらの語を見聞するのは、身近なところでは交通規則です。Interdire にはそれを消す手段はなく、n’est pas permis (許されない)を用いての禁止事項なら、それが許される具体的な数値や事柄など条件があります。例えば、飲酒運転なら血中濃度が100mlの血液中80g以下なら罰せられません。携帯電話も絶対禁止ではなくヘッドフォンなら許されます。フランスでは自転車に乗る者にも自動車と同じ標識 Sécurité routière に従うので、小学校低学年の学童はこれらの単語と標識を用いての公共マナーを学び、従います。だから常識なのです。
英語だったら forbid より更に強い prohibit (禁止)という単語があり、問答無用の絶対禁止だったらヴァチカンの英語担当者も prohibit を用いるだろうけど、この「両形態」の行為で当事者が破門になることはないから forbid を選んだのでしょう。英和辞書だとどちらも日本語では「禁じる」ですが、微妙な違いがあることはご存知の方はご存知です。maybe < perhaps < probably の違いのようなものでしょうか。

そのような「生きた言語が生かされる大地と人間社会関係」の中で育ったネイティヴスピーカーズによる電脳上の会話を、日本語と日本國の常識と個人の知識で解釈し、事実が歪められてしまうなら?
「手による拝領は冒涜、両形態は絶対禁止」という話がいつどなたが日本語で話し始められたのか私は存じません。が、それぞれ個人に事情があって神父さまに事実を確認することができず、自分で集めた本の読解と電脳域の日本語情報のみに頼らなければならないなら、それは気の毒なことだと思います。神父さまに質問しましょうよ。

上に紹介した URL に以下のことが書かれていました。
もしま・ここっとさんが、「慣用の世界のことは別にして、学問的な場、すなわちここでは教会の公文書ということですが、そこでは must not be permitted という表現と be forbidden という表現との間には画然たる別があるものです」 という言い方をなさるなら、また話は別であります。そうでなく、「それは西欧人にとっては常識、一般常識です。彼らはその別を感覚で明確に分かっています」 という言い方をなさるから、非常に間違っている、全く間違っているのです。

断定しておきます。
ε= (´∞` ) Bof.  こそこそと断言
以下、いただいた断定をそのままお返しいたします。
「無意識的」 に、ご自分のある種の傾向や嗜好に引きずられて物事を歪めながら (誰にでもその傾向があるものですが) 慣用的な場では、must not be permitted という表現と be forbidden という表現が非常に近いものになる場合が大いにあることをおっしゃっておられるなら、「間違い」 と言われるべきものであります。
個人の願望を実現するためにヒトひとりをひねりつぶし、ご自分の発想を断定したからとて、歴史の中でヒトビトによって育まれている生きた言語の成り立ち(派生語や接頭接尾語、語幹や文法)も、各社会がヒトビトのために決めた慣習や規則も、その個人がもくろむ都合のために変えられることはありません。それはカトリック教会も同じではないでしょうか。いくら文面を各自の脳が、各自の願望と照らし合わせつつ願望の都合良く読み取ったところで、両形態による聖体拝領が絶対禁止ではないことは教皇さまが司式されたごミサでの聖体拝領の様子を見れば一目瞭然、明らかです。

「両形態が絶対禁止」であることを信じ続けたい方は、先にあげたエルサレムでのごミサ中継ビデオは見ない方がいいですよ。Σ( ̄△ ̄; あ、最初に書くべきでした。m(_ _"m)

le 4 juin 2009, Clotilde

自分にとって黒に見えても、カトリック教会が白であると宣言するならそれを信じよう。

先方の日記にはコメント欄はなく、掲示板も閉鎖。日記、掲示板いずれもトラックバック機能がありませんので、このような公開の形を取りましたので、あしからず。
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by ma_cocotte | 2009-06-04 19:13 | 『?』なKTOりっくん | Comments(26)
蜥蜴の尾ならば切り捨てられるのに、
2009年5月21日。今年はきょうが昇天祭 L'ascension、カトリックのお祭り日ですが、仏蘭西の国定移動祝祭日でもあります。
こちら ↓ はルルド Lourdes の大聖堂内のモザイク壁画、キリストの昇天を表したものです。
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石のかけらで描く絵画で、ヒトの表情もヒトがまとう衣の美しさも柔らかく表現できる。凄いことです。Bravo!

神の子イエズス・キリストは天に帰られたものの、
神なき残された大地では昨日の夜から新たなカトリックスキャンダールが流れ始めました。
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ルルドの大聖堂の中段からルルド旧市街を眺める

それはきょうび欧州国内でカトリック濃度の一、二位を常にポーランドと争っているアイルランドで、1930年から1990年までの60年間にアイルランド国内のカトリッック系教育施設216校で、司祭や修道者によって児童、学童、生徒に行われたあらゆる暴力の記録が昨日2009年5月20日、公表されたことです。ニュウス映像の一例はこちら ↓ 。




仏蘭西での関連報道の一例は以下、国営放送France 2 のニュウスビデオをご覧ください。
Des milliers d'enfants irlandais violés
http://info.francetelevisions.fr/video-info/?id-video=MAM_1500000000003181_200905211313_F2&ids=MAM_1500000000003181_200905211313_F2&id-categorie=REPORTAGES_INFO_MONDE


France 2 の関連記事はこちら ↓
Enfance maltraitée: un rapport accable l'Eglise
http://info.france2.fr/europe/54540788-fr.php
60年に渡るアイルランド国内のカトリック校における事件簿ですが全5巻、約2600ページにもなり、昨日の一般への公開・発表まで9年間調査し続けた結果でもあるそうです。

一夜明け、きょうの朝、英語「Catholic Ireland」の鍵語でググると、この件について1074件ヒット します。仏蘭西語「Catholique Irlande」の鍵語でググると、95件。日本國ではいかがでしょう?

こういう事件が公になって短絡的にカトリック批判を始める方がほうぼうから湧き出るだろうことは容易に想像つきますが、声を張り上げる前にひとつ気をつけねばならない点があり、それはアイルランドの場合、国家とカトリックの関係が密のためアイルランド政府の教育機関への批判も同時にあがっているためカトリックだけのせいにできない点です。

