明日は4月24日です。
母が2月24日に帰天して2度目の24日、最後に入院してから丁度一年の日にあたります。一か月前の3月24日はまだ実家におりましたが、なぜかはるか昔のように感じたりもします。 仏蘭西は2月23日の深夜近く、日本國は24日の夜明けを迎えてまもなく、父から母が帰天した知らせをもらい、その直後からあらためて帰国準備に入りました。「あらためて」」と言うのも、その3週間ほど前に私は既に帰国計画を立てており、本当ならば2月27日の飛行機で帰省することになっていました。今振り返ると、24日日曜日は奇跡的に要領よく事務的に自分が動いていたと思います。 実家には26日の22時頃着きました。玄関を開けるとお香の香りとひんやりとした風を感じました。居間の介護用ベッドに横になっている母の両肩に大きなドライアイスが乗っていたことで室内まで冷蔵庫のように冷えていたようです。母はしばらく総合栄養流動食を摂っていたので、私が母に最後に会った時よりもふっくらしていました。でも、頭部は脳を献体したためガーゼとネットで覆われていました。 翌日午後2時過ぎに納棺でした。母はパジャマ姿で横になっており、父はこのまま納棺し、その上に洋服を乗せればよいという意見でしたが、母がおしゃれだったことを思うとパジャマ姿での旅立ちは可哀想で、母が気に入っていた洋服を着せていただき、その上に母が袖を通さないまましつけ糸の残ったままの色留袖を乗せました。昔ならば愛用の眼鏡やら、洋服に合わせた靴や鞄も納められたのに、今は火葬の都合で棺に入れることができませんでした。葬儀センターの方に勧められるまま、納棺の儀式を済ませました。ガーゼで母の身体を拭きましたが、母の足が冷たいとはいえふっくらしていたのがなぜかうれしかったことでもありました。 母の通夜と葬儀は近所の葬祭センターで行いました。お坊さまは父方のお寺のお坊さまが遠路はるばるいらしてくださいました。「父の妻」である母の葬儀だから「父方のお寺のお坊さま」がいらっしゃるのは当たり前の話ですが、実は母が生前、父方の家族を嫌って、実家そばのお寺にお墓を買っていました。父と母の間には私が生まれる前に男児がひとりおり、生後すぐ亡くなったものの初めての子だったので荼毘にふし、戒名もいただいていました。母は常々私にいずれ兄のお骨を自分が買ったお墓に移したい、と話していました。 恥ずかしながら、私は人生の半分過ぎた年齢になっても葬儀というものにあまり関わったことがなく、喪服さえ持っていません。当初、葬祭センターで借りるよう勧められましたが、母の喪服を着たら、太った今の私には丁度良いサイズでした。もしかしたらスカート丈が少し短いのかもしれませんが、膝が十分隠れていたので、母の喪服を着、自前の黒のカメリアのブローチを襟にそえてみました。 お経は浄土宗のものでした。遺族席の最前列に座るなんて私にとって初めての経験でしたが、お坊さまの所作を拝見したり、これほどお経に耳を澄まして聞き入ったのも初めてでした。不謹慎かもしれませんが、お経の御文が美しいと素直に思いました。いつかぢっくり自分の目で読んでみたいとも思いました。式の最後にお坊さまから母に与えられた戒名の説明と参列者へのお話があり、母が今は「お浄土」におりいずれ私たちは母に再会できると教えてくださいました。なんとなくこの考え方は、私が耶蘇女学校で学んだ死後の話と似ていると思いました。仏教について何も知らない私はこのお話を伺うまで仏教はどんな宗派も輪廻転生を信じているのかと思っていたので、母がお浄土に行ったままでこの世に戻ることはないというお坊さまのお話には驚きさえ感じました。 お通夜が終わり、お清めも済み、親戚も次から次へと帰宅し、父の二人の弟夫妻が葬祭センターの別室に泊まって、母の線香が途切れないように見守ってくださるということで、父と二人で実家に戻りました。父と私の間に母がいない私の実家になりました。 翌日は午前10時過ぎから葬儀でした。お通夜とは別のお坊さまがいらっしゃいました。若いお坊さまですが、声が良い、所作が美しい、お経の最後に歌を唄われたので驚きました。火葬場までもご一緒してくださり、母のことを待つ間、父と私の前にお坊さまが座られました。前夜、伺った「お浄土」のことを質問してみました。キリスト教と違うのは、浄土宗では輪廻転生の最後が「今の私たち」であって、この人生を最後に極楽浄土に行くのだそうです(もし間違っていたらごめんなさい)。 極楽浄土とは何(お浄土→極楽浄土)その後、母方の大叔父に「ママはいずれどこかに別の形で、あなたの前に現れるかもしれないよ」と慰められましたが、それを聞いた私はちょっと考えて「それより、母が向こうで手を広げて待っていて欲しいと思います。」と返事しました。