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カテゴリ:『?』なKTOりっくん( 207 )
カトリック教¨会分裂の予兆でせうか。
昨晩から次々と飛び込んで来るこの話題。


ヌゥヴェル・アキテエヌ地方にはボルドー大司教区、ポワティエ大司教区という二つの大司教さまがおわします教区がありますが、ヌゥヴェル・アキテエヌ地方の北部に位置するポワティエ大司教区の長上様がこのたび、カトリック司祭の妻帯について賛成であると表明したのだそうです。

うへぇ。

あくまでもカトリック傍観者である私の冷ややかな眺めでは、ヒトが決めた国境を取っ払ったカトリックヲールドに生きるエラいお坊さんはもちろん、そういうエラい身分にはなることがないひとびとの中には相当数、「司祭の妻帯について《絶対》反対」と智を持って叫ぶ方々がいるので、どこぞの大司教様がフランス語だかなんだか知りませんけれども、兎にも角にも「司祭の妻帯について賛成」と公言したことはスキャンダアルになる可能性大かもしれません。

しっかし、カトリック2千年と数年の歴史において、教会分裂を連想される事件はアヴィニヨンと言い、ルフェエヴリストと言い、仏語圏で生じる率が高過ぎではないでしょうか。そうだからこそ、「カトリックの長女」と綽名されるのかもしれません。こんにち廃れつつありますが、長女=大姫さんの発言はどんなにとんちんかんでも絶対だったりしますものね。

・・・とはいえ、なんだかな。

ヴァティカン、どーなっちゃうンでしょー。


le 12 mars 2019, Justine

by ma_cocotte | 2019-03-12 00:01 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
神の名をみだりに唱えることなかれ。
こんにちは木曜日。
3月第一週の後半に入りました。
先日、ココに書き散らかしましたとおり、今週前半はカトリックヲールドでの修道女が鍵語のスキャンダルでおフランスでは大騒ぎとなり、そして、こんにちは朝一番のニュウスからトップはリヨン大司教であるバルバラン枢機卿に判決がまもなく下る、というもの。そして、お昼手前にはフェイスブックの私のヲールには次々とバルバラン枢機卿におかれましては司祭による性暴行について報告を怠った罪で、執行猶予ありとは言え有罪と知らせが届きました。

午後になって、バルバラン枢機卿がヴァティカンにおわします教皇に辞任願いを届けたとかなんとか。

んで、今週の前半の「司祭による修道女への性被害」と今日から騒ぎになっているバルバラン枢機卿への有罪判決で、共通していることは司祭が青少年、修道女にやたら神の名を出して命令を繰り返しながら行為に至ること。さらに、映画にもなったリヨン大司教区でのペドフィルスキャンダルでは高位聖職者に事を訴えた家族、知人に対してもやはり「神(の恩寵)において」とかなんとか先ず口から出して、目の前で涙にくれる世俗を弱らせ、追い払う。

なんなんだよ、これ?

と、ついうっかりボヤいてしまう私がおり、そのつぶやきと同時に十戒の「汝、紙の名をみだりに唱えることなかれ」の一文が脳のどこかからよみがえったのでした。確か小学4年の時に生まれて初めて暗記しました。だから、「~なかれ」と当時の文のまんま、脳から出てきた。この十戒なるものはモーセが神からいただいた啓示で、ユダヤ教、キリスト教、イスラームで信じられ、大切にされているものです。キリスト教だけぢゃないのだよ。

で、話戻って、カトリックスキャンダールs。
どうにも聖職者がやたら「神」の単語を口から出すことに引っ掛かりを覚えます。「神」の名を出して、行為を「強いる」「命じる」の繰り返しって洗脳の方法のひとつではないかしら?と。でも、そーいや、私が耶蘇女学校に在籍していた当時はシスターがやたら「マリアさまが」と先ずおっしゃってから、あれこれせよ、それが善行よ~♪みたいな流れが慢性していたかも・・・。
もうひとつは今世紀のはじめだったか、南仏でユダヤんやミュジュルマんの方々と交流あったので、彼らが「カトリックはやたら神の名を口にする」と批判しながら、改宗に誘っていたことも思い出しました。今になって彼らの意見に「だよねぇ」と相槌打てる私がいます。ユダヤんも、ミュヂュルマンもその点に気を使っているひとびとは安心で、やたら「アッラーアクバル (神は偉大なり)」とか「エンッシャッラー (神に感謝)」をお口から出すミュジュルマンさんに警戒すること、多いものね。この二つのフレーズ、特に「アッラーアクバル」はイスラーム原理教条主義過激派のお決まり文句だもん。