きょうの朝はカトリックにまつわる国定祭日の朝でもあるので、恒例というか国営放送France 2で毎朝流れる生トーク番組 Les 4 Vérités (四つの真理・誠意)のゲストは仏蘭西カトリック司教団の広報担当ポドヴァン司教 Mgr. Bernard Podvin でした。内容はまたも教皇のアフリカ発言、ブラジルでの堕胎についての破門、FSSPX 司教のウヰリアムソン問題に加えて、昨日、世間に投げられたアイルランドスキャンダルという餌についてでした。いい加減、ひつこい。今年発生したカトリックスキャンダルズが蜥蜴の尻尾なら切ってしまえるのに、どうもヂャアナリスト側はこれらのスキャンダルを牛の涎はたまたスライムのように扱いたいようです。なんつうか、この広報担当の司教さまは今年からこのミッションを受け入れられていますが、運命的に踏んだり蹴ったりつうか、「堕胎が破門なのに、幼児性愛者や小児に暴力を振るう者が破門にならず観想修道院で司祭や修道者のままでいるのはおかしい」とカトリック教会に裁きを具体的にさせようという魂胆見え見えの意地悪くて無知なヂャアナリストの攻撃の矢面になってしまっても、こうして生きている司教さまそのものが矢を直に受ける「信仰の盾」と化して、ヂャアナリストの愚か、いや、無知な質問にズバっと言い返し、諭すところは天晴れでござんす。直接だろうが、間接だろうが、
事実を知ったヂャアナリストよ。
以降、同じ質問をしたら罪だぞぃ。
それとも、番組を見なかったことにしてとぼけるかい?ヽ(`Д´)ノ

どんな問題、スキャンダルにせよ、カトリックを知らない者、時には「我こそはカトリック I'm Catholic / Je suis catholique.」と名乗る者が、この世の悪事についてカトリックという三次元に「裁き」を求め、その思考で止まってしまったり、勝手にピリオドを打っていることが問題なのです。カトリックの世界の中に自分が存在していると自覚するなら、その「裁き」の先に何があるのか。「裁き」という浅瀬で見限ったり、陸に自分だけが戻る。浅瀬の先の深みには「赦し」があり、そこに至るまでの道程は決して安楽でなく、そこに至るまで罪を犯したヒトが歩む様子を傍観するなら「償い」という言葉があてはまるのかもしれません。その他者による償いの過程を自分が嘲笑するのか、手を差し伸べるのかは私たちひとりひとりが考えねばならないことでしょう。

le 21 mai 2009, L'Ascension

昨晩から繰り返しこの事件に関するニュウス映像を眺めていると、司法に貢献した犠牲者のひとりが自分は神を信じているけれどカトリックはもう御免だ、と言い、こうして長年に渡る聖職者、修道者の悪行が公になったことで使命を果たしたかのようなコメントを残していますが、もし彼が本当に本当のクリスチャンだったら司法が結審した時点から先を慮るのではないでしょうか。凡女ながら彼の主張には矛盾を感じます。
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by ma_cocotte | 2009-05-21 15:42 | 『?』なKTOりっくん | Comments(2)
自分で眼鏡をかけられます。
こうして跪いて祈っても、
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こうして献香しても、
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こうして聖母子画を祭壇横に置き、こうべを深々と下げても、
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こうしてパテナを添えて世俗の舌の上にご聖体を置いても、右から二人目の司祭をご覧くだされ。
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この方、第30代イエズス会総長 アドルフォ・ニコラス Adolfo Nicolás 師がかつて日本國にお住まいだったことで、この方のミッシオンの一部が解放の神学研究だったことで、面識のまったくない人々からこれら上述の行いをこの方が否定し、前を歩く者、後に続く者にこれらの行い(聖俗双方の典礼所作や聖母崇敬)を否定せよと強く指導していると電脳域において日本語で喧伝されています。が、事実はこのとおり違います。

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世界にちらばる「羊飼いのリーダーズ」のザ・リーダーは世界から集まった羊飼いのリーダー方の最前列中央で見本を示すものです。何を根拠にこういう作り話が日本語で飛び交うようになったのでしょうか?電脳という徹底政教分離世界で喧伝され続けている事実無根の作り話と、この写真で拝察できる事実のどちらを信じるかは個人の自由です。が、世間は兎も角、カトリックわーるどにおいては、復活したキリストの傷口に指を突っ込むまで疑ったトマ Thomas という前例があるので、何事も自分の目で確認してから事実の要約を他人に述べるよう各自が気をつけるものです。ところが、いったいどなたが事実確認もせず、こういう話を作って、吹聴し始めたのでしょう?カトリックを知らない人でしょうね。なぜなら、電脳域で喧伝されているニコラス神父さまにまつわる作り話についてカトリックわーるどの玄人さんが聞けば、解放の神学と社会司牧の両者の関係は必ずしも必要十分条件を満たせないことくらい知っていることです。ご自身の野望達成のためにニコラス神父さまがカトリックの伝統を軽視、はたまた破壊していると命をかけて宣伝している方は、本当のところは解放の神学についてロクに知らずに上澄みだけで学び取った気分になり、野望達成のために有利な独善解釈でカトリックのようでカトリックでない作り話を電脳を悪用して宣伝していると思われます。そんな自らヴァチカンにつながる本流から外れている物を見つけ出すつもりはさらさらありませんが、こういう無責任な作り話を発信したモノの野心のせいで、塗られた汚泥を拭うのはご本人しかおらず、その払拭を手伝うのは実際にこの方がどういう方なのか知る人々の善意です。自身の心の渇望を実現するために手段を選ばず、電脳域とは言え公衆でツバをはいて、清掃は他人任せという遊びをする「子供オトナ」を信用する成人はいますか?
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イエズス会を創立したイグナチオ・デ・ロヨラは「自分にとって黒に見えても、カトリック教会が白であると宣言するならそれを信じよう。」という言葉を遺し、確かイエズス会の会憲の中に「Perinde ac cadaver 死人のごとき従順」という一文があったと記憶しています。そもそも教皇立の修道会なのに、エンもユカリもない人々から教区や他の修道会と平らに等しい形に変えられ、彼らの無知による想像だけでイエズス会に「あり得ない中身」を語られても、根も葉もない誤解だけが世間にはびこり、無知の人々がそれを信じるか信じないか選択することになります。

なぜ無知の羊たちに色眼鏡をかけることに必死な 知ったかぶりの羊 がこんなにもいるのでしょう?彼らは無垢な羊が羊飼いを真っ直ぐに見れなくなるように、羊飼いを疑うよういろいろ仕掛けています。
逆に、羊の皮をかぶった山羊を羊の群れから見つけるのは羊飼いの役目ですが、羊飼いがその使命を怠っているとするなら、ヴァチカンにおわします世界にちらばる羊飼いのザ・リーダーはまず羊飼いたちを指導します。羊飼いはそれぞれ、ザ・リーダーからの思し召しを羊の群れに分け隔てなく、わかりやすく伝えますから、群れの中のたった一匹の偽羊のために他の羊たちが共にうなだれることになるのだな。いい加減、こんな挑発が延々と数年にわたって群れの中から発生し続けると、真面目に根性いるよね、中間管理職も、善良な羊ちゃんたちも。それに、山羊は乳しかヒトに与えないってとこもミソよねー。偽羊と知らずに山羊が出す乳を飲み続けたら、自分の心身にどう染み渡るか。あなおそろしや。

