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Je suis prêtre, juif, et fils d'immigrés.
Le cardinal Jean-Marie Lustiger, ancien archevêque de Paris, est mort samedi à l'âge de 80 ans d'un cancer.
ヂャン・マリ・リュスティジェ枢機卿(前パリ大司教)は土曜日、癌のため80歳で死亡。 
但し、《日曜日に死亡》と発表している記事も多々ある。
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2005年2月20日、公における最後の司式ミサでのリュスティジェ枢機卿 Photo par AFP

この週明けは朝一番から深夜のニュウスまでトップはずーっとJean-Marie Lustiger ヂャン・マリ・リュスティジェ枢機卿の帰天についてでした。フランスという国は報道においても週末がある、と言って過言でない国で、例えばインターネットで国営放送の日刊情報を登録しても土日はしっかり休刊だったりします。そんなわけで土曜日にリュスティジェ師の帰天したことについても月曜の夜明けに皮切りのような形となりました。パリのノートルダムでは月曜日午前8時半、リュスティジェ師の帰天を告げる24回弔鐘をパリの空に轟かせました。1905年に徹底政教分離法が施行された国とは言え、21世紀も7年が過ぎたのに宗教界での有名人の死が世俗ニュウスのトップで扱われるフランスは日本びとから「暗黒の中世共和国」と冷笑されても仕方ないのかもしれません。

・・・が、リュスティジェ師というのはそれだけフランス共和国における聖俗両面から注目されるに値すべき一生を送ったヒトだったとも言えます。第一次大戦でフランスに逃れたポーランド移民の二世、ユダヤ教からの改宗者、身内をアウシュヴィッツで亡くすなど、20世紀という時代の申し子だったかもしれません。

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リュスティジェ師が最後に公に姿を現したのは今年1月26日に行われた
ラベ・ピエールの葬儀 で共同司式された時でした。式後、シラク大統領と共に退堂でしたね。

葬儀ミサは8月10日午前10時より、パリのノートルダム大聖堂にて。
昨晩21時半からノートルダム大聖堂においてTransfiguration (主の変容)のミサをあわせてのリュスティジェ枢機卿追悼ミサが行われました。ビデオはこちら。
Messe en hommage au Cardinal Lustiger
フランス語ミサに親しんだことがある方ならば懐かしい聖歌とラテン語によるキリエやグロリア、奇抜さの何もない1967(Paul VI)ミサの典型かも。

Le 8 août 2007, Dominique




✝ Jean-Marie Aaron Lustiger について長々と以下に述べます。

リュスティジェ師は1926年9月17日、パリ12区でメリヤス・毛糸屋を同18区で営むユダヤ系ポーランド移民家庭に生まれました。姉と二人姉弟。本名はAaron Lustiger、アァロン・リュスティジェ。彼の母方の祖父はポーランドのBedzin(フランス語読みだとベドゥザン)のラビであり、ユダヤではアシュケナジ系のLévi レヴィ(祭祀を司る家系)に属する家でした。第一次大戦を契機にフランスに移住した彼の両親(父Charles シャルル、母Gisèle ジゼル)は必ずシャバットにシナゴーグへ通うほどの熱心な信者ではありませんでしたが、子供二人にはユダヤ人としての倫理道徳と生活習慣を厳しく教え込みました。アァロン少年が11歳の夏(1937年)、彼は独逸の一般家庭に寄宿してヴァカンスを過ごすことになり、そのひと夏で彼は生まれて初めてその家で見つけたプロテスタントの聖書を読み耽ったり、フランスより早く独逸におけるナチスの実態を目の当たりにしたりと、どちらも彼にとってショックな出来事でありました。そして、ヴァカンスを終えてパリに戻った彼はこの家で新約聖書を読んだことを決して他言しませんでした。
第二次大戦が始まってすぐ、彼の両親は子供二人をパリの南の小都市オルレアンに匿いました。幸か不幸か親から離れての生活を始めたことで、アァロン少年はオルレアンでカトリック教会の中身を知り始めてしまいました。1940年、14歳になったアァロン少年は自分でカトリック改宗を決め、同年8月25日受洗。アァロン少年は洗礼名にJean (ヂャン、=ヨハネ)とMarie (マリ、=マリア)を選びましたが、アァロンの名前も捨てない、忘れない、と決意し、その後はジャン・マリに続いてアァロンを置く形で名乗るようになりました。洗礼を境にJean-Marie Aaron Lustiger としての人生が始まったのです。息子がひとりで決めた改宗の決意に両親は最後まで納得しないままでした。独逸滞在中、新約聖書を熱心に読んだことも自分の胸に秘めたままだったのに、突然のアァロンの改宗宣言で家庭内は戦争のごとくだった、と彼の姉が後述しています。