兎にも角にも、次々と明らかになるカトリックスキャンダルを見聞しながら、正直、胸糞悪い、吐き気をもよおす感覚に襲われている私です。同時に次のスキャンダルの波はいつ、どんな内容なのだろう?と、早けりゃ来週はじめには新しいスキャンダルが明らかになりますね。今年のペースだと。

バルバラン枢機卿の件ですが、以前、どこかにも書き殴ったかもしれませんが、リヨン大司教区の上長として、俗世っぽく言えば部下の性癖を見聞したら、その部下を異動もせず、現職のままと放置したのは明らかにマズいことだと傍観している私の感想です。被害者の家族や知人または小教区のおエラいさんから話があったとして、それをすぐ公言せずとも、加害者と被害者の間に距離を置き、一生会わずに済むような人事も長上さまならできたでしょうに・・・と思うのですが、はい。バルバラン枢機卿の場合は聞いたところでなーんもしない、動かなかったそうで。そりゃ、ゆるされないよ、でしょ。

以上、尻切れトンボに閉めます。


le 8 mars 2019, Jean de Dieu

by ma_cocotte | 2019-03-08 00:44 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
お話にならないお話
こんにちは2019年3月6日。
仏蘭西の暦でこの日を見ると Cendres サンドルとあり、これは和訳すると「灰(の水曜日)」というキリスト教につながる儀式を行う日です。この日から日曜を除く40日間、四旬節(←これはカトリック用語で、聖公会では大斎節と呼ぶそう)という節制期間となります。特にこんにち灰の水曜日は西方教会においては断食を行う習慣があるので、前日(つまり、昨日)は仏蘭西だと「Mardi gras マルディ・グラ」、=油脂の火曜日と呼んで、人民は脂で揚げたものを食べ尽くして、翌日の断食に挑む伝統がありました。四半世紀ちょい前まで、仏蘭西ではこのマルディ・グラの日に仮装したお子たちが近隣を周ってお菓子をいただいていましたが、今はもうそれはほぼ真っ白で、誰もが察するとおり、今は10月31日のハロウヰンに替わってしまいました。が、地中海側の市町村では今もこの時季にカルナヴァルを催してもいます。どうか、廃れませんように。

で、昨日。油脂の火曜日の夜、仏蘭西と独逸の共同運営テレビ局ARTE アルテで、こんなドキュメンタリ&調査番組が放映されました。


ヒトが決めた国境を取っ払らった、「カトリック教会」の世界の中であった司祭による修道女への強制性愛についての報告集です。番組は全編97分。今週に入ってから、この番組について話題にするテレビやラジオ番組、雑誌、新聞が多々あり、昨晩の放映が実行されました。

内容は非常に視聴者側の心身苦しくなる・・・これは私の印象ですから、ヨソのひとびとの中には快感を覚えるひともいるのかもしれません。ココんちあたりはアテ(無神論ちゅうか否神論者)がゴロゴロいるので、きょうあたりは飽食しながら高笑いで教会批判すンだろうと容易に想像もつきます。それもまた夜も明けていない現時点ではあたしの妄想w

司祭と修道女が性関係に至るまでの証言についてはほぼ万民のご想像通りのうちで、万事、司祭が神の名を安易に出して「命じる」ことの繰り返しです。番組の中であたしが耳にするなりムっとなったことは妊娠した修道女に向かって相手の司祭が堕胎を「命じた」という点です。これ、堕胎について、ヨソの宗派ではそれぞれ解釈が異なりますが、カトリック教会では瞬時破門であり、堕胎幇助した第三者も破門です。てか、表向き、「我は牧者なり」の司祭なら御身をもって生涯かけての信仰生活の見本を我々に示すことも務めでしょうに。あーた、裏では貞潔も守らず、果ては堕胎命令っていったい。

そこに、神さまはいないよね。

「神の不在」が彼のいる聖堂にも住まう司祭館にも明らかとなります。
今世紀のはじめだったか、我が知人である修道女から「今は司祭、修道者の格好をした悪魔が存在するので、気をつけなさい」と注意されたことを思い出しました。たまたま「悪魔」という存在を認め、日常でその語が飛ぶ環境の修道会だから彼女はそう私におっしゃったけれど、もし私が同様に「悪魔」の語を用いてヨソのカトリック環境で話したり、タイプしたら、あからさまに不快感を私に言ってくるひとびとも現実では多々います。私は一度、これで大失敗をし、「気持ち悪い」など言葉をたくさんもらったので、それ以降、悪魔についてカトリック環境で話す時はTPOをよくよく見、考えるようになりました。今になって思うと、神の万民救済が絶対なら悪魔は存在しませんからね。Bof