ニコラス総長さまだけでなく、個人が解放の神学を授業で取っただけでも要らぬ偏見をべっとり塗った繰られる日本國。こんな形で事実無根の作り話が多くの人々に信用されてしまう日本という国は、カトリックわーるどにおいては本物の辺境で、ガリレオ・ガリレイの説を伝統に則って否定するなら、それこそ羊飼いを疑う日本人はこの世の大地の縁(へり)で嘘、噂と名付けられた濁流の勢いに圧されるまま奈落に落ちますよね。天に昇れません。

le 19 mai 2009, Yves
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by ma_cocotte | 2009-05-19 16:34 | 『?』なKTOりっくん | Comments(3)
丘を越え、行こうよ。
口笛吹きつつ...空は澄 むどころか、雨空。
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土曜日の午後、用あって進路を北北東に。道を進めば進むほど雨脚が強くなり、久しぶりの遠出なのに心寂しくもなりました。

共和国内の高速道路の制限速度は130km/h、雨天の場合は110km/hが最高速度となります。高速道路を前へ前へと進みながらも、ココんちの小型車は常に右車線。左右はなだらかな丘陵地で、牛や羊が放牧されており、天気の良い日ならばのどかな景色を目に、スメル・オブ・カウントリィを鼻に感じつつドライブを楽しめますが、強い雨のせいで視界がさえぎられるほどの天候の中での移動となりました。

これだけ雨脚が強く、時速100km強での小型車運転は気を緩めたらハンドルが取られてしまうのでかなり緊張しながらの右側車線をびゅうううんですが、こんな気の小さい人間に操られているココんちの車を左から次々と追い越していく車が後を断ちません。フランスに住んでいるとどうしても自動車についているナンバープレートで地理の勉強に励まざるを得なくなりますが、共和国内なら県番号宛、欧州の車ならプレートの印象で国宛を楽しめます。

で、土曜日ですが、高速道路で俺様の車を抜きやがった車のほとんどが異人が運転する国外車両だったのですよ。共和国内のナンバープレートの車は10台未満でした。ベルギー、独逸、西班牙・・・特に大英帝國の車の爆走が恐ろしいほどで、彼らは数字やアルファベットが読めないわけないでしょうに150km/hくらい平気で出して、右ハンドルで右車線にいる車を威圧しながらの走行。彼らが追い抜くたびにタイヤと道路の間から飛び散る水しぶきでこちらの視界は瞬時に0となります。その恐ろしさと言ったら。紳士淑女の国と知られる大英帝國民はいつでもどこでも異国ではハメを外すことがここでまた確認されましたわい。

それにしてもなぜにこんなにも白の楕円にGBと黒文字をあしらったシールを後部に張った英國ナンバー車が大量にこんなフランス中西部ド田舎の高速道路を次々と走り抜けていったのであらふか?しばし考えて脳内豆電球が点灯した第一事項は今度の木曜日が昇天祭の祝日で、更に10日後には聖霊降臨の祭日となるので連休を取った大英帝國民の大量流入ですわな。それを思いつくと、第二事項に大西洋側のどこぞの商港に着いたフェリーから一時(いっとき)に彼らが降り立ち、東に進路を取ったのでこうも次々と大英帝國ナンバー車両が高速道路に躍り出、間抜けな仏蘭西人が運転する車を涼やかに抜く遊びを楽しんだ、と二つ目の脳内豆電球が点灯。この高速道路が通っているあたりは
百年戦争やら薔薇戦争の戦地
だから、アングロ・サクソンの血がうっかり騒ぐのかもしれません。
こういう暴走車の挑発にだけは乗らないように心を落ち着けませんと。
既に5月も半ばを過ぎたのでガイコク車両が日に日に増える季節となりました。
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それにしても休んでばかりの仏蘭西びと。
今度の木曜日の昇天祭から聖霊降臨直後の月曜日の国定祭日まで10日間のプチ・ヴァカンスを決め込んでいる共和国民がゴロゴロおります。彼らの脳内は既に7月からのヴァカンスのことばかりで、このプチヴァカンスに夏のヴァカンスの下準備を始めたりするのです。

le 18 mai 2009, Eric
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by ma_cocotte | 2009-05-18 17:07 | 『?』な、お!?仏蘭西 | Comments(0)
壁のムコウ と 壁のコチラ
きのう、5月13日の教皇さまは丸一日、シ・ヂョルダニィ Cisjordanie、日本語で訳すとヨルダン西岸地区であろうか、ベトレヘム Bethléem を基点にして過ごされました。cf. Benoit XVI a franchi un mur symbolique 午前中はマリアさまがイエズスさまを出産した馬小屋があったであろう場所で野外ミサがあげられ、約5000人が集ったそうです。
Messe sur la place de la Mangeoire à Bethléem
Diffusé le 13/05/2009 / Durée 90 mn
http://www.ktotv.com/cms/videos/fiche_video.html?idV=00044916
このビデオ ↑ の最後のお知らせでは、このごミサ後、教皇さまはベトレヘムのフランシスコ会修道院でお昼食。午後は難民キャンプや病院などの慰問という、カトリックで用いられる言葉を選ぶなら社会司牧にあてられました。
Visite au camp de réfugiés d'Aida de Bethléem
Diffusé le 13/05/2009 / Durée 60 mn
http://www.ktotv.com/cms/videos/fiche_video.html?idV=00044917
この午後の計画は前もって決まり、公に発表もされていたので、仏蘭西共和国内のニュウス番組では数日前から中東事情無知の共和国民に少しでも予備知識を与えようとしてくらしゃったのか、国営放送でも民放でもイスラエルやパレスチナ自治区におけるカトリック社会司牧活動について聖域側、世俗側両面から紹介しました。
いや~、知ってしまったことで、考えさせられてしまいました。
今の自分にできることって何だろう?と、素直にそういう思考の世界にいざなわれたとでも申しましょうか。
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Le pape Benoît XVI dans le camp de réfugiés d'Aïda, près de Bethléem, où il a jugé « tragique » le Mur de séparation construit par Israël. : AFP

昨日13日夕方、難民キャンプで式典 ↑ が行われましたが、教皇さまの背後に見える分断壁は高さ8mあります。イスラエル側はこの8mの高さの分断壁をイスラエルとヨルダン西岸の境、約650kmに渡って築いています。パレスチナ政府のアッバス Mahmoud Abbas 議長はこの壁をアパルトヘイト壁 le mur de l'« apartheid » と名付けて、教皇さまの御前で訴えられています。結局のところ、今日14日の夜明けと共に、教皇さまがこの壁を悲劇的と判断され jugé « tragique »、この分断壁を取り除く気持になってくれまいか、とイスラエル側のナタニエフ Benyamin Netanyahou 氏に求めたところ、ナタニエフ氏がその案に反対した、すなわち-パレスチナ国家建国を拒否- dont le gouvernement refuse la création d'un Etat palestinien -という報道が流れていますし、この交渉決裂についての記事を掲載した仏蘭西国内の有名全国紙HP版の一般投稿欄には、教皇さまの提案は「(間に立つ者として)美しいけれど、現実から少し逃避していないか。C'est beau mais un peu décalé de la réalité」「教皇さまは精神的、知的に戦っている。Un pape de combat...spirituel 」など、中立かつ冷静な意見が分刻みで増えています。投稿の中に「どちらを贔屓する、味方する」「どちらが正しい、間違っている」など、安直で愚かしいコメントがないことは、仏蘭西に住む成人の成熟具合を垣間見れて、ガイジンの私には安心かつ信頼のきっかけになります。中東問題において、傍観する私たちが、カトリック精神を知る者がしてはならないことは「裁判ゴッコ」という遊びです。私はそう思います。