一方、彼の両親は子供を地方に隠しつつパリで胸にはl'étoile jaune レトワル・ジョゥヌ (=黄色い星)、すなわちダヴィド十字の真ん中に juif ジュイフ、=ユダヤ人と書かれたワッペンを身につけての生活を続けていました。1942年9月10日、父シャルルが旅に出てすぐ、隣人の密告により母ジゼルは捕らえられ、その後アウシュヴィッツで帰天。息子アァロンがアウシュヴィッツに初めて訪れたのは終戦から38年後、パリ大司教就任二年後の1983年6月のことで、
"Je ne voulais pas y aller seul" 
私はあそこにひとりで行きたくなかった。
この初めての訪問にAlbert Decourtray アルベェル・ドゥクルトゥレ枢機卿 に同行してもらったこともリュスティジェ師は告白しています。

第二次大戦終戦後、パリに戻った彼はソルボンヌの文学部に入学。ほぼ同時に召命を告白し、カトリック司祭の道を歩み始めました。1954年、叙階。最初の使命はソルボンヌとグロンゼコールの学生付き司祭、43歳になった年、パリ16区のSainte-Jeanne de Chantal サント・ジャンヌ・ドゥ・シャンタル教会の小教区主任司祭となります(ここでの助任が現パリ大司教のヴァントワ師)。1979年、ヨハネ・パウロ二世によってオルレアン司教に任命され、1981年パリ大司教、1983年には枢機卿。2005年、パリ大司教の座をAndré Vingt-Trois アンドレ・ヴァントワ師に譲った翌年10月、リュスティジェ師はパリ大司教区内の全司祭と助祭に自身が重病にあることを手紙で送付しました。そして今年4月よりパリ15区のホスピスに入院、8月5日そこで息を引き取りました。

リュスティジェ師の運命なのか司祭になっても尚、1968年の学生革命やミッテランの社会主義時代、更にはポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世との出会いがあり、司祭になる前のアァロンと呼ばれた時代を大きく生かす後半生になりました。このエントリーのタイトルにもなっている
Je suis prêtre, juif, et fils d'immigrés.
私は司祭であり、ユダヤ人であり、移民の息子である。
は、彼が繰り返し口にしていた自己紹介の台詞でした。ところが、彼が司教職という誰もが知る地位についてすぐ、世界中の一部のユダヤ人から「ユダヤ教からカトリックに改宗した者はもはやユダヤ人ではない。自らを《Juif ユダヤ人》と名乗るのは止めよ。」という意見が主張されるようになりました。が、これについてもリュスティジェ師は14歳の改宗時に自分が決してAaron という名を捨てなかったのは、自分の両親がユダヤ人であり、自分の親戚も先祖もユダヤ人であり、現在に至るまで(そして未来も)自分の生活と思想にはユダヤの習慣と教えが深く関わっているので、《Juif、ユダヤ人》は自分のアイデンティティだから捨てることはできない、という持論を固持し続けました。
Comment pourrait-je cesser d'être juif?
どのようにして私がユダヤ人であるのを止めることができるのだ?
リュスティジェ師がつぶやいたとされる有名な言葉です。
彼の人生経験そのものが第二ヴァチカン公会議以降のカトリックと教皇ヨハネ・パウロ二世が推進したエキュメニカル運動そのものだったとも言えます。まさにリュスティジェ師の西欧にいながらにしてユダヤ・アイデンティティを固持する考えはインカルチュレーションにもつながり、カトリックという枠を抜けて国際間距離が密になった世界で熟考すべきことでもあります。少年時代、ユダヤ人ということでいぢめを経験したリュスティジェ師は移民問題山積だったミッテラン政権での相談役にもなり、ミッテラン大統領の葬儀ミサでも司式は彼によるものでした。1996年5月23日にはアルジェリアの観想修道院に住む7人のフランス人修道僧がイスラム原理主義者によって誘拐、殺害という悲劇があり、彼らの追悼ミサを司式したのもリュスティジェ師でした。