通夜の日、葬祭センターの方から銀色の折り紙を渡され、私から母への手紙を内側に書いて鶴を折ってください、と頼まれました。母の棺に入れる千羽鶴の千羽目が私の手で折った鶴なのだそうです。手紙には「いつか、いつものように、大きく手を振って、満面の笑顔で私の名前を呼んで抱きしめてください」と書きました。そうなりますように。私が折ったいびつな銀の鶴は母の首元に置かれました。 葬儀の翌日だったか、父は母が買った墓所があるお寺に母が亡くなったことと、母の骨を自分の先祖の墓に入れる旨を報告しに行きました。このお寺は真言宗で、父からの話を聞いたご住職はなぜ葬儀前に知らせなかったのだと激怒されたそうです。が、母はお墓を買い、お布施を振り込む用紙が来れば振込み続けていましたが、真言宗を信じてもいないし、真言宗の中身を知ろうともせず、結婚するまで母の実家で拝んでいたお経を唱えつつ、毎朝晩、仏壇に手を合わせていました。そんなことを知っている娘としては浄土宗にも真言宗にも申し訳なく思ったりもします。生前、母が望んでいた兄のお骨を移すにしても、浄土宗のお寺でまず拝んでいただき、その後、真言宗のお寺で拝んでいただかなければお骨を移動することも納めることもできないのだそうです。 まだまだ私には知らないことがいっぱいあります。 一か月間の実家滞在中は、目が開いていれば常に「次に何をしなければならないのか」ばかり考えていました。もしかしたら睡眠中も考えていたかもしれません。逆に済ませたことを確認する余裕がなく、今になって思い出せることも断片的で自分の精神がいかに浮遊していたのか実感しています。特に実家滞在4週目に入る頃は、不思議の国のアリスに登場するウサギさんのように「時間がない、時間がない」という言葉しか口から出てきませんでした。心のあり方を上手に表現できませんが「時間はあるのですが時間がない」という感覚です。焦りでしょうか。いや、あと一週間あればなんとかなりそうだ、という目測はたてられたので焦りではありませんね。過去に秘書職なんぞ勤めたせいか、計画を立てられても、それを要領よく遂行できなかった私に非があります。できなかったことは次回帰国で必ず、と父に言い訳して実家を出ました。 こちらに戻ってからデジカメの中を確認すると、無礼にも通夜の晩、私が撮った母の祭壇の写真が2枚出てきました。当日はきれいに祭壇を設えていただいたことに感動して、写真に納めたのでしょうが、今になって写真には母が納まっていた棺まで映っていることに気付き、正面から見る勇気もありません。このお棺も、中にいた人も、今はもう何もないのだと思うと胸が締め付けられる思いがしますし、今更、母が献体した脳がどうなっているのか心配になったりもしています。先日、遊びに行ったおうちに暖炉があり、そこに紅茶の箱が投げ入れられて燃える様を見るくらいつらいことはありませんでした。 先の4月13日は四十九日にあたりましたが、父が母の遺骨と仮の位牌と作りたての位牌を持って、お寺に行き、供養していただきました。本当ならこの日に納骨ですが、墓を直している最中なので納骨は秋を迎える頃になります。遺骨をお寺に預けることもできますが、父は納骨まで母には実家にいてもらいたいのだそうで、その日までは父における喪中なのだそうです。毎週日曜日、こちらの早朝に父から電話がありますが、20日の電話で、私が滞在中に済ませた香典返しの手配が四十九日を過ぎたことで無事届けられていることも知り、ひと安心しました。香典返しについても私は無知で、母が愛していた百貨店を訪ねて、専門とされる方から何から何まで教えていただき、なんとか非礼なく済ませることができ...たと思います。 「次にしなければならないこと」ばかり考えていた私も、四十九日近くなったあたりから、台所に自分が立って調理しているとふと母が料理を作っている姿を思い出したり、母が病気になってから既に無理だとわかっているのに帰天してもなお母の手料理をもう一度食べてみたくなる衝動に駆られることが多くなりました。町を歩けば、ああ、母が横にいてくれたら、母にこのウインドウを見せたい、とふと思ってしまったりもします。そして毎晩、床に就けば、丸い地球の上をいくら歩いても、泳いでも、同じ大地に母がいないことを実感し、子供のようにメソメソしてしまうようになりました。何もかも私の我が侭ですよね。今、こうしてタイプしていても涙が出てしまいます。もしかしたらそろそろ「泣く時期」に突入したのかな。私にとって初めての経験ですから、身をもって知るしかないのでしょう。 生まれてから現在に至るまで私が泣けば頭ごなしに「泣くな!」としか言わなかった父のもとで育った私が、今は「泣け、泣け」と言う夫と暮らしているのも不思議な気がします。 私が「次にしなければならないこと」を見つければ、泣く暇もなくなるし、叶いもしない我が侭な思いを浮かべることもなくなりますね、きっと。 le 23 avril 2008, Georges ■