こんな分断壁はいつか取り払われるべきです。でも、平和を武力で得ようとしている者や、一方の要求を実現することが平和だと勘違いしている連中がいるなら、安全治安上、この壁は必要であり、両国を結ぶ壁の隙間には検問所も置くべきでしょう。例えば、お腹にダイナマイトを巻いた赤ん坊を乗せた車が天国への片道切符に値するなんて話はまったく美談になりません。教皇さまもご自身の求めが実現するために綿密なプロセスが必要であることは、こうして現場におみ足を運ばれているのですから、五感で感じ取られていることです。教皇さまがふと見せる疲労の表情を気遣うニュウスがどれほど多いことか。

ところで、昨日、教皇さまが訪問された難民キャンプ『アイィダ』 camp de réfugiés palestiniens d'Aïdaには約4,600人のパレスチナ人が住んでいます。パレスチナ人全員がイスラームではなく、キリスト教徒もいます。どうしても中東から遠く離れた者が中東事情を眺めるにあたり、ユダヤ教徒(イスラエル人)vsイスラーム(パレスチナ人)という二対立ばかり強調されますが、現実においてはキリスト教徒のパレスチナ人(フランス語だとアラブ・クレチアン Arabes chrétiens と呼ばれ、彼らはこの中に含まれます)もいれば、イスラエル国籍のキリスト教徒であるパレスチナ人もかなりいるのです。彼らはイスラエルであろうと、イスラエル近隣のイスラーム諸国であろうと「伸び伸びと生活している」とは笑顔でいえない立場ではありますが、ユダヤ教とイスラームの間の立場であることも間違いありません。ヨルダン西岸側に住むキリスト教徒のパレスチナ(アラブ)人は約45,000人です。
Que avenir pour les chrétiens d' Israël?
こちら ↑ はイスラエル国籍の先祖代々キリスト教徒のパレスチナ人のお宅の様子。運命とは言え、ご自分の敷地内に電流が流れる鉄条網やらトンネルをイスラエル軍に設置されちゃいました。が、住まいの様子をご覧になればわかるとおり、このお宅は中流より上と思われる家庭であり、兄弟親戚がカナダ、米国、スウェーデンに既に移住していることも紹介されています。キリスト教を宗旨とするパレスチナ人家庭のほとんどがブルヂョワであり(例えばアラファト夫人やヨルダン国王妃などもそう)、それが原因で同じ血筋であっても異教の同胞に差区別されるという問題が地中海東岸の国々で問題になっています。例えばレバノンではキリスト教徒国民に対して就職妨害を行っていることも知られています。cf. http://malicieuse.exblog.jp/8590037
分断壁ができる前からエルサレム市内に続く道に検問所が既にあったとは言え相互の往来は活発で、ヨルダン西岸に住まいを持つパレスチナ人がイスラエルに仕事を持っていたり、行商を行ってもいました。カトリックは第二ヴァチカン公会議以降、聖俗が力を合わせての社会司牧活動に力を入れていることもあり、ヨルダン西岸にもイスラエルにも教育や養育、病院奉仕を目的に掲げる修道会や世俗会を次々と派遣しています(現在進行形)。
Les chrétiens de Cisjordanie
こちら ↑ 、イスラエル側にあるカトリック修道女会が持つホスピス兼高齢者施設と、ここに母を預けているひとり息子ヂョルヂュ Georges 、彼はヨルダン西岸に住むキリスト教徒であるパレスチナ人です。こうして壁のムコウとコチラを往復しています。現状ではヨルダン側の住人がイスラエル側に自家用車と共に入国することができず、シスターの証言では以前なら10分で通えた人が今は片道3時間を要するとのこと。
このように高齢者のために働くカトリック修道会もあれば、
こちら ↓ 、ヨルダン西岸のカトリック修道女会が持つ孤児院の様子です。
L'orphelinat de Bethléem
この修道女会では0~6歳の乳幼児を育てています。年々、赤ん坊の養育を諦めるヨルダン西岸のイスラーム家庭が増え、特に障害児の養育拒否が目立っているそうです。ビデオで最初に紹介される坊やは路上でお父さんを何日も待ち続けていたところ引き取られ、今もお父さんが迎えに来るのを待っています。二番目に紹介された一歳の女の子(エナちゃん)は生まれながら呼吸障害があり、屋根に放置されていたそうです。すぐには引き取れず、放置第3日目にシスターがヨルダン西岸側の社会事務所に連絡を取ったところ、この子を殺すという返事をもらい引き取りました。シスターがエナちゃんの治療のため、イスラエル側の病院に向かう様子も流れますが、シスターはイスラエル側のスタッフたちがこの子の「本当のママン une vrai maman 」だとおっしゃっています。
昨年8月から数えただけで、この乳児院に引き取られた子供は26人。イスラームに生まれた子供の養子縁組は難しく、この子供たちもイスラーム家庭が後見人になるに留まっているようです。「障害を持つヒトの価値」についても、互いの宗旨とそれに基づく生活信条を第一にレスペクトするなら、イスラームのこの決断に異教徒が断罪を下す労力を費やすより、キリスト教徒もユダヤ教徒もこのイスラーム家庭に障害を理由に諦められた子供たちのために「できることをしている」ことになります。彼らの生まれた家庭の宗旨を理由に、ユダヤ教徒もキリスト教徒も彼らの生命を軽んじてはいません。ひとりひとりの魂の価値をやがては朽ちる肉体で判断してよいものでしょうか?「判断できる」宗教もあるのです。
分断壁の話に戻りますが、今回のB16聖地巡礼において、教皇さまが直にお目にかかったイスラエル政府関係者もパレスチナ自治政府関係者もヴァチカン政府関係者もこの壁がなぜ存在するのか、たったひとつの理由をわかっているのです。こうして真面目に、互いの生命を大切にし合って生きている人々にこんな壁なんか必要ないこともわかっている。けど、本当にごく、ごく一部の人々が欲する言動から「平和を願っている人々の生命」を守るには現時点でこの壁を崩すのは難しいのです。
さーてさて、私たちひとりひとりができることって何でしょう?