ポーランドつながりをきっかけに神学の好みなどが共通してヨハネ・パウロ二世(=JPII)に信頼された彼は、ラッツィンガー枢機卿(現教皇ベネディクト16世)と共にJPIIの重要ブレインのひとりとして知られるようになります。ところが、JPIIの暗殺未遂事件を経て病状が目に見えて悪化し始めてから、
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『私達の次の教皇はユダヤ人かもしれない』

という噂が流れもしました。実際はリュスティジェ師はラッツィンガー枢機卿に票を投じたんですがね。フランスでは教皇JPIIの代弁者と呼ばれ、聖座への絶対忠誠者としても知られるリュスティジェ師はしばしばフランス司教団と意見が対立したとも言われています。2000年、ヨハネ・パウロ二世の聖地巡礼に随行、2006年5月28日にはポーランド訪問中のベネディクト16世の要望によりアウシュヴィッツでの式典に随行。
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2005年4月10日、収容所解放60周年式典に参列した時のリュスティジェ師 photo par AFP

フランス国内では1996年Reims ランスで行われたクロヴィスの受洗後1500年式典、翌年1997年パリで第七回ワールドユースデイに二年連続で教皇を招くという快挙、フランス国内のカトリック系メディア(1991年にラジオ局Radio Notre Dame、1999年にテレビ局KTO)の開業、フランス語による典礼など改革者としても知られるようになりましたが、一方で1988年ルフェーヴル派事件(エクレジア・デイ関連)の際にただちにパリ大司教区内の3教会にピオV世(1962)ミサを続けるように認可を出すなど、見事な采配と近未来への読み(つまり今年7月7日付のMotu Proprio)を今に披露しました。ただひとつ、枢機卿にまでなった彼がフランス司教団の長上になれなかったことはフランスカトリックの七不思議のごとく語られていたりもします。
リュスティジェ師の世俗での活躍といえば、1995年6月より、信仰について書かれた多くの著書が認められ、アカデミィ・フロンセーズ会員に選出されたこと。彼の席、第4番の前着席者は彼の初めてのアウシュヴィッツ訪問に付き添ってくれたAlbert Decourtray アルベェル・ドゥコウルトゥレ枢機卿でした。
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2006年6月22日、アルジェリア人女流作家Assia Djebar アッシア・ヂェバルの講演にて Photo par AFP


今週金曜日、8月10日午前10時からの葬儀ミサでは、リュスティジェ師の従兄であるArno Lustiger アルノ・リュスティジェ氏(独逸在住の歴史学者らしい)が旧約聖書の朗読とKaddish カディッシュと呼ばれるユダヤ教の葬儀で読まれるものを朗唱することになっているそうです(しかもアラム語だそうだ)。ミサにおいてアルノ氏だけでなく、リュスティジェ師の甥、姪の子供たちが家族としての弔文も読む予定。