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by ma_cocotte
| 2008-04-23 15:26
| 『?』なたわ言
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Comments(21)
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❒ 鍵19H50@23/04/2008さま、優しいメサージュをありがとうございます。
上手に言えないことですが、これまで映画やテレビで見たような「臨終の瞬間」 や葬儀の流れ、そこでのヒトの感情というのは必ずしもその通りではない のだということを実感しました。私は泣けなかったから、他人さまによっては 冷たい娘だと思われたかもしれません。こうして海外に住んでいることだけ でも批判材料になっていたりもするので、どのような厳しい言葉も受け止める 立場だというのは重々わかってはいるのですが。そういう他人さまからの 批評も含めて母に対しての後悔も複雑に心中や脳内を右往左往している 現状に私がいるような気がしています。 それこそこれまで母がいたので、冠婚葬祭も母の斜め後ろに立って、 母の真似をしていれば良かったのに、今回はしきたりも何もわからなくて 心細くもなりました。 宗教どころか宗派の違いでもいろいろ考えが違うこともよくわかりました。 宗教によって単語など違うことも多いけれど、相容れる部分で 分かち合うことも大切ですよね。それがエキュメニカルなのかな? ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
❒ 鍵23H52@23/04/2008 さま、ううう、やはりそうですか。
記憶が断片的になるとは聞いていましたが、私の場合もそうですし、 そもそも当時を振り返ると時間がとてつもなく長く感じられもすれば、 あまりに短いようにも思えます。 母の葬儀の日はとても天気が良くて、変な話ですが、友引直後だったので しばらく前の方が終わられるのを待たねばならず、母の全身に日差しが ずっと射していたことが今も強く印象に残っています。でもね、息を引き取って から4日が過ぎたので、どんどん変化がわかって、それがまたつらくなるという 複雑な立場になりました。早くなんとかしてあげないと母が醜くなってしまう という実感。息を引き取り魂が抜けた人の身体の変化。ああ、なんて 残酷なんだろうと、母を早く隠したいと思う自分の心に対しても思ったり もしました。 こんな思いさえ母に話せたら、なんて思っちゃいます。おかしな話ですよね。 叶わないおねだりばかり思いつく最近の私です。
私が母をなくしまして、43年半になりますが、今でも当時を思い出せば胸にせまるものがあります。あなたの涙は決してあなたのわがままではありません、それは人間としての涙です。お母様はあなたにとつて永遠です。お泣きになりたい時には大いにお泣き下さい。
![]()
心は涙で出来ている、色んな...。
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![]()
>こんな思いさえ母に話せたら、なんて思っちゃいます。
父が亡くなった後、やはり普段みないようなものをたくさん見たのですが「ねえパパ、こんなことするって知ってた?」と話して、父に「それはね・・・」と教えてくれたり、「なんでそんなことも知らないんだ?」と呆れられたり苦笑したりしてほしかったです。 悲しいっていうよりも当然あると思っていた段差を昇ろうとして、足を持ち上げたら無くて踏み外したときのようななんとも不思議な気分でした。
❒ hanazono さま、はじめまして。
貴コメントを拝読しつつ、目頭が熱くなってしまいました。 私にとって母が永遠であること、肉体というものが残酷でありむなしい ものであることも母の帰天でようやくわかったつもりです。 が、母を求めても母がどこにも見つけられないという当たり前のことを 更に2か月近く経って実感し、涙が出てしまいます。 母がこの世にいたから、私も今こうして存在しているのですよね。 生前の母に何も喜んでもらえない私でしたが、残りの人生で母に 喜んでもらえるようなことが何かできれば、と考えています。
❒ rice_shower さま、
私たちが涙と汗を流せるのも神秘ですね。 もし私たちが涙と汗を知らなかったら? 数多ある感情の数が変わるでしょうか?