le 14 mai 2009, Matthias


フランスのカトリック系全国紙ラ・クロワ La Croix にこんな記事。
A Gaza : « Pourquoi ne vient-il pas ? »
『どうして教皇さまはガザにいらっしゃらないの?』
いやはやなんとも、どんなに守っても守りきれる保障がないと、イスラエルからもパレスチナ自治政府からも返答があったと言う話ですぐゎ。とは言え、記事の中に、かのガザ地区にもアルゼンチン人のカトリック司祭が住んでおり、今回のB16聖地巡礼に際し、ガザ地区内の約200人のキリスト教信者についてのイスラエル入国許可を申請したものの、95人のみに許可証がおり、彼らは水曜日午前にあげられたベトレヘムのごミサにあずかれることになった、とあります。『ガザも聖地のひとつなのに。"C’est aussi la Terre sainte ici"』という小見出しもこの記事の中にありますが、本当にごくごく一部の人々がねぇ。
地には善意のひとに平和あれ。
...って、善意のひとの心はいつも平和なのに。
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by ma_cocotte | 2009-05-14 16:43 | 『?』なメディテらねぇ | Comments(2)
噂を信じちゃいけないよ。
2009年5月12日、エルサレムはオリーヴ山であげられた野外ミサでの事実。
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Mardi, les fidèles sont venus par milliers dans la Vallée de Josaphat à Jérusalem pour assister mardi à la première messe célébrée par le pape Benoît XVI dans la Ville sainte © AFP PHOTO/JACK GUEZ

日本國内だけでなく、電脳域の日本語環境で絶対禁止と噂されている、いわゆるひとつの「両形態」、英語で書くなら Holy Communion under both kinds と呼ばれる聖体拝領の形ですけれど、
え?「串カツ方式」と揶揄される方々もいらっさる?
教皇さま司式のこのごミサにおかれましては、教皇さまからの聖体拝領は「跪いて口での聖体拝領」ですけれど、他の司祭からの拝領の場合は「両形態」で、ビデオ画面には司祭の手による両形態も、世俗の手による両形態も、はっきり認めることができます。
Messe célébrée dans la Vallée de Josaphat
Diffusé le 12/05/2009 / Durée 90 mn

http://www.ktotv.com/cms/videos/fiche_video.html?idV=00044914&vl=video_nouveautes
↑ 一時間45分目あたりから聖体拝領になります ↑
このごミサをどなたがどのように裁くのだらふ?
どうやら両形態と呼ばれる聖体拝領がカトリック教会において 絶対禁止でない ことだけは間違いあるまい。いったい誰がこの拝領について「絶対禁止」と日本語で伝え始めたのだろう?そもそも、抜本からどこにも、どの文書にも、「絶対禁止」なんて書いていないのに。何語だから信じる、何語だから疑う、というより、「我が目で見りゃわかる」がカトリックのよさでもある。教皇さまの御目の届く中で堂々と「両形態」が行われているのだから、
教皇さまといつも一緒、わたしたちみんな 060.gif071.gif060.gif
それにしても、オソルベシ、日本ビト。

le 13 mai 2009, Notre Dame de Fatima


▽5月13日午前にベトレヘムであげられたごミサのビデオもぜひ
Messe sur la place de la Mangeoire à Bethléem
Diffusé le 13/05/2009 / Durée 90 mn

http://www.ktotv.com/cms/videos/fiche_video.html?idV=00044916&vl=video_nouveautes


追 記 【2009年6月19日、聖心の祝日に】
畏れ多くも、いえ、恐れずに就労先から ラ フランス とおっしゃる方が以下のコメントをくださいました。
Commented by ラ フランス at 2009-06-19 12:16 x
日本で問題とされているのは、セルフインティンクションです。
これは、バチカンでは認められておりません。
バチカンでは、聖職者でない方(世俗の方)の両形態のセルフインティンクションは、行っておりません。この映像は、認可された聖職者のものであり、世俗の方の両形態ではありません。

ブログ管理者様は、読者に誤解を与えぬよう
記事の訂正をお願いいたします。
この方が「バチカンでは認められておりません」とおっしゃるのはおそらく指針あがないの秘跡第104項の一文 ↓ を指して、断言していらっしゃると拝察いたします。
[104.] The communicant must not be permitted to intinct the host himself in the chalice, nor to receive the intincted host in the hand. As for the host to be used for the intinction, it should be made of valid matter, also consecrated; it is altogether forbidden to use non-consecrated bread or other matter. Redemptionis Sacramentum
以上、ヴァチカンの公式英語訳について日本カトリック司教協議会が認可された日本語訳は以下のとおりです。
104. 拝領者は自分でホスティアを御血に浸すことや、御血に浸されたホスティアを手で拝領することを許されてはならない。御血に浸すために用いられるホスティアについては、有効な材料で作られており、聖別されていなければならない。聖別されていないパンやその他のものを用いることは絶対に禁じられる
この英文前半の be permitted to の permit の意味は「許す、許可する」「~させておく」「黙認(容認、許容)する」です。この動詞 permit の語源はラテン語の permiss permitto であり、このラテン語の意味は英語でいうところの to allow、つまり日本語の意味は「許す」「認める」「酌量する」 です。人類の歴史において、このラテン語 permiss permitto が派生した動詞を用いるのは英語だけでなく、フランス語、イタリア語、スペイン語もそうです。cf. http://malicieuse.exblog.jp/11170244/

さて、問題の104項の一部分の文ですが、
The communicant must not be permitted to intinct the host himself in the chalice,
この一文の幹はどうなるでしょうか?
The communicant is permitted to intinct the host himself in the chalice,
です。原文はこの肯定文を not を用いて否定し、助動詞の must を更に添えたのです。この must は「現在または未来の必要、義務、命令」に用い、must の否定形は must not ではなく、need not です。そんぢゃ must not だと動詞をどう補うのでしょう?「当然の推移を含んだ禁止」です。なぜ「当然の推移を含む」のかと申しますと、must という助動詞は「話し手の判断に由来する義務」を命じる時に用いるからです。

肯定文がある以上、許しを得る手段、つまり認可申請 application の方法があるとなります。決して「絶対禁止」と判断できません。具体例は同じ「指針あがないの秘跡」第92項
[92.] Although each of the faithful always has the right to receive Holy Communion on the tongue, at his choice, if any communicant should wish to receive the Sacrament in the hand, in areas where the Bishops’ Conference with the recognitio of the Apostolic See has given permission, the sacred host is to be administered to him or her.