以上、長くなってしまいましたが、私個人は1999年にフランス共和国に入国以後、花の都はパリの大司教であるリュスティジェ師についてあらゆる媒体ですぐに知ることができました。最初はあのノートルダム右隣の司祭館にお住まいなのか、とミーハーな色眼鏡でしか彼を見れなかったけれど、リュスティジェ師がユダヤ移民の子であり、改宗者であり、母上をアウシュヴィッツで失い、ご自身が改宗したことで糾弾されたり、と詳細を知るたびに私にとっていろいろな面から考察する対象にもなりました。威勢のいい、オーラがあると表現していいようなリュスティジェ師がJPIIの帰天後、どんどんやつれ、声も割れ、張りを失っているのが痛々しいほどでした。パリ大司教の座を去られたにもかかわらず、2006年5月の教皇B16のポーランド訪問でアウシュヴィッツ同行を求められ喜んで現地に馳せ参じたリュスティジェ師ですが、大雨だったアウシュヴィッツが式典中に天候がみるみる好転し、空に虹がかかった時は(私は生放送で拝見していたのですが、私は)理屈なく子供のように感動しました。私にとってのヂャン・マリ・リュスティジェ師の象徴はあのアウシュヴィッツに大きくかかった虹でもあります。虹、それは神との契約のしるし。

今頃、天国でJPIIと再会されていることでしょう。Adieu, mon seigneur.
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リュスティジェ師が創業したテレビ局KTOのインターネット版でリュスティジェ師関連番組を拝見することができます。
Hommage au Cardinal Lustiger
http://www.ktotv.com/html/hommage_mgrlustiger.html
こちらはFrance 2
Hommage au Cardinal J-M Lustiger
http://www.lejourduseigneur.com/accueil/l_evenement/
hommage_au_cardinal_j_m_lustiger

【参考】
▼Le Monde : L'adieu à Jean-Marie Lustiger
▼Le Figaro : Le cardinal Lustiger est mort
▼Le Figaro : Paris sonne le glas pour le cardinal Lustiger
▼La Croix : Hommage à Jean-Marie Lustiger
▼Whispers in the Loggia : 
   Son of Israel and Rome, Prince of Paris, Lustiger Dies
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by ma_cocotte | 2007-08-08 00:14 | 『?』なKTOりっくん | Comments(9)
Commented by anbai at 2007-08-08 11:59 x
何とも壮絶な…。二十世紀の時代背景そのもの、といいますか、それだけにリュスティジェ師にしか与えられなかった賜物があったのじゃないかと想像します。アウシュヴィッツの虹は、神さまからのその場におられた方への祝福であり、また約束であったと思いましたが、今はその虹の上におられますでしょうか?

是非是非、枢機卿さまのご著書を読んでみたいです。
Commented by ma_cocotte at 2007-08-08 16:28
> anbai さま、

フランスにおいてリュスティジェ師は宗教を抜いても時代の生き証人だった
ようです。聖職者になったことで糾弾対象の矢面にもなってしまった。
教皇さまからの言葉は

Homme de foi et de dialogue, il a généreusement oeuvré à promouvoir des relations toujours plus fraternelles entre les chrétiens et les juifs

信仰と(一致を見出すための)対話の人であり、彼は常にユダヤ人とキリスト教信者の間の友愛関係を促進するために献身的に行動した

だそう。あのLe Monde がかなり熱心にLustiger 師の帰天について
特集を組んでいるのが注目すべき点かも。Le Figaro やLa Croix より
熱心に見えるくらいです。