❒ 鍵10H55@24/04/2008 さま、
おかしな話ですけれど、母を抜きに父と二人だけで実家に一か月も 住んだことは私にとって生まれて初めての体験でした。こんな日が 来るとは想像したこともありませんでした。 今回、母の葬儀を経験して、もし葬祭センターより自宅で葬儀を行う のが主流の時代だったら父も私も倒れてしまっただろうとほぼ確信 しています。 それでも実家が田舎町なので町会の方々が手伝ってくださり、火葬場 までいらして母を見届けてもくださいました。が、葬祭センターの仲介なく、 親族だけが中心で行っていたらくだらない喧嘩も起こりかねない、と 察しました。今もお位牌や仏壇のこと、もろもろで葬祭センターとの交流 が続いています。 真言宗のお寺ですが、お墓を更地に戻して返すように言われました。 お墓の件については今も私の胸中は超複雑です。(T_T)
❒ xiaoli さま、そうなんですよね。
永遠だとわかっているけれど、実在しないのも魂が抜けた身体、 朽ちていく身体、骨を見てよくわかりすぎているのに、それでもまだ 自分のふとした行動のうちにいなくなった人が交じって当たり前だろう となぜか思ってしまいます。 実家に戻って寝たきりになったことで数年履かれることもなかった 埃をかぶった母の靴を見ているのにまだ一緒に出かけたいと願ったり、 流動食だった母と一緒に何かを食べたいと思ったり、かなわないこと ばかり思いついてしまう今日この頃なのです。 避けては通れない道なのかな・・・。 ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
![]()
コメントを読んで思い出しました。葬儀も何もかもすべて終わって、当時学生でヒマだったのでしばらく実家でぼんやりしていたのですが、ある日父の残した膨大な蔵書を見て
「パパがこの本を手に取ることは二度と無いんだ」 ということに思い至って愕然としたんです。ものすごく新鮮な驚きでした。 人の死を受け入れるとういことは、身体の一部を失った人が、欠損した状態に徐々に慣れていくように、つまり不在に慣れるということなのでしょうか?
❒ 鍵21H23@24/04/2008 さま
ごめんなさい。お言葉を借りるなら、心のままを書きなぐったような感じ ですね。どうも何事も不器用なので、こういう感情の動きも今になって ドっとこみ上げてきているのかもしれません。 寂しいですね。その一言に尽きるかも。
❒ 鍵21H34@24/04/2008 さま、はじめまして。
コメントを拝読し、貴状況をお察し申し上げます。 私は滞仏9年目になりましたが、母の病気のこともあったので、引越後は ANPEに登録することも控えていました。育ててもらった家族と今の家族の 間にいる自分の立場もこういう状況になると考えさせられることが次から 次に出てきますよね。どうぞ無理はなさらず、でもできることはなさって ください。鍵さんとご家族のためにお祈りします。
❒ xiaoli さま、
私の場合、母の三面鏡のひき出しや洋服を処分している最中に 同じような思いにかられました。着れない服ほど着こなした服だったり するでしょう?だから服を見ただけでいろいろ情景が思い浮かんできて、 いちいち「ごめんね、ママ」と言いながらゴミ袋に詰めていました。 本もそうですよね。故人の愛読書ほど手垢がついていたりするから手放せなく なりますね。 xiaoliさんがくださった例は、それを補えるように前向きにならなきゃ、と 思えますね。よく走馬灯のように思い出が、なんて例えられるけど、断片的に 思い出すものなのかな。些細なことで連想したりしています。 ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
❒ 鍵00H28@25/04/2008 さま、
おっしゃるとおりなのです。お葬式も、その後の役所やら香典返しの ことや、身辺整理で自分のテンポを保てないまま行動しなければなりませんし、 私の場合は父が喪主とは言え、ちょっとは喪主みたいなものだったので 振る舞いなどに気が張っていたところもありました。 ああ、私の母もそうでした。私の兄の場合は早産でしたが、母の話では 母にそっくりで、それだけでもうれしくて忘れられない息子だったようです。 今頃は一緒ですね。兄が母を抱きしめたのか、母が兄を抱きしめたのか。 母の帰天から2か月も経ってメソメソしています。あの時は魂が抜けた母が 変化していくのがつらくて、なんとかしてあげたい、それだけでした。 上手に表現できませんね。ごめんなさい。 ![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
❒ 鍵19H20@30/04/2008 さま、ありがとうございます。
張り詰めた気が緩めることができました。 私の勝手で海外に住んでいることで看病もせず、四十九日にも出ず・・・と 何一つきちんとできないまま、こちらにいるような状態です。 たまに笑っている自分に気付いて、母のことを忘れてしまったのではないか、 と苛まれるような気持になったりもしています。 いろいろ思うことがあっても下向きにならないよう心がけたいと思っています。 これからもお互いの思いを分かち合って、互いに向上いたしませう。 (なーんて、鍵さんにご負担かけてしまいますね。m(_ _)m
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