兎にも角にも、昨日の午後には仏蘭西のカトリック司教団がこの番組放映について公式見解を発表。犠牲者の悲しみと怒りと我々は共にある、とのこと。ですが、次々と届くこの番組の関連記事には、先日から話題になっている幼児性愛以上に司祭と修道者のスキャンダルについては沈黙が守られていることが「当たり前」とありました。

この番組で告白した方々はかつての事実を「墓場に持って行く」ことを止めた。そう気持が変わったのも、近年の聖職者による青少年についての諸スキャンダルがどんどん明らかになっているという世間の変容を感じ取ったからなのだと拝察します。

この番組の作成者チームは、ヴァティカンが次に取り組むのは修道者への暴行についてだろう、と予言しています。


le 6 mars 2019, Colette






by ma_cocotte | 2019-03-06 16:08 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
今度の水曜日から節制するもンね。
できるかなあ? できないだろうなあ・・・。

2019年。早くも第三の月となりました。こんにちで二日目。
昨日、弥生ついたちの朝はいつもの金曜なのでココんちから旧市街向こうの教会聖堂にお昼までおボランティ~ア。責任者のマダムから来週水曜は「灰の水曜」なので、しばらくはお地味な日々を過ごすことになるわね、とお話。ああ、今度の水曜が灰の水曜だと、前日火曜日は「マルディ・グラ、Mardi gras」、油脂の火曜日と来たもんだ。火曜日の買い出しで油で揚げたもんを買い込んで食い尽くすか・・・と目先のことばかりに気を取られ、数分後に新たな思考の波が押し寄せて、四旬節かあ、今年の復活祭は4月の第三日曜(正確には前日土曜の日没後から始まる)で、例年よりかなり遅いご復活なのよねー。だったら、もう暖かくて、庭でドンチャカぐびぐびできるよね・・・と結局、飽食の妄想にたどり着いてしまう自分。その前の節制を忘れンなよー!です。
で、フェイスブックの某所からこんなわかりやすい表が届き、ありがたく思う週末の朝。
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灰の水曜日からご復活までの間、みんなが心がけることの一覧。これはわかりやすい。わかりやすすぎるくん。
今までわからなかったこと、其処此処で疑問をつぶやいても誰からも答えをもらえなかったことがピクトグラムと単純かつ短い英語で記してある。まあ、できることはして、できないことは無理してしない方針で行くことにします。


le 2 mars 2019, Charles le Bon



以下、余談。西方教会ネタなのでもうココでは触れたくないのですが、ちょいと。
先週の半ばだったかヴァティカン本丸でカトリックヲールド内でのペドフィルの件について司教会議が数日に渡ってあり、その会期半ばにオーストラリアのエラい聖職者(かつてヴァティカン上層部のナンバー3だったそう)がそのペドフィルの罪科で御年77歳だけれど実刑だ云々。ああ、この件より前に既にドイツで立派な賞を受賞したフランス映画、その内容はリヨン大司教区内でのペドフィル事件について描いているもので、この映画をフランス共和国内で上映するか否か裁判所判断が下る~という報道もありました。それは確かヴァティカンでの司教会議の2、3日前のことで、結果、裁判所は共和国内上映にGoサインを出しました。
で、これまた思い出したことに、そのヴァティカンでの会議の後半だったか、おフランスで同性愛の話題で主にヴァティカンのエラい聖職者方にアンケート調査したことをまとめた本が出版されることになったと、主だった全国紙が報道し始めて、今週に入り、テレビやラジオでこの本の著者がナマで登場し、結果、宣伝ですかねぇ。

と、以上、2月19日月曜から3月初めまでどんだけカトリック教会がキーワードの高波が次から次にマスコミ方面から押し寄せてます?