彼の母親がアウシュヴィッツで帰天したのは1943年だったそうですが、
ずっと訪問できなかったという息子の気持など彼の肩書きを抜いても
共に考えてみたい点ですよね。
日本語でも著書が出ているといいのですが。
Commented by ma_cocotte at 2007-08-08 16:58
> anbai さま、B16の弔意文全文の英訳がWhispers in the Loggia
に掲載されていました。( ̄人 ̄)
http://whispersintheloggia.blogspot.com/2007/08/
lustiger-for-funeral-pope-seeks-paris.html
Commented by Leonie at 2007-08-09 01:17 x
Lustigerさまの記事をUpしていただきありがとうございました。復活祭ごろにLa CroixでMgr. Lustiger a été hospitalisé.と記事を見て覚悟はしていたのですが、やはりショックでした。Le Mondeの記事に添えてあった写真は12年前テレビでみた「Jean-Marie Lustiger, le 23 mai 1996 à Paris après la mort de sept moins français assassinés en Algérie.」でした。ぐすん。
ミサのビデオファイルのご紹介も感謝します。これからじっくりと拝見させていただきます。
B16とうさまの弔意文の紹介も感謝します。これから読ませていただきます。
Commented by ma_cocotte at 2007-08-09 02:04
> Leonie さま、

4月から入院されていた施設はどうもホスピスのような施設だったみたいです。
この一ヶ月は容態もかなり悪かったらしく、23大司教さまもその点に
ついて述べられてもいました。
23師に大司教の座を渡してからのリュスティジェ師は声のしゃがれ方が
ひどく、私も気になってはいましたが、がんだったとは・・・。

6日夜のごミサですが、聖歌などLeonie さんなら聞き覚えのあるもの
ばかりだと思います。

なんだかフラカトにおいてひとつの時代の区切りがついたような感じですね。
Commented by 伊望 at 2007-08-11 18:21 x
>もしかして8月10日午前のノートルダムの葬儀ミサを
>ご覧になりましたか?

今プラハです。
枢機卿永眠のことは知らず、9日ノートルダムへ行きました。遺影と御棺が安置されていて、ちょうど追悼ミサ(たぶん)がおこなわれていました。最後に司祭から始まって参列者が御棺に聖水を灌水。これ日本では現在行わないですよね?個人的には好きなローマの習慣ですが。
Commented by ma_cocotte at 2007-08-11 20:27
> 伊望さま、早速!驚きました。
葬儀は10日午前10時からだったのですよ。
伊望さんが9日にご覧になったのはこちら↓ですね。
http://www.ktotv.com/video.php3?numero=1766

Chapelle Ardente(葬儀前の遺体安置)というタイトルですが、
最後にポーランドのクラコフ大司教による聖別がありました。
日本のカトリック葬儀だと花を捧げませんか?
フランスでは葬儀の最後に参列者全員が棺に聖水をかける習慣が
あります。リュスティジェ師の場合、枝を聖水につけていましたが、庶民の
場合は銀の棒のようなもの(先に聖水が適量貯まるようになっている)で
棺に向かって十字を切る形です。
Commented by 伊望 at 2007-08-13 04:43 x
あらためてありがとうございます。
御棺を拝見した際、どういう方だったのかと不思議に思っておりました。
なんとも深みのある方だったのですね。

>日本のカトリック葬儀だと花を捧げませんか?
昔家にあった日本の冠婚葬祭の本には棺に聖水をかけるとかいてあったので、日本でも行っていたのでは?

>銀の棒のようなもの
ヒソプと呼ばれる棒のことですね?棒の先に窪みのある玉がついている。
Commented by ma_cocotte at 2007-08-13 05:23
>伊望さまがご覧になった時は棺の上にミトラのみだったと思います。
翌日の葬儀では祭服も乗せられていました。
彼の墓銘碑には以下の文が載るそうです(原文は仏語)。

I was born Jewish.
I recived the name
Of my paternal grandfather, Aaron
Having become Christian
By faith and by Baptism,

I have remained Jewish

As did the Apostles.
I have as my patron saints
Aaron the High Priest,
Saint John the Apostle,
Holy Mary full of grace.
Named 139th archbishop of Paris
by His Holiness Pope John-Paul II,
I was enthroned in this Cathedral
on 27 February 1981,
And here I exercised my entire ministry.
Passers by, pray for me.

† Aaron Jean-Marie Cardinal Lustiger
Archevêque de Paris
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