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ノエル直後の日曜日は「聖家族の祝日」-親と子を考えてみる-
ノエル直後の日曜日はカトリック暦で「Sainte Famille 聖家族の祝日」です。今年のノエルは土曜日だったのでいきなり翌日の日曜日がその祭日となりました。人々がそれぞれ「家族」について考えるための一日でもあります。こんにちは「親と子」について私が最近思うことを書いてみます。

毎年「聖家族の日曜日」のごミサで読まれる福音はマタイ2章13-15節と19-23節です。このエピソードも四福音のうちマタイにのみで語られており,以下のように記述されています。
主の使いが夢でヨセフに現れて言った,「立って,幼な子とその母を連れて,エジプトに逃げなさい。そして,あなたに知らせるまで,そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して,殺そうとしている」。そこで,ヨセフは立って,夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトに行き,ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは,主が預言者によって「エジプトから我が子を呼び出した」と言われたことが,成就されるためである。(マタイ2章13-15節)

この文章での「主の使い」は大天使,「幼な子」はイエズス,「その母」はマリア,「ヘロデ」は当時ユダヤを治めていた王のことです。
ルカ福音にはベトレヘムの馬小屋で誕生したイエズスが8日目に割礼を受け,モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎた時にエルサレムに上り,律法に定められたとおり長男であるイエズスを神に捧げ,山鳩ひとつがい(または家鳩のひな二羽)を犠牲として捧げたと書かれていますが,マタイ福音にはこのエルサレムでの話は書かれていません。時系列に謎が残りますが,エジプトへの家族三人の逃避行はこのエルサレムでの割礼やきよめを過ぎてから実行されたのだろうと言われています。
聖家族三人がエジプトに去ってまもなく,ヘロデはベトレヘムとその付近の地方に住む2歳以下の子供をすべて殺しました。天使がヨセフの夢枕で告げたことが本当に起こったわけです。
さて,ヘロデが死んだのち,見よ,主の使いがエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った,「立って,幼な子とその母を連れて,イスラエルの地に行け。幼な子の命を狙っていた人々は死んでしまった。」そこでヨセフは立って,幼な子とその母とを連れて,イスラエルの地に帰った。しかし,アケラオがその父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので,そこへ行くことを恐れた。そして夢でみ告げを受けたので,ガリラヤの地方に退き,ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが成就するためである。
(マタイ2章19-23節)

今から2000年前の話です。今よりも天と地が近くにあったのでこういう不思議な話があったのでしょう。聖書に限らず日本書紀や古事記,ギリシャ神話でも天上の神々はたびたび地上にやってきては善行やら気まぐれをやらかしました。今の地球は神様が遊びに行くのを躊躇ってしまうほどの環境なのかもしれません。

それにしてもナザレの工務店経営ヨセフさんが経験したことは不思議なことばかりです。夢枕に天使が現れて彼に助言するのですから。私たちが不思議に思う以上にヨセフさん本人が「マジかい?おい?」と疑問に持ったのは確かでしょう。でもヨセフさんは天使さんの言葉を信じてみることにしました。結果として天使が彼に告げたことはすべて実現されました。もしヨセフさんがちょっとでも疑い躊躇ったなら現代にキリスト教は存在しません。

一家の大黒柱のヨセフさんが天使の言うことを信じて従ったこと,そのヨセフさんに妻マリアさんが従ったこと,赤子のイエズス(神の子)がこの両親に従ったことがこの箇所における重要点です。家庭の中で互いに尊敬し信じ合うという単純な図式です。

21世紀を迎えた現代では幼児虐待もあれば,親を疎んで殺す子まで現れるようになりました。そういう事件が起こるたびに「親子関係」を大それた理屈で語る人々も登場するようになりました。
果たして親子の関係はそんなに小難しいものでしょうか?

キリスト生誕前の話を思い起こしてみましょう。
石女(うまずめ,子供を妊娠できない女性)と揶揄された老女エリザベトは神の意志で男児を出産しました,15歳の処女マリアも神の意志で男児を身籠りました。神にできない業はありません。
でも悲しいかな,今は神さまが地上に遊びに来ることはありません。(おそらく)
だから神さまは遠い存在なのでしょうか?
この世には畏れ多い神なんて存在しないのでしょうか?

いえ,「神」という言葉をはぶきましょう。
この世には「畏れ多いもの」は存在しないのでしょうか?
「畏れ(おそれ)」は発音は同じでも「恐れ」でもなければ「怖れ」でも「懼れ」でもありません。「尊敬の念」に等しい語が「畏れ」に当たります。
最近,無神論者だろうが何らかの宗教を信仰していようが,お金,地位,成績など目に見えるものしか信じない人が増えているように思います。目に見えずとも「畏れるような何か」を個々人が身近で感じることができたら幼児虐待やら親殺しの愚行なんてできないはずです。
「畏れ多いもの」を知るというのは立派な勉学を積まなければならないような大それたことではなく,親子が互いに尊敬しあう家庭なら自ずと見出せるのです。一家庭の中で子は親の生き方を見て「畏れ多いもの」を知ることができます。親は神さんが与えてくださった子供から「計り知れない力(畏れ多いもの)」に気付いていきます。
親は子育てによって更に精神的に成長し,子は親を見て肉体が成長しつつ心身ともに一人前なっていく。
新約聖書には13歳から布教に出る30歳までのイエズスさまの生活について何も書かれていません。ナザレトという田舎町で工務店を経営する父ヨセフの勤労する後姿を見,ある時は手伝って,そうすることで何かを学びながら「工務店の長男坊」は成長したはずです。2000年前の異国の話ですが,現在の親子関係の抜本とまったく同じです。目に見えるものをことごとく省いた「ひとつ屋根の下の家族の在り方」は時空を超えて同じではありませんか。

何世紀もの間カトリックを信仰してきたフランスでは子供は「我が子」である前に「神さまから預かったもの」です。いくら努力しても子供が宿らないこともあれば,望まないのに子供が宿ることもあるのは「神さまがいるからこそ」と信じられてきました。結婚する時も子供に洗礼を授ける時も教会では「神さまから預かったものに最良の生き方を与えるように。子の模範となるように。」と夫婦に指導します。そんなフランスでも最近では幼児虐待の話が多く出ており,「神さま(=畏れ多いもの)を忘れたからだ」という言葉も聞こえてきます。

最近の日本では子育てのために胎内教育,はたまた生後3か月から赤ん坊に通信教育を施している方々がたくさんいますが,家庭外や他人に我が子の教育やら性格向上手段を見つけ出す前に,先ずは我が身の心身を省みることが現代21世紀だからこそ大切ではないでしょうか?
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Vitrollesのノエル市にいた「愛の逃避行屋」ロバくんです。
ロバは「力持ちの働きもの」としてフランスで愛される動物です。
南仏では至るところでロバさんに会えます。
かわいいよぉ♪
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by ma_cocotte | 2004-12-27 10:03 | 『冬』 Rien de special | Comments(0)
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