でも、ちょいと冷静になると、毎年、四旬節直前からカトリックスキャンダルは次々と明らかになるのも恒例で、例外的に何もなかった年は「ない」ンですわ。これ、まじ、ほんと。で、上にくっつけたわかりやすい四旬節の過ごし方の表の中の、上から三番目にお手手とお手手の間にコインがきら~りのピクトグラムがありますが、これは四旬節中に日ごろお世話になってる教会に何かしらのご寄付を~という勧めでして、なんちゅうか、アンチ・カトリックの万民がこのお金の流れを阻もうと必死こくわけです。21世紀の今、そのお金の流れを食い止める手っ取り早い方法はフェイク ニュウスを世間に知らしめることであります。別に今、21世紀に限らず、今であろうと昔であろうと教会を憎む、疎ましく思うひとびとはそこいら中にゴマンといるし、ほれ、例のシャルリ・エブドの連中もそうです。彼らは毎年、四旬節になるとピチピチするのです。

で、話戻って同性愛についての聖職者スキャンダル本を執筆したひとは仏蘭西びとの男性で、ご自身も同性愛者(と、某テレビ番組に彼がナマでそうおっしゃってた)。見た目、欧州系の方なのでおそらく幼児洗礼を受けたでしょうけれど、ご本人がおっしゃるには12歳でカトリックを棄てたのだとか。ああ、堅信受け終わったところで「ボクはもうミサに行きません」と家族に告白して、ほっぽらかされてそのまんまなのだろうなあ、と私の印象。幼児洗礼者が7歳頃の初聖体、12,3歳で受ける堅信の秘跡を済ませたら、もうこの世の親の義務は果たされたことになり、堅信を受けてカトリック世界での成人となった青少年が何事も自分で祈り、考えて、動くことが求められるのだから、この世の親は神様からあずかった子の意思やら意志を尊重しなければなりません。まあ、これについてはカトリック世界においてはカテキズムのどこかに天主さまは我々の自由意志を第一に尊重するのです、と明言されているのだから、親も堅信終えていっちょまいになった子の自由意志を何より尊重し、糸が切れた凧みたいに目の届かないところまで消えてしまったそいつがいつ目の見えるところに戻ってきても「放蕩息子の帰還」の話を思い出してマネしろよ、というこってす。
だぁかぁらぁ、このスキャンダル本の著者の言い分は教会においては「屁の河童」で、どうぞご自由に、としか言いようがないし、あなたには死の直前に最後の告解という機会もありますからねー、なのです。話を我が地元に持ってくと、80歳過ぎて堅信を希望した、幼児洗礼は受けたけれど共産思想に心酔したおぢいちゃんがいたという話を漏れ聞いたことがあります。年取って教会に背を向けるより、死を前に向き合う人の方が救われてるかもしんない。
このスキャンダル本。私の耳が確かならば、ヴァティカンの高位聖職者含めて50例の同性愛について書かれているそうです。

昨晩はカトリック聖職者に身体を売っているイタリア語を話す男性がボカしてあるとは言え隠し撮りの写真ともどもテレビに登場しましたが、相手が同性だろうが異性だろうが性愛はカトリック聖職者にはイケないことですね。叙階の秘跡での誓約を本人が忘れてしまっているのが大問題。つまり、そこに「神の不在」があるわけです。

ものすごく底辺な話ですが、私個人は高校時代、倫理の授業で「愛」には「エロース、フィリエ、アガペー」の三種あり、それは「性愛、友愛、究極の愛」であり、アガペーのみが神との関係と教わったこともあり、ココ半月のヴァティカンねたは「エロース」の域のみなので、てめーら、裁かれて当然だし、ココ数日のおフランスでのスキャンダル本の話題についても著者や彼におべっか使っているひとびとの脳は「エロース」で儲けようという思考で止まっているので、ま、こんなもんで、ひと昔前の聖俗問答にもならんという印象しか持てませんでした、まる

ま、兎に角「あんたの自由意志を尊重する」で、オシマイ。



by ma_cocotte | 2019-03-02 17:01 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
薄くて、軽いし、

旅の友の邪魔にもなりませぬ。
どうにも日常で見聞するカトリック用語と異なる表現を見ると残念に思う私なのでした。
信憑性やら信頼が薄まる。

私個人は十年近く前に再会した中学一年当時の担任シスターから、私が仏蘭西の地方の超ウルトラスーパーど田舎に日本人たったひとり、ぽっつーんでは困ることが多いだろうとこの本をくださったので、今に至るまで頼っています。聖堂内装飾や司祭服、聖職者階位もろもろ、いろいろなカトリック用語が日本語、ラテン語で紹介されているので、ラテン語についてはほとんどがフランス語用語の派生ということもあり、本当に助かっています。(ほぼ)同じことやらものでもカトリックと正教、聖公会では和訳が異なることが多すぎくん。ですので、