92. おのおのの信者は、自分の選択によって、聖体を口で受ける権利をつねに持っているが、拝領者のある者が手で秘跡を受けることを望むなら、司教協議会が使徒座の承認を得て許可した地域においては、その者に聖なるホスティアを授与すべきである。
permission は動詞 permit の名詞形のひとつで、意味は「許可、許諾、認可」です。そして太字で抜き出した部分「司教協議会が使徒座の承認を得て許可した地域においては」ですが、この動作の流れはカトリックの世界に限らず欧米社会の一般常識で、
認可請求 Application → 委任 Authorization → 認可状 Permission
の流れがあるので、カトリック世界ならば司教協議会が使徒座に行動を起こしての結果、つまり司教協議会の手元に使徒座から委任状、免状が届いた段階で「求めが成就された」ことになり、免状が届かない審査過程であろう段階では、理由や場合によって教区長である司教の判断で暫定的行動ができる場合もあるのです。この第92項の一文後半を否定形に作り変えてみると、理解に至れる可能を個人によっては持っていると思われます。
if any communicant should wish to receive the Sacrament in the hand, in areas where the Bishops’ Conference without the recognitio of the Apostolic See has given permission, the sacred host is notto be administered to him or her.
be administered to ~ について公式の和訳では「授与すべきである。」となっていますが、本来、 be administered to ~ には [ 法律を ]施行または執行する という深意と真意があります。ですから、92項の後半を否定形に変えると、
拝領者のある者が手で秘跡を受けることを望むなら、司教協議会が使徒座の承認を得て許可されていない地域においては、その者に聖なるホスティアを授与することは(法により)施行執行しない
と和訳することできます。
ここで注目すべきはこの104項の主語です。The communicant は拝領者です。授与者が含まれていません。これもカトリックの中の慣習から見れば当たり前のことで、世俗に生きる立場で聖域を抜きにした勝手な判断、独善判断はあり得ないことなので、「授与できる立場を与えられる立場の者」が使徒座に「両形態拝領の許しをいただく手段」が原則としてあるということになります。
仮に、聖域側において日本の司教協議会と使徒座の間で
認可請求 Application → 委任 Authorization → 認可状 Permission
の作業中だとするならば、教区長判断で両形態拝領の委任を小教区長または修道会によっては修道院長に出すことができる事項もあるのです。全ての事項について平らに等しく委任が出ません。
そもそも、セルフ・インティンクション self-intinction という英語風の単語ですが、ヴァチカンの公式英語訳「あがないの秘跡」においてこの単語は用いられていません。他の文献でも見受けませんので、典礼秘跡省で認められた単語ではなさそうです。

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この写真 ↑ の掲示は以下のように書かれています。

DANS UN MONASTERE VOUS AVEZ LA POSSIBILITE
DE COMMUNIER AU PRECIEUX SANG.
IL EST CONSEILLE DE COMMUNIER PAR INTINCTION.
VOUS GARDEZ L'HOSTIE DANS LA MAIN ET VOUS
LA TREMPEZ DANS LE CALICE QUI VOUS EST PRESENTE.


日本語訳は以下のとおりです。

この観想修道会においてあなたは貴重な御血を拝領することができます。
"Intinction アンタンクシオン"による拝領をお勧めします。
(つまり、)あなたは の中に ホスチア を保持し、
(続いて、)ホスチアをあなたの前に差し出されたカリスに浸します


フランスも聖域において認可申請中であり、ヴァチカンの典礼秘跡省からの正式な返答(禁止または認可)を待つ間は各教区の長上である教区長の判断に一任されているそうです。将来、典礼秘跡省から正式な通達を拝受した時点で、その考えに全司教が従うことになります。そういう聖域側の動きについて世俗が全て万遍なく把握することがあるのでしょうか。
しかも、上の写真の小聖堂でも
DANS UN MONASTERE VOUS AVEZ LA POSSIBILITE
DE COMMUNIER AU PRECIEUX SANG
.

この観想修道会においてあなた貴重な御血を拝領することができます
と、「Vous あなた(方)」が「La possibilité 可能性」を「Avez 持っている」のであって、小教区聖堂に認可状を出した司教さまはなんら拝領者に両形態拝領を強制していません。拝領者個人ができないならしなくていいのですよ。実際、私が傍観している限り、舌でいただいた拝領者は必ずしもカリスに触れることもなく、ご自分の席に戻っています。

そんなわけで、ヴァチカンの求めに絶対従わない司教さまなんて、現在のところFSSPXの司教方しかおりません し、日本語で電脳上で流されている「ヴァチカンに従わない司教さまと神父さま方のせいで両形態したくないのに世俗の私はさせられている」というような悲劇はヴァチカンに直訴したところで「だったら、祈りに祈ってご自分で判断なさい」とお返事をいただくでしょう。書面ではなく、司祭方と
面と向かっての相談事ならば。
です。ヴァチカンは世俗に対し良心が痛むことを権威で押し付けてもいないのに、聖域で住まう方ではなく世俗が「これは、バチカンでは認められておりません。」と、読者に誤解を与えているのです。そのセルフ・インティンクションを拝領者本人がしたくないなら、自分で判断し、しなければ良いのですよ。短絡的に教区や小教区、司式司祭のせいにして、自分は正しいという主張はいかがと思います。

そもそもヴァチカンの聖ペトロ大聖堂で私はセルフ・インティンクション(?)なる両形態拝領を見ました。そばにいたヴァチカン職員方はどなたも止めませんでした。事前にヴァチカンから認可を頂戴した司教司式のミサだったからでしょうか?聖域の書類の流れは世俗が知る必要なく、基本的には従順・恭順。ですから「バチカンで認められていない」というコメントをこうして頂戴したところで、ヴァチカン市国内の現場においてこの目で見た私は同意もできませんし、このコメントに従うこともできません。

Messe à Montecassino
http://www.ktotv.com/cms/videos/fiche_video.html?idV=00045132&vl=video_nouveautes
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by ma_cocotte | 2009-05-13 21:21 | 『?』なKTOりっくん | Comments(14)
きょう、知った。きょう、思い出した。
ココんちから二番目に近い教会は、かつてナポレオン三世がこの田舎町の発展のために未開発の野原にひとつの国鉄駅と二つの教会を寄付したうちのひとつです。ところが、教会聖堂が完成したのは1906年だったので、1905年12月に施行された政教徹底分離法、いわゆるひとつのライシテ Laïcité 前に建築終了できなかったので、この教会聖堂は教会財産となり、外装内装とも維持は100%、仏蘭西カトリック教会の責任で行わなければなりません。きびしーっっ!

その教会に今日、行ってみました。
いちおう天上からこの教会を見下ろすと東に頭を向けた十字架の形なので、右腕脇の入口から入ってみました。
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聖女の像が置かれた祭壇を仰ぐと、
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ぢぇず・くりぃ  Jésus Christ


更にそっくり返って見ると、天井につながる壁画は
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天使に救われたパウロでしょうか。


聖堂の右脇入口のドアから入っただけでは聖女の像しか目に入って来ないのに、
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聖女のおそばにおそるおそる寄って、天を見上げれば、今もいつもこの聖堂が存在しなくなる日までイエズスさまが聖女を通して大地を見守っていらっしゃることに気づけます。

後ろによろけてしまいそうなほどそっくり返って、壁に貼り付けられた、ところどころ破れ始めている油絵のパウロを仰ぎながら、どうして天使はパウロを救ったのだろう?そりゃ、心から改心し回心したからでしょ?などと自問自答しているうちに、どういうわけか子供の頃、聖母は生まれながらに罪を持たない無原罪だけれど、私たちは原罪を持っているので難しいけれど、一生かけて少しでも聖母のような真っ白な心に戻すよう努めなければならない、と教えられたことを思い出しました。