お、す、す、め。


le 28 août 2018, Augustin




by ma_cocotte | 2018-08-28 17:13 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
// vendredi saint - chemin de croix //
2018年の聖金曜日--- 十字架の道行
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第12留 イエス、十字架上で息を引き取る、引き取った。↑



le 30 mars 2018, vendredi saint

by ma_cocotte | 2018-03-30 23:59 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
この世は儚いものですからパライソの全き幸福を失わぬよう努力なさいますように。
神の御助けにより、この数行をしたためます。パードレたち以下、われヽ二十四名は列の先頭を行く高札に書かれた判決文のように長崎で磔刑を受けるため、ここまでまいりました。わたくしのこと、またミゲル父上のことご心配くださいませんように。パライソ(天国)で、すぐにお会いできることを希望しています。お待ちしています。たとえ、パードレが居なくても臨終には熱心に罪を痛悔し、イエス・キリストの幾多の御恵みを感謝なされば救われます。

この世ははかないものですからパライソのまったき幸福を失わぬよう努力なさいますように。
人からどんな迷惑をかけられても堪え忍び、すべての人に大いなる愛徳を施されますように。

わたくしのふたりの弟マンシオとフェリペを、どうか異教徒の手に渡されぬようご尽力ください。わたくしは母上のことをわれらの主にお願いいたします。母上からわたくしの知っている人々によろしく申し上げてください。罪を痛悔するのを忘れぬよう、再び重ねて申し上げます。なぜなら唯一の重大なことなのですから。アダムは神にそむき罪を犯しましたが、痛悔とあがないによって救われました。 

十二の月二日 安芸の國 三原城にて
以上、日本二十六聖殉教者のひとり聖トマス小崎が京都から長崎に向かう途中、三原城のどこかで母親にあてた手紙です。こんにち2月5日はカトリック教会の典礼暦において日本二十六聖殉教者の記念日とされています。そのため、前日あたりからほうぼうで彼らの生きざまについてのエントリーがあり、私も見聞に励んでおり、この手紙に出会いました。

私個人が日本二十六聖殉教者について知ったのは小学校4年の時の父親参観日に女子パウロ会が臨時書店を校内に開いてくださり、参観後、校舎を出てすぐその書店の前で父が本を買ってくれると私に言ってくれたので数ある本から選んだものが天正の少年使節と日本二十六聖殉教者についての本でした。開いて最初に思ったことは今まで自分が読んだ本の中で最も漢字が多いということ。それでも、父が珍しく本を買ってくれたのだから、と読みました。

彼ら日本二十六聖殉教者は京都から長崎の刑場まで800㎞を徒歩で移動しますが、それには見世物の要素も加わっていたので、途中で耳をそがれたり、冬場だったので素足がみるみるしもやけになり、悪化し、歩くことも難しくなったそうです。確かこの手紙を書いた時、トマス小崎少年は14歳だったと記憶しています。三原には京都を出てから2週間後に入ったそうです。その2週間、彼が何を見、何を聴いたのか。想像する前に「おお、こわ」と思考を止めてしまう自分に情けなくなるばかりですが、私は今のシリア国内に残る善良なひとびとと重なってしまいます。そういう残酷なことを目の当たりにすると、トマス小崎少年の文中にあるように「異教徒になってしまおう」など安楽な道を選んでしまうのもヒトが弱いということなのでしょう。でも、「この世は儚い」ことが絶対的な事実でもあります。この世のすべてはいずれ塵となるわけで。霊魂だけは形を変えることもなく息絶えることもないのさ。

しっかし、私は初老ですのに、今でもこれだけの文章は書けないな。

le 5 février 2018, Louis Ibaraki





by ma_cocotte | 2018-02-05 20:59 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
前進あるのみ、うん。

昨年12月の第一日曜日から長年親しまれてきた主祷文の一部が変更となりましたが、今度は主日ミサやロザリオで唱える信仰宣言の仏訳が変更になるとのこと。ラテン語の原文を仏訳すること15年目にしてようやくヴァティカン本丸から認められたそうで。
10年ほど前、私がロオマ巡礼した折にヴァティカンの翻訳の部署で働かれる高位聖職者にお目にかかったことがあります。彼は今も毎週水曜の一般謁見の時、仏語圏担当紹介司祭として壇上で活躍されています。事務所で彼の机の隣チームが日本語訳だそうで、彼曰く、和訳に比べたら仏語訳などそれほど大変ではないとのこと。それでも、先の12月の主祷文や今回のクレド(Credo、=信仰宣言)の変更と、それに要した年月を知ると、いやいや、おフランス語だってかなり訳に苦労されたのでしょう、と拝察いたします。

和訳に関わるみなさま方もどうぞ祈り、がむヴぁってください。


le 24 janvier 2018, Timoteo Giaccardo





by ma_cocotte | 2018-01-24 00:13 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
我らを試みに引きたまわざれ
土曜の夜、旧市街のおクリスマスエヴェントを冷かす前に夕ミサに参りましたら、入り口でこのような印刷物を頂戴いたしました。
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なんでも、お仏蘭西のカトリック教会ではこの待降節第一主日(2017年12月3日)から主祷文の一部が変更になるので、このような御絵を教区が我々世俗末端にまで行き渡るようにと用意してくださったらしい。変更箇所は写真の下から三行目。2017年12月2日の夕方日没までは Et ne nous soumets pas à la tentation でしたのに、お天道様が隠れて以降は写真にあるがごとく Et ne nous laisse pas entrer en tentation と唱えることになりました。拙訳が正しいかどうかわかりませんが、今までは「私たちを試みに服従させないでください」で、これからは「私たちを試みに入らせないでください」でしょうか。なんかよくわからないけれど、「服従」というのはアタマを使わないので「従順」とは異なる。あんまりカトリックっぽくないという私見です。新しい「試みに入らせないで」ならば自分で入るか、入らないか考える様子が想像できなくもないので、個々の自由意志を何より尊重するカトリックっぽいと思いました。やっぱヒトに生まれたからにゃ、自らの知やら智を善く使うことが天主さんへの御恩返しですからね。

さて、カトリック教会の中ではありますが、こうしてフランス語の主祷文の文面変更は1969年12月29日以降、初めてだそうです。そのせいなのか、昨日12月3日はニュウスでもこの話題が紹介されていました。日本ぢゃ、ありえねぇ。

私、新しい、変更された一行を暗記できるかなあ・・・

日本語の主祷文なんぞ、私は今でも小学生の時に暗記した文章しか唱えられないのでした。こんにちのこのエントリーのタイトルもその当時の主祷文で、口が回らず唱えるのに苦労して、実のところ、漢字やひらがなをどうあてがうのかも知らないまま現在に至っております。高校生の時に習った古文を頼りに文字で表すと、おそらくタイトルのとおりではないかと思うのですが、間違っているかもしンない。ご寛恕のほど。


le 4 décembre 2017, Barbara


by ma_cocotte | 2017-12-04 17:33 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)
コレは違う。事実が違う。
神さまお留守の神無月、十月の第二日目、月曜日。
朝一番で寝ぼけ眼のまま、習慣のRSSを使ってのブログスヲッチ。
聖ピオ10世会は2009年に破門を解かれ、」の短文でさぁあああっと目が覚めました。(おいおい、血の気が引いたンだろ?)

ンなわけないだろ、と自らのブログでおさらい開始(・・・の途中でこうしてタイプing、始め)。

こんな零細ブログでも細々と続けていれば、2009年6月18日を最後に中断したままの 破門→波紋→和解→破壊 なんてカテゴリーがある。
私が読み直した限り、2009年1月22日に故マルセル・ルヴェーヴル師個人の破門が解かれたとあるけれど、彼が創立した聖ピオ十世会そのものとその聖俗会員がヴァティカンに認められ、カトリック教会の内となったという事実は今日に至るまで「ない」です。私は「ないです。」という日本語表現が苦手ですが、こればかりは「ないです。」が良いかも、です(苦笑。

その証拠はヒジョーに簡単で、こんな零細ブログで文章にせずとも、永遠の都ロオマから四方八方、世界の果てまでいずこの(ヴァティカンにつながる)司教様方がこの団体を公式に認め、小教区を任せているか。

ない、です。


le 2 octobre 2017, Léger





【書き忘れた。】

そもそも、カトリック教会の秘跡についても、ですけれど、世界の果てまでヴァティカンにつながる司教様方は誰ひとりとして聖ピオ十世会の聖職者に秘跡を授けるお認めを出していません。彼らは教区長からのお認めなしに勝手にミサをささげ、聴罪し、婚姻など諸秘跡に関わっているわけです。だから、何が有効なのかというと、それら秘跡を受けた聖俗信者に与えられた恵みになります。本当は秘跡を受ける側がきちんとヴァティカンにつながる、ヴァティカンの内にいる司祭からすべての秘跡、恵みを受けることが一番、最善、裁量なンですけれど。これも誤読したまま広めている方が多ござあます。





by ma_cocotte | 2017-10-02 15:54 | 『?』なKTOりっくん | Comments(0)