んなわけで、清い心は他人から植え付けられるものではなくて、まず自分で心を掃除して、できるだけマリアさまのこころに近い心にしなければならないンだな。そのために互いに互いの神さまを忘れたような言葉や態度に気がついたら、互いに励ましあってお掃除し合う、と。そのための労苦はヨゼフさまを思えばなんのその。私たちが一生かけて目指す「マリアさまのこころ」は全てを包み込むほどの青空で、母の心音のように穏やかなうぐいすで、酔いしれるほどの香りの山百合で、他人が眺めたらサファイアのように高貴で美しいけれど、マリアさまのこころには樫の木のように愛するものを守る強さもしっかり備わっているのです。

天使に救われたパウロに戻りますが、ファリサイ派ユダヤんのお金持ち家庭育ちの坊ちゃまエリートのサウロが人生の途中でイエっさんからの莫大な援助があったとはいえご自身の心の掃除をするにはどれほど苦労されたでしょう。使徒行伝なんぞパラパラしますとかなり喧嘩っぱやいし、馬鹿が嫌いなパウロくんのように見えますが、一生かけて自らの魂を育て続け、うっかりしてしまった愚についてのお掃除も怠らなかった。自分の身体のどこかの老いに気づいたら、天に帰る魂を真面目に育て始めよというサインですね。
パウロの欠点の真似は容易いんだがのぉ・・・。


le 10 mai 2009, Solange

現在、BGMは 今朝、アンマンであげられた教皇さま司式ミサ ですけれど、このアラビア語の朗唱や聖歌が醸し出す雰囲気が面白い。新しい世界発見!ですけれど、実はイエズスさまが耳にした音楽、発した言葉に近いのです。会場を準備した方々、参列者の思いが伝わって来る「手作りのごミサ」に、感動。
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by ma_cocotte | 2009-05-10 20:29 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
窓の外はピーカンだけれど、
我が心に雨がそぼそぼ降る降る。
めそめそしていたら、なぜか母が好きだったこの曲を思い出しました。




東京都内某百貨店でこの音楽が流れますと外で雨が降り始めたことになります。


心に雨が降ったら、降らせておこう。こんな時にはヂャック・プレヴェール Jacques Prévert の詩集をパラパラしたり、フィツヂェラルド F. S. Fitzgerald の「雨の朝、巴里に死す」を読み返すなんてどうだろう。どんな大雨でもいつかは止み、空には虹がかかり、鳩がオリーヴの枝を持って来てくれるものです。
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↑ 早朝のヴァチカン庭園で見た小さな虹に、Grazie mille! ↑

虹は祈りが届いたという天からのお返事です。そんな虹も水と光と空気があればこそ現れます。虹を眺めつつ契約のしるしに感謝したら、こんな曲 ↓ を鼻歌しながら労作に勤しむのも晩春から初夏の楽しみです。





元気のおすそわけ。゚+。:.゚ヽ(=´▽`=)ノ゚.:。+゚
日本では映画監督ヂャック・デミ Jacques Demyの作品でも1964年の「シェルブールの雨傘」の方が知られていますが、フランスではこの1967年の作品 Les Demoiselles de Rochefort (日本語タイトルはなぜか「ロシュフォールの恋人たち」)の歌曲の方が廃れることなく繰り返し唄い継がれています。胸にきゅぅうんとせつない音楽は日本びと好みなのでしょう。どちらもミシェル・ルグラン Michel Legrand の作曲。メロディが今も古さを感じないと思うのは自分が高齢だからでしょうか?それに、画面のこのお洋服、めっさかわいいンですけれど。長方形と三角形の布の組み合わせでこんなにかわいいワンピースが作れるのですね。
舞台となったロシュフォール Rochefort はココんちからそんなに遠くないので、この夏、行ってみたいかも。水兵さんに会いに・・・ヽ(`▽´)ノ ロシュフォールは大西洋側の軍事都市のひとつなのであります。

・・・・と、こんな文を書いているだけで心の雨は止む方向に。
雲間が割れて、マリアさまのマントが裾を開き、やがて太陽が現れます。

心にそぼ降る雨がきっかけとは言え、おカトリーヌ・おドヌーヴさまを思い出してしまうとは、カンヌ映画祭がまもなく開幕だからでしょうか。今年は5月13日から24日まで、です。http://www.festival-cannes.fr/fr.html

なんだかカテゴリーわけの難しいミュルミュル murmure つぶやきだっちゃ。
見ろよ、青い空、白い雲
そのうちなんとかな~るだろー
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le 5 mai 2009, Judith
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by ma_cocotte | 2009-05-05 22:57 | 『?』なたわ言 | Comments(6)
ひとりで嫌いになれないのかしら。
先週から不可解な話の流れを電脳域で見ています。
事の発端は4月19日日曜日、神奈川県のカトリック教会に所属する方が東京都内の或る修道会管轄小教区教会(I 教会としよう)の主日ミサで聖体拝領時に聖体を口で受けようとして対面した司祭に拒まれたことを某SNS内のこの I 教会に関わるコミュニティにトピックスをたてて訴えたことです。すかさず30分未満でレスがつき、そこには司祭が聖体を口で受ける信者を断ることはできず信者は聖体を口で受ける権利が保障されており一司祭の裁定でこれを侵害することができないから、ただちに主任司祭に報告すべきだという勧めが書かれていました。

I 教会は私も知らないわけではない教会であり、学生時代は一週間のうち十日ほどココに入り浸り、昨年春は信者でもないのに主日ミサの中で私の母の名を読み上げて参列者のみなさま方に祈っていただきました。一方、主任司祭に報告を勧めた方は I 教会には関わりのない方であることも知っていました。なぜ I 教会のビジターである二人がこのSNS 内に存在するカトリック・コミュニティでトピックスを立てずにわざわざ I 教会にゆかりあるヒトが集うコミュニティに登録して討論を始めたのかも何だか不思議よね・・・

そんなことを思いつつ、この話題を静観しておりましたら、22日になって、トピックスをたてたご本人からこの神父さまにハンディキャップがあるため口に聖体を乗せるのを躊躇われたことが書かれました。それを私も読んだので これにて一件落着ぅうう060.gif かと思った私が甘かった。ヽ(`Д´)ノ マタかい? トピックスの最初で主任司祭に報告するように勧めた方が更に、口でいただくというのが単なる形式ではないことをスペイン人枢機卿のインタビュー記事を例に挙げて知らせ、その上、キリストが手による聖体拝領が各地で大規模に導入されたことに対し、大変に悲しみ苦しんでいる、と断言したのです。
なぜこの方にイエズスさまの感情がわかるのでしょう?
素朴な疑問です。口でのみの聖体拝領がカトリック教会で決まったのは16世紀だったかと思われますので、イエズスさまの帰天から1500年後のことを更に500年後の今、まるでイエズスさまの表情を直接見たかのように表現できるのはなぜでしょう?「悲しみ苦しんでいる」と聞くと、仏蘭西はアルプス山中のラ・サレットに現れた聖母を思い出しますが、イエズスさまもどこかで姿を現して嘆かれたのでしょうか?

ヴぃっくりはこれだけでなく、この論客さんは昨年夏のオーストラリアはシドニーで開催されたワールドユースデイのミサにおいても聖体は口にしか授けられず、手での拝領は禁止されていたと断言しているのです。¢( ・_・) そりゃ、ちがうでしょ? と蛍光灯の私の脳がめずらしく豆電球並みに反応し、KTO でビデオ・アーカイヴを検索してチェックしたら、教皇さまから直接、ご聖体をいただく場合は教皇さまの御前に跪き台が置かれるので、そこに跪き、口で聖体をいただきますが、他の司祭からいただく場合は直立に起立し、手で拝領することもでき、それはしっかりシドニーだけでなく来仏時も訪米時もアフリカ訪問時でもヴァチカンでも同様にそれぞれの記録ビデオ内で認めることができました。どこが禁止なんでしょう?何を証拠に禁止と断言できるのでしょう?不思議です。

時が流れるのは早いもので19日から7日が過ぎ26日、この I 教会であげられたミサの中で、19日に口に聖体を置かれるのを躊躇われた神父さまから聖体拝領前に「私は、口による聖体拝領は全く問題ないと考えている」とまず冒頭で述べられ、ご聖体を誤って床に落としてしまう危険と豚インフルエンザなど疾病の感染についてお話があったそうです。この I 教会コミュニティの 管理者 が偶然にも該当司祭の司式ミサにあずかり、神父さま方がおっしゃったことをコメント欄に掲載したことでこのトピックスは今のところ沈静しています。

そして今、私の耳や目に入ってしまったことはこの件が別の電脳域でも騒がれ同時進行だったということ。毎度書きますが、無知なら罪にならないけれど、知ってしまったからにゃあ、今回の場合は思いやりと臨機応変で各自が動くのが I am Catholic ありましょう。どんなTPOでも 絶対跪いて口で聖体拝領 なんて誰が決めたのでしょう?聖書にそんなシーンはありませんし、教皇B16でさえ「絶対何が何でもそうせよ」と聖俗を威圧したことなんてありません。それをまるで教会や教皇がそうシモジモに強いているかのような話に変わるのは日本國が島国だからでしょうか?十年前なら通じる伝説も今は教皇庁でさえYouTube専門チャンネル http://www.youtube.com/vaticanit を持つくらいですから事実確認は簡単にできます。
それに、I 教会に異議があるなら教会籍を移動してから段取り踏んで改善に努めたらどうなんでしょう?東京はじめ首都圏は教会を選ぶ余裕があるほど存在するのですから、ご自分の希望どおりの教会におみ足運ばれるのがよろしいのでは、と思います。私ならそうします。と書いたところで自分の思い通りの教会なんて世界のどこにあるのでしょう?

で、偶然の一致だと思いますけれど、今週に入って I 教会を管轄する或る修道会(J 会としよう)についての批判が電脳域でいっそう過激になっており、これもまた驚き。電脳域でつとに有名な関東在住の「立派なカトリック信者さま」が関西にお住まいの J 会所属の修道司祭(M 師としよう)についての批判を述べてらっしゃいました http://6019.teacup.com/sdyosefu/bbs/3133。4月28日付でこの方は以下のようなことを電脳上でおっしゃってます。3月の教皇さまのアフリカ訪問時におけるコンドームという語を用いての諸発言について、J 会のM 師が真っ向から反対意見を述べた、と。まあ、ここまでは私もM 師のブログを愛読しておりますので察しが付きますが、そこから先、お目目が @ @ きよっさんになるほどぶったまげました。こうあった。щ(゚Д゚)щ
教皇は、コンドームではエイズを防げないとおっしゃっています。
「純潔教育が必要である」とおっしゃっているのです。
( ̄□ ̄;)エエエエエエエエエ、いつ? どこで?
んなこと、教皇さまは一度もおっしゃっていませんぐゎ。それになぜこの方は
教皇さまが「純潔教育が必要である」とおっしゃっているのです
と、断言できるのです??????
教皇さまは毎度、いつでもどこでも、ヒトが生きていく上において何事にも「愛を忘れてはならない」とおっしゃっているのは誰もが知っていることですけれど、純潔教育ぅ、なにそれ? B16に限らず歴代教皇さまはもちろん、カトリックでは「愛のない性的関係はいけません」という根本があり、M 師だってその点を否定してはいないでしょう。「そこに愛がある」なら、もし子供が結婚より先にできたとしても教会はそれなりに厳しくも愛をもって導いてくれることをご存知の方は多いはずなんですが。逆に「そこに愛がない」から世知辛い社会で諸問題が勃発するというのはカトリックが常に要理でも結婚準備講座でもカトリック系中高の授業でも語っていることです。で、純潔教育って何?そもそも、このアフリカ訪問時の機内での教皇発言 についてはエイズ問題に取り組んでいるカトリック世俗団体 Sant'Egidio サンテジディオ が教皇さまに直にご意見申し上げたことについて教皇さまが賛同の上、代弁していることは教皇さまのご発言全文を見れば明らかですし、アフリカには以前として部族遊牧民がほうぼうにおり、彼らに必ずしも結婚の概念がないことから カトリック宣教にあたって「愛」を教えることだけでもエイズ罹患率が下がっている 事実もあるって私も以前、地元司祭から教えていただいた話を含めて書いたことがあるのですが。「アフリカの人々は教皇さまが言わんとしていることを理解しているのに、欧米人が理解できないと大騒ぎしているのは別の理由があるからだ」と 仏蘭西の一部の識者が指摘していること、私は頷けたりします。アフリカの人々のひとりでも多くが「愛」と「結婚」を知り、愛する人と幸せな家庭を作り、各家庭の平和がつながりますように。

とっころで、きょうび「純潔教育」という言葉ですけれど、調べてみたところカトリックではなく他の某宗教団体で好んで用いられているようです。URLをココには貼りませんが、「純潔教育 カトリック」で検索したら、上のコメントとほぼ同じ意見文を掲載したブログを発見しました。欧州某所のUN記者室から発信しているんですと。そのリンク先が・・・_| ̄|○ やっぱりそうだったのか。私には書けません。

これでは J 会や M 師に異論を唱えるというより、ひとり勝手にカトリックの外のあらぬ方向に飛んで行ってしまっていると言うか、J 会を嫌うにしても、I 教会に不満があるにしても、M 師が気に食わないにしても、おひとりでその感情を昇華することができないのでしょうか?仲間を集めて一緒に同じターゲットを嫌いになりたいのでしょうか?それとも仲間を集めて共にあらぬ方向に向かわれるが真の目的でしょうか?
気をつけましょう、主の平和のうちに
どうか無知による単語の誤使用でありますように。

le 29 avril 2009, Catherine de Sienne
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by ma_cocotte | 2009-04-29 02:59 | 『?』なKTOりっくん | Comments